第三章 契約の印(3)
3
二日後の朝。ビーヴァは、ソーィエとセイモアと一緒に、森の中を歩いていた。
テイネを送るつとめを果たしたエビとビーヴァを、長は、ねぎらいの言葉で迎えた。ニルパの遺族も謝意を示し、エビの家族とタミラ(ビーヴァの母)は、何より無事な帰還を喜んだ。
だが、そこにラナの姿はなかった。いつもなら、とんで来て迎える少女が……。
いぶかしむビーヴァに、長は、シャム(巫女)の
青年は、戸惑った。すぐには受け入れられない話だった。
ひと晩そのことについて考えたビーヴァは、翌朝、まだ明けきらぬうちに起き出して、入巫の小屋へ向かった。行っても、会うことは許されない。時が到るまで、ラナが外へ出られないということは理解していたが、漠然とした不安に引き寄せられた。
外から、ちょっと声をかけてみるだけだ。きっと心配しているだろうから、セイモアが無事に帰っていることを、伝えておこう。――と、自分に言い訳をして、家を出る。
タミラは、息子の行動に気づいたが、見て見ぬふりをした。
夜明けの森は、淡い銀色の光に包まれていた。
エゾマツの枝を覆っていた藍の影が、朝の光にとけはじめる。その境に生まれた銀の光は、透明な風にゆらめいて立ち昇り、木々の梢を縁取ると、きらきら煌きながら地上に舞い落ちた。
雪のように降る木漏れ日の下を、ビーヴァは、ゆっくり歩いていった。
オコン川の女神の歌が、サルヤナギの森に響いている。意識をひろげれば、無数のテティ(神霊)の囁きが聞こえてくる。
倒れたマツのうろに溜まった水を吸っていたムラサキ蝶の群れが、ふわりと舞い上がる。ソーィエが駆け寄って、大喜びで追いかけたが、群れは嘲るように鼻先をかすめ、はらはら崩れながら飛び去った。
後からやって来たルプスの仔は、足を止め、つまらなそうにその様子を眺めた。
シャナ族のナムコ(村)まで往復した間に、セイモアは大きくなったと、ビーヴァは思った。脚は伸び、鼻も前へ出て、顔立ちが精悍さを増している。白い毛玉が跳ねるようだったのが、今は滑るようにするすると歩く。将来を予想させる素早さだ。
ビーヴァの
いずれ、自分たちとは
そんなビーヴァの心配を知らぬげに、ルプスの仔は、あちらこちら楽しげに匂いを嗅いでいる。
ビーヴァは、己の目的に意識を戻した。
ゆるやかな坂を登り切ったところに、真新しい小屋があった。切り立った崖を背に、木立に融けこむように佇んでいる。早速、ソーィエが駆け寄って柱の匂いを嗅ぎ、セイモアが後に続いた。
ビーヴァは、扉の前に立った。
「…………」
地面には、無数の足跡が残っていた。巫女の世話をするタミラたちが、毎日出入りしているのだ。ソーィエとセイモアは、興奮気味に鼻を鳴らし、匂いを辿って歩き回った。
ソーィエが、チコ(革靴)を鼻先で突ついて主人を促した。ビーヴァは、ちらりと相棒を見下ろし、すぐに視線を戻した。
セイモアは、前足の爪で扉の下をカリカリと掻いた。
カラマツの樹液の匂い。煤の匂い……炎と皮の匂い。数人の人の匂いに混じって、仔狼は、血の匂いを嗅ぎ取っていた。悲哀と諦めを含み、恐怖と薬にどぎつく染められたそれが、少女のものだと気づいたとき、セイモアは、ざあっと首筋の毛を逆立てた。
気分が悪い。
ルプスの仔は、きゅうん、と泣いてその場にうずくまり、前足の上に鼻を載せた。
扉の向こうから、すすり泣きが聞こえた。
「……ラナ?」
そっと、ビーヴァは呼んでみた。応えはない。扉を軽く叩き、繰り返した。
「ラナ。そこに居るのか?」
「…………」
