第三章 真の王(4)



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 ビーヴァがラナと不本意な再開を果たした翌日、ワイール氏族のナムコ(集落)は、静かではあったが、落ち着かない雰囲気に包まれていた。

 日中、ワイール氏族長のチューム(円錐住居)には、長老たちが集まり、話し合いを続けていた。カムロ(シャナ氏族長)とロコンタ氏族長さえ、なかに入ることは許されなかった。シラカバ(シャナ族)と月(ロコンタ族)と火(アロウ族)の氏族とは異なる起源をもつワタリガラスの氏族が、どんな方針を固めようとしているのか、ひとびとは固唾をのんで見守っていたいた。

 ラナは、トゥークとひとつのチュームに閉じこもり、日暮れまで出て来なかった。

 ビーヴァは、キシムとマシゥとともに、魚を干したり靴を修繕したり、マモントの牙を削ったり、木の実を集めたりして過ごした。漠然とした不安と予感をかかえていたが、努めて普段どおりにふるまっていた。

 夕方。

 チュームから出てきたワイール氏族長と長老たちは、広場に集まった。ラナとトゥークも、招かれて上座に坐った。カムロは仕方なく、ロコンタ氏族長は沈痛な面持ちで、客人の席に腰をおろした。

 篝火がともされ、ウオカ(酒)とユゥク(大鹿)の肉がふるまわれる。ビーヴァは、キシムとマシゥとともに、広場の外にいた。ワイール氏族やアロゥ氏族のほかの人々も、長たちの会話を聴いていた。

 ラナは、勧められた料理を断り、口火をきった。

「……決まったのですか?」

「ああ。決めた」

 ワイール氏族長は、背筋を伸ばし、躊躇なくこたえた。するどい視線を、シャム(巫女・ラナ)とその後ろのトゥークに当てる。

「ワイールは、真の王(=ラナ)とともに戦う。男たちに仕度をさせよう。女と子どもと年寄りは、ハヴァイ(山脈)のテティ(神々)におあずけする」

 篝火の明かりのとどかない夕闇のなかから、声にならないざわめきが湧きおこった。女たちが顔を見合わせ、子どもたちを抱きしめる。

 ラナは肯き、ロコンタ氏族長は眼を閉じた。カムロが苦虫を噛み潰したような表情で、ワイール氏族長を顧みる。長老たちは、難しい顔で項垂れていた。

 キシムの通訳を聴いたマシゥは、息を呑み、眉をくもらせた。

 ひとびとの反応を、ビーヴァは無言で見守った。落胆も、嘆きも感じなかった――

 ワイール氏族長は、広場の外へ呼びかけた。

「仲間の骨を拾いたい(仇打ちをする、という意味)という者は、前へ出よ。姉妹を救け、奴らをこの地から追い出すために、戦おうという者は。我とともによ」

 この言葉に、チュームの影にうずくまっていた人々のなかから、一人、また一人と、男たちが立ちあがった。光の輪のなかへ進みでる。みな、強い決意をひめたひとみの、若い男たちだ。妻の手を離して立ちあがる壮年の男。友人たちと手をとりあって前へ出る、若い女たちもいた。

 ワイール族の者が多かったが、ナムコをうしない、身を寄せているアロゥ族の者も多かった。カムロは、片胡坐をくんだ脚のうえで頬杖をつき、面白くなさそうに嘆息した。

 キシムは、ビーヴァを見た。青年は動かなかった。穏やかな横顔から内心を伺うことはできなかったが、キシムは、少しほっとした。

 四十から五十人ほどの男たちと、数人の女たちが集まったのを見て、ワイール氏族長は、ラナへ視線を戻した。シャムの背後に坐しているトゥークを見遣り、

「問題は、奴らを攻める方法だ。策はあるのか」

「塀のなかへ入る方法がある」

 トゥークは、ぶっきらぼうに答えた。

「入ってしまえば、奴らを倒すのは簡単だ」

「…………」

 ワイール氏族長は、すうっと眼を細めた。トゥークの声音にほんのわずか含まれる、嘲笑の響きを聴きとったのだ。それは、エクレイタ族に対するものか、森の民に対するものか(或いは、両方か)――。

 トゥークは、顔色ひとつ変えなかった。

 ワイール氏族長は、改めて仲間に向きなおった。沈思しているロコンタ氏族長と、すっかり不貞腐れている若い氏族長に。

「月の兄(ロコンタ氏族長)、シラカバの弟(シャナ氏族長)よ……。この人数で戦えば、我が氏族は、絶えるやもしれぬ」

「同胞よ……」

「残る者たちを、頼む。ハヴァイ山の北で、逢えるように」

「…………」

 ロコンタ氏族長は、もう何も言わなかった。カムロはしぶしぶ頷いたが、トゥークに投げかける視線には、不信と怒りがこもっていた。

「兄弟たちよ!」

 ワイール氏族長は、立ちあがった。両手をひろげ、人々に向きなおる。魚皮製の外衣がひろがり、紋様のワタリガラスが翼をひらく。磨かれた黒曜石の石槍をかかげ、ときをつくった。

