白夜の星(4)



               4


 太陽が西の尾根のむこうに隠れると、空はあわい群青に染まった。

 広場のあちらこちらで、炬火たいまつが点された。祭壇の両脇には篝火が焚かれ、ウオカ(酒)や干した魚など、人々の捧げものを明るく照らし出す。

 夏至祭りが始まった。

 ラナは、夏の衣のうえに、ユゥク(大型の鹿)の腹仔の毛皮から作られたシャム(巫女)の衣装を羽織り、頭にはシラカバの緑葉をかざって、祭壇の前に坐った。男たちが丸太を叩いて拍子をとり、女たちが口琴を鳴らして風を奏でる。

 ラナは、神霊に供えたのと同じウオカを口に含んで身を清め、イトゥ(神幣)を捧げ持った。


     今宵、太陽が最もながく大地を照らす

     つどいし先祖のテティ(御霊)、親しきみたまよ

     我らが新しきナムコ(集落)に、祝福を授けたまへ

     モナ(炎)は輝き、シラカバは萌えいづる

     ワタリガラスは唄い、月は日とともに微笑む

     うるわしき森のテティよ、我が同胞はらから

     ともに モミの緑枝を かかげ往かん――


 ラナがうたい、イトゥを掲げて拝礼すると、他の者も唱和した。氏族長たち、女たちも。ラナが立ち、祭壇にイトゥを供えると、男たちの叩く丸太の音が、ひときわ大きくなった。

 ゴーナ(熊)の面をかぶり、毛皮をまとった若い男が、広場の中心に跳びだした。ひと呼吸おいて、ユゥクの角をかかげた男たちが現れる。

 歓声があがった。テティに扮した男たちは、それぞれの動物を表す舞いを踊り、足を踏み鳴らした。

 続いて、狩人の装束を身に着けた男たちが、石槍を手に現れた。実際に使うものではなく、この日のために作られ、装飾を施した、特別な槍だ。厳しい冬をのりこえられた喜びをうたい、この夏の獲物の豊かさを、イェンタ・テティ(狩猟の女神)に祈って踊る。

 観ている者たちは、手を叩き、膝を打ってはやしたてた。ウオカと料理が運ばれ、氏族長たちが口にすると、他の者にもふるまわれた。

 これから三日三晩、歌っては踊り、飲んでは唄い、演じ続けるのだ。

 普段は離れて暮らす四氏族が集まるので、若者たちには出会いが生まれる。はやくも、建物の陰や篝火の周囲で、気の合う者たちの談笑が始まっていた。

 ラナは、氏族長たちの席よりさらに上座に、ひとり坐って、踊りを眺めていた。やがて、観ているのに飽きたのか、疲れた様子で席をたった。年上の氏族長たち、長老たちに挨拶をして、場を離れる。

 祭りはながい。誰も、彼女のふるまいを不審とは思わず、まして、咎める者などいなかった。

 王の家に戻ったラナは、シラカバの冠を脱ぎ、シャムの衣装を脱いだ。その二つを長持ちの上に置いて、炉端へ向かう。

 祭りの喧噪を嫌ったのか、セイモアはいなかった。

「…………」

 ラナは、溜息をついて坐った。身体が重い。いつまでも明るいので判らないのだが、本来なら、とうに真夜中を過ぎている。

 太鼓の音は続いていた。男たちの囃し声、笑い声が、夜風にのって流れてくる。

 ふいに、ラナは、泣きたくなった。


 トゥークの名は、ラナに、彼の暴力を思いださせた。怒りと絶望とともにふるわれた力の記憶がよみがえり、彼女の身はこわばった。

 それだけ、ではない。

 名も、顔も、おぼえていたくない男。タミラ(乳母、ビーヴァの母)を、父王を殺し、故郷をうばった者……。彼女の身をけがし、力ずくであばき、たましいの底に達する深いきずを負わせた男。――かの者の仕打ちがよみがえり、ラナは、心臓が握りつぶされる心地を味わった。

 呼吸がとまる。体温が下がり、小刻みに震えはじめる。

 ラナは、自分で自分の身を抱き、うずくまった。腰に佩いた守り刀が胸をつき、こぼれた髪が床におちたが、構わない。

 イラクサの茣蓙に頬をおし当て、眼を閉じる。ふるえと、こみあげる嗚咽を抑えようと、歯をくいしばった。

「ビーヴァ」

 その名はすでに、ひとりの男のものではなかった。ラナにとって。かれをとりまく温かな記憶、優しいひとびと、今はもう失われてしまった美しい故郷、そこに暮らしていた無邪気な自分……。もうとり戻すことは出来ない。けれども、胸の奥でたしかに瞬いている、小さなともしびだった。