やはり返事はなかったが、くぐもった、圧し殺したうめき声が聞こえた。嗚咽のように聞こえ、ビーヴァは眉を曇らせた。
足元で、仔狼が、くすんくすん鼻を鳴らし始める。
ビーヴァがもう一度、扉を叩こうとした時、
「来ないで……」
消えそうな声が、聞こえた。
「いや……」
「…………」
ビーヴァは、無言で手を下ろした。数年前の自分の経験を思い出すと、無理もないと思えた。
青年の左の頬と胸・腕には、モナ・テティ(火の神)との契約を示す紋様が刻まれている。今は平気だが、男でも、墨を入れられるときの痛みには耐え難く、途中で挫折する者がいる。
神々の加護を願う魔よけと成人の証は、彼等にとって、勇気と忍耐力を示す試練でもある。ビーヴァの刺青は平均的だが、エビのものほど広く、深く細かくなると、尊敬と賞賛に値した。
女のそれは、普通、男のものより小さく、範囲も狭い。だが、巫女は――王になる女性は、全身に彫るのだと聞いている。
どれほどの苦痛だろう。
ソーィエとセイモアが、不安げに身じろぎする。来るのではなかったと、ビーヴァは思った。ラナの苦しみを知っても、自分には、どうすることも出来ない。
彼は、扉に額をおし当てた。
「う……う、うう……」
ラナは、毛布の裾を噛んで声を殺した。濃厚な血の匂いに、吐き気がこみあげる。柔らかな毛織の毛布に触れただけで、激痛が走る。炎に炙られているようだ。
彼女の胸と四肢、左の頬には、無数の刺青が施されていた。
シラカバや翼をひろげたハッタ(梟)、大角をかかげたユゥク、そのユゥクに襲い掛かるアンバ(虎)など……。彼女の身を守ることを願って彫られたテティ(神々)の姿を、炎と星の紋様がつないでいる。乾いた血とにじんだ血がこびりつき、汗と墨とがまざり、紫色になっていた。
タミラたちが少女の肌に針と黒曜石の刀で傷を入れている間、ラナの意識は天空にあって、身体に起きていることを知覚していなかった。戻ったとたんに、焼けつく痛みに襲われた。触れてはならないと分かっているが、痛みのあまり、じっとしていることが出来ないのだ。
それだけではない。
テティ(神霊)との交感を可能にする薬は、恐るべき副作用を、彼女にもたらした。母の幻影が消えた直後、巨大な影に襲われた少女は、踏み潰され、色鮮やかな光が渦巻く空間へと放り出された。
喉から目に見えぬ腕を捻じ込まれ、内臓を裏返しにされ、手足を引きちぎられる幻覚に、耐えなければならなかった。
「あ、ああ――」
息を切らし、長い髪を振り乱して悶える少女に、タミラたちは、何もすることが出来なかった。苦痛が途切れたなら、身を清め、せめて水だけでも与えようと見守っているのだが(それが彼女たちの務めなのだが)、ラナの意識は、現実と悪夢の間をきわめて乱暴に揺さぶられ、ひとときも安らぐことは出来なかった。
「いや……や。かあさま……」
ビーヴァが訪ねたとき、ラナは、一人きりで小屋の中にいた。闇から浮き上がった意識が、幽かに懐かしい声を聞き取ったが、すぐさまそれは剥ぎ取られ、奈落の底に落とされる恐怖に入れかわった。
殆ど脱げかけた、血に染まった衣の中で、少女は目をみひらき、悲鳴をあげた。
「やあーっ! かあさま、かあさまっ!」
「…………!」
ソーィエとセイモアが、そろって耳をびくんと動かし、ビーヴァも、額を扉に当てたまま眼を瞠った。
掠れ、恐怖にひきつった叫び声は、聞き慣れた少女のものとは、とても思えなかった。
『ラナ?』
ビーヴァは息を呑み、改めて、自分と乳兄妹を隔てている扉を見詰めた。