「いざ、支度をととのえよ! 女たちを取り戻せ。仲間の骨を拾うのだ。テティの掟に従わぬ者たちを、去らせよ!」

 おお! とも、わあ! とも聞こえる喚声があがった。男たちは、槍を、弓矢を、マラィ(大刀)を振りあげた。口々に叫び、復讐をちかう。

『ビーヴァ……』

 男たちが気勢をあげるなか、ラナは、眼だけで青年の姿を探したが、みつけることは出来なかった。


          *


 話の途中で、ビーヴァはきびずを返していた。ナムコを離れ、自分のチュームへ向かう。マシゥは彼に従い、キシムもあとについて行った。

 紫色の夕闇にしずむ木立を歩きながら、マシゥは項垂れていた。キシムは、杖をつく彼の右肩に片手をあて、声をかけた。

「マシゥ。あんたは、ここにいない方がいい」

「やはり……」

 マシゥは立ち止まった。始まってしまうのか、という言葉を呑む。キシムは肯いた。

 公然と、エクレイタ族と戦うことを宣言したのだ。これ以上とどまることは、彼の死を意味した。

 マシゥは唇を噛んだ。今度こそ、去る時がきた、と思った。

 ビーヴァは、数歩さきで足を止め、この会話を聴いていた。二人の傍に戻ってくると、さらりと言った。

「俺も行こう」

 口調はいつもと変わらず静かで何気なかったが、マシゥは、身の内にふるえを感じた。眼をみはる。

「ビーヴァ!」

 ビーヴァは頷き、繰り返した。

「貴方と一緒に、俺も、エクレイタ王のところへ行こう。ソーィエと、セイモアも」

「…………」

「俺なら、狩りをしながら移動できる。キィーダ(小舟)と橇も、あつかえる」

「かたじけない……」

 マシゥは、青年の手を両手で握った。独りで帰還する覚悟がないわけではなかったが、この申し出は嬉しかった。喜びが、胸の奥からこみあげて喉をふさぐ。

 キシムは、何も言えなくなっているマシゥを眺めていたが、やがて、そっと促した。

「先に戻っていてくれないか? ビーヴァと話したいことがある」

「承知した」

 マシゥは微笑むと、二人に片手をあげてみせた。先に斜面を登っていく。


 ――ビーヴァは、マシゥの姿が夜に融けるのを見送り、ふりむいた。キシムは、胸の前で腕をくみ、平坦な口調で問いかけた。

「たすけようとは、思わないのか?」

「え?」

 ビーヴァは瞬いた。

「……たすける?」

「そうさ」

 キシムは、顎でラナのいる方を示した。ビーヴァの黒い瞳に、影がさす。

「……ラナの身に、危険が及ぶことはない。ロコンタ族長がいるし、カムロも――」

「そういう意味じゃあない。はぐらかすな」

 キシムは、彼の言葉をさえぎった。眼を細め、声をひくく落とす。

「……気づいているんだろう? あいつ(トゥーク)はケレ(悪霊)だ。それなのに、放って行くのか? ……今なら、まだ。お前なら、シャム(巫女=ラナ)をたすけられる」

「…………」

 ビーヴァは項垂れた。さすがと言うべきか。ひとの外見より、魂のありかたをるシャム(巫女)ならではのことばに、たちうちできない。身体の脇でにぎった拳に、力をこめた。

 途方に暮れるというよりかたくななその態度に、キシムは舌打ちした。いくつか適切な言葉をさがしたが、結局、遠慮のないひとことになった。

「無神経だな」

 ビーヴァは、当惑した表情になった。キシムは、苦虫を噛み潰した。

「あの娘は、お前が好きなんだ。分っているんだろう? なのに、いつまで気づかない振りをする」

「……俺たちは、アロゥ(同氏族)だ」

「それがどうした」

 囁くようなビーヴァの台詞を、キシムは一蹴した。

「氏族の禁忌より、シャムがケレに憑かれることの方が、問題だ。……トゥークが王になるのを、見過ごせと言うのか」

 ビーヴァは、さらに深く項垂れた。

 森の民にとって、同氏族内での婚姻は、強く戒められている。そのために、ビーヴァは友人を喪い、キシムは人生を変えられた。ことの重大さを十分知っている彼(彼女)の口から、こんな言葉が出るとは……。

 どう応じればよいかわからず、ビーヴァは悩んだ。想いをあらわそうと、ぎこちなく手を動かした。

「……小さかったんだ」

「え?」

 胸の前に両手をひろげ、だいたいの大きさを示す。ビーヴァは、ぼそぼそ繰り返した。

「こんなに……小さかったんだ。ラナが、うちに来た時」

 キシムは、眼をまるく見開いた。何の話かと思う。

 とつとつと、ビーヴァは続けた。

「弟が産まれた年の冬は、病が流行して、大勢が死んだ。弟も、急に熱をだして死んでしまった。……テティ(神々)に犠牲を捧げて、シャム(ラナの母)が祈って……亡くなって、やっと、はやりが鎮まった」