「ビーヴァ……」

 名を呼ぶ。消えそうにゆらめく焔を、そのぬくもりを守ろうと、身を縮める。彼女に、突然、声がかけられた。

「ラナ様」

 はっとして、ラナは身を起こした。ニレが、セイモアとともに、立っていた。

 セイモアは、鼻を鳴らして近づき、ラナの頬を舐めた。留守にしていたことを詫びるように、身をすり寄せる。ラナは、《彼》の首に腕をまわし、深い毛のなかに顔をうずめた。

 生きているもののぬくもりが、彼女をあたためた。恐怖が消えてゆくのを感じ、ラナは、ほっと息をついた。

 ニレは、彼女の前に、白湯を入れた器を置いた。

「ラナ様は……ビーヴァが、お好きだったんですね……」

 そっと呟く。ラナは、彼女を振り向いた。

「……覚えてる?」

 ニレに隠す必要はないだろう。寂しく微笑んで、ラナはこたえた。ビーヴァのことを問われるのは気恥ずかしいが、生前の彼について話せるのは嬉しかった。

 ニレは、申し訳なさそうに、首をかしげた。

「おとなしい子、でしたよね?」

「……そうね」

 ラナは、くすりと哂った。さもありなん。ビーヴァの形容に、にぎやかな、などという語はあり得ない。

「残念ですが、話をした覚えがないのです。あたしたちは同じ氏族ですから、もとより、会話をしませんが。子どもの頃も、目立つのはエビでした」

「エビ……」

 ラナは、胸に痛みを感じながら、うなずいた。

 アロゥ氏族の『一の狩人』だったエビは、幼少の頃から、周囲を率いる存在だった。ビーヴァは、彼に憧れていた。

 エクレイタ族との戦いで命を落としたエビと、彼の妻ロキは、テティ・ナムコで再会しただろうか。

「それに、どちらかと言うと、あたしは、ケイジが好きでした」

 ニレは、悪戯っぽく微笑んでつづけた。ラナは、驚いて彼女を見た。

「ケイジ、父さん?」

「ええ」

 ニレは、声をたてて笑った。黒い瞳に、懐かしむ光が宿る。

「ビーヴァの父親の方です。あたしは子どもでしたが、素敵だなあって思っていました。タミラはいいなあって……。ビーヴァは息子なんだから、将来、ケイジみたいになっていたかもしれませんね」

 三人とも、既に、この世にはいない。ニレは眼を伏せ、囁いた。

「……ケイジみたいな人と、結婚できたらいいなと、思っていました」

「ニレ」

「ラナ様。……ラナ様は、あたしに、結婚しろとは仰らない。だから、あたしも、言いません」

 エクレイタ族に囚われていた間にも、ラナを、仲間の女たちを守るために、おのが身を犠牲にした女性。勇敢なニレは、受けた傷を覆うかのように両手を胸にそえ、声にちからをこめた。

「想う相手と一緒になれたとしても、幸福とは限らない。まして、気が進まないのに、無理をすることはありません。独りで生きる覚悟があれば、充分かと」

「…………」

「いつか、この傷が癒えて、誰かを好きになれればいいと、あたしも思います。ですが、他人ひとに言われたくはありません。いつか、などということは、テティが知っているでしょう」

 ラナは、黙って頷いた。

 ニレは、ラナに白湯を手渡し、しとねを整えると、両手をついて一礼した。

「大丈夫ですか? 眠れますか?」

 ラナは、毛織物の上にねそべっているセイモアを見遣り、微笑んだ。

「大丈夫よ。セイモアが居てくれるわ」

 ニレはルプス(狼)を見て、ムサ(人間)の男より頼りになると思ったのだろう。微笑むと、改めて一礼し、さがって行った。


          *


 スレインの待つ自分のチューム(円錐住居)へ戻ろうとしていたキシムは、王の家の陰で、真っ白なユゥク(大型の鹿)に出くわし、息を呑んで立ち止まった。

 すぐに、この世の存在ではないと理解する。

 純白のユゥクは、枝分かれした巨大な角を掲げ、金にかがやく瞳で彼(彼女)を見た。その背が、ぼんやり夜に透けている。二羽の小鳥が肩で羽をやすめ、足元には、ウサギとリスが群れていた。

 ユゥクの背中から現れた銀色の蝶の群れが、風にのって枝角をかすめ、ひらひら踊りながらキシムの胸を通り抜ける。羽ばたきの度にこぼれる鱗粉が、光の粉となって降りかかり、スズランに似た香りをまいた。

 眼を瞠るキシムの前に、青年が現れた。

「……驚かすなよ」

 キシムは、息をついた。

 ビーヴァは、穏やかだが、相変わらず困惑した表情で、キシムを見た。胸の前で腕を組み、ユゥクと並んで、壁にもたれるように立っている。足元にキツネが現れ、リスたちが上着の裾に跳びうつっても、気にする風はない。

 テティ(動物霊)が増えていることに、キシムは気づいた。まるで、ビーヴァを守護するかのようだ。それに、自分はまだ幽体になっていない。

 ビーヴァの意志だと解った。彼が