『助けて、かあさま。タミラ、ビーヴァ……。』
少女の目に、部屋の中央で燃える炎は、闇の中から自分を狙う、巨大なばけものに見えた。ちぎれかけた脚を引きずり、這って逃げる少女に、怪物は圧し掛かり、襟首をくわえて振り回した。
がたたたん、と何かが倒れる音を聞いて、セイモアは跳び下がり、ソーィエは唇を歪めて牙を剥き出した。警戒の唸り声が、赤褐色の毛に覆われた喉からもれ始める。
ビーヴァは、茫然としていた。
マツの扉ごしに、すすり泣きが聞こえた。
「とうさま、助けて。ビーヴァ……」
倒れた拍子に炉に入ったラナの半身は、灰にまみれていた。残る半身は、赤く腫れた傷の上に衣をはおっている。帯は解け、胸の膨らみがこぼれていた。貧血と恐怖に息をあげ、うつろな瞳で幻影を見詰めて後ずさる彼女の背に、閉ざされた扉がぶつかった。
姿のないばけものが、ほくそ笑む。
怪物の
「ビーヴァ、助けて……」
脂と血の臭いをまき散らしながら近づいた怪物が、長い絶望の牙で、少女の喉を切り裂こうとしたとき。
ラナの脳に、低い声が飛び込んできた。
「ラナ?」
いまや、セイモアはすっかり怯え、この場から去りたくて仕方がないようだった。ソーィエも、唸りながら、耳をぴたっと伏せている。そわそわと動き回る二匹の上で、ビーヴァは困惑していた。
『いったい、何が起こっているんだ……?』
こんな話は、聞いていない。
シャムはただ、人より多く刺青を施すだけではないのか。切羽詰った悲鳴をあげねばならないような、何が少女の身に起きているのか。
禁を破って扉をひらくべきかどうか、ビーヴァは迷った。――既に、彼は、ここへ来た本来の目的を、すっかり忘れていた。――名を呼ばれ、助けを求められながら立ち尽くしていなければならない状況ほど、辛いものはない。
しかし……テティと契約を結んだシャムが、自ら扉を開けるまでは。誰も、彼女に力を貸すことは出来ないのだ。たとえ、生命を落とすことになっても……。
ビーヴァの背中の毛が、狼のように逆立った。
掠れた声が、聞こえた。
「……ビーヴァ?」
はっとして、ビーヴァは耳をすませた。扉の向こうで、ラナが囁いていた。
「そこにいるの? セイモア?」
彼より先に、セイモアが、きゅううんと返事をした。ソーィエが、うわぉん、と吼える。
ビーヴァは、ごくりと唾を飲みこんだ。
「ラナ……大丈夫か?」
「ああ、そこにいるのね……」
泣いているような嗤っているような、奇妙な震えを帯びた声は、青年の心に不思議な感覚を喚び起こした。
『ここにいるのは、本当に俺の知っているラナだろうか』
突然、そんな考えが浮かび、ビーヴァは息を呑んだ。
『こんな声を、していただろうか。確かに、彼女が応えているのだろうか……』
違和感は、ぞわぞわと彼の身体を這いのぼり、肌を粟立たせた。頬が強張るのを感じ、ビーヴァは、慌てて首を横に振った。
彼は、両掌を扉に当て、硬い声で呼んだ。
「ラナ」
「大丈夫よ……待っていて」
引き攣った喉を通るみじかい吐息の後で、声は優しく囁いた。
「すぐに戻るわ……だから。(待っていて。私のテティ……)」
「…………」
セイモアが、ぱさりと尾を振る。ソーィエは、不安げに鼻を鳴らした。
ビーヴァは、苦い気持ちで項垂れた。
たった一枚の扉に、自分たちは隔てられ、不安の源を確かめることすら出来ないのだ。最も大切な、心の在り処を……。
とりのこされた心細さと、無力感に、彼は立ち尽くした。
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