「…………」

「『みなのために、シャム様が命を落とされたのだから。誰かが、ラナ様をお育てしなければならない』と言って……母さんが、引き受けた」

 ビーヴァは、片手で顔を覆った。隠しきれない苦悩が、声にあふれた。

「ずっと、一緒に暮らしてきたんだ……。『お前はおにいちゃんだよ』って、言い聞かされた。本当はいけないけれど、産着も替えた。……『何があっても守らなければならない』と、母には言われたし、『娘を頼む』と、長に頼まれた。――それは、そういう意味じゃないだろう」

「……ごめん」

 キシムは謝った。素直に思った。

「無神経なのは、オレの方だ。……悪かった」

 ビーヴァは首を横に振ったが、彼(彼女)を見ることは出来ず、唇を噛んだ。

 青年の横顔を見ながら、キシムは考えた。――そうか。

『そういうことか……』


 ビーヴァにとってラナは、幼い頃をともに過ごした《妹》であり、今では、ただ一人生き残った《家族》だ。

 神聖なシャム(巫女)であり、母の遺言によって守らなければならない少女であり、父とも慕っていた長から、将来を託された娘だった。

 男女間の色恋の感情で、片付けられる相手ではない。

 彼女を救けるために、ビーヴァは、ロカム(鷲)にも、セイモアにも憑依した。たとえ命を捨てることになっても、いとわないだろう。

 だが、彼に出来るのはそこまでだ。


 ラナの望みは、叶えられない。


 キシムは理解した。――ビーヴァだけが、トゥークの手からラナを救うことが出来る。しかし、彼には出来ない理由を。

 ビーヴァも、ここにいない方が良かった。ラナが彼に執着していることを、トゥークは知っている。……いずれ、彼を殺そうとするだろう。


『戻るのではなかった』 と、ビーヴァは考えた。

 あの日、ラナから手製の飾り紐を渡されたとき、戻らない方がよいのかもしれない、と思った。まったく、その通りだったのに。何故、戻ってしまったのだろう。

『お前たちを、近く育て過ぎてしまったかもしれない』という、母の言葉が思い出される。

 青年にとって、事態を複雑にさせる要因は、他にもあった。


 ビーヴァは、ぽつりと言った。

「……俺は、キシムが好きだ」

「オレは男だ」

 とりつく島がない口調だった。ビーヴァは、首を横に振った。

「違うよ。キシムは――」

「シャム(巫女)だ」

 実に、じつに素っ気ない。どれも予想された返答だった。

 ビーヴァは、首を振りながら、彼女を抱きよせた。肩に顔をうずめる。キシムは抗わなかったが、声は冷めていた。

「それは、変わらないぞ」

「知ってるよ……」

 それでも。魅かれてしまうのは、どうしようもない。

 ビーヴァにとってキシムは、兄のようで、姉のようで……師であり、大人の女であり。エビのいない今は、何より大切な仲間だった。それは、恋とはちがう感情かもしれないが。

 うしないたくない、と思う気持ちは、ラナに対するよりも強かった。


 キシムは、半ばあきれ、半ばあきらめた表情で青年に身をゆだねていたが、やがて、

「……ビーヴァ」

 軽くためらったのち、囁いた。

「お前に、オレのマムナ(真の名)をあずける。――――だ」

 ビーヴァは、一瞬、何を言われたのかわからなかった。それから、意味を理解した驚きと焦りが、面をよぎる。腕を解き、彼女の顔を見ようとした。

 キシムは、片方の掌を彼の眼前にたて、言葉を封じた。

「言うな。お前のマムナを知っても、オレの巫力ちからでは、どうすることも出来ない。だから、言わなくていい」

 ビーヴァは、ますます混乱した。シャムが口にすれば、霊魂を縛ることのできるマムナ。その威力を、彼は身をもって知っている。交換することで均衡をたもつと教えたのは、キシムだ。

 それなのに、何故?

 青年に横顔を向け、キシムは、やや苦い口調でつづけた。

「オレは……オレたちの王は、お前だと思っている。アロゥのシャム(ラナ)ではなく。……テティ(神霊)の主。ムサ(人間)とテティをつなぐシャマン(覡)は、お前だ。だから」

 絶句している青年に向きなおり、キシムは、あわく微笑んだ。

「オレのマムナを、あずける。必要になれば、使ってくれ」

「キシム……」

「必ず、生きて還れ」

 ふいに、キシムは真顔に戻った。のど元に杖の切っ先を突きつけるような鋭さで。

「約束しろ。マシゥを送ったら、必ず、戻ってこい」

「……わかった」

「還ったら、話のつづきを聴いてやるよ」

 挑戦的に微笑んで身をひるがえすキシムを、ビーヴァは、呆気にとられて見送った。ふと、息をつく。

 キシムらしい言い草だった。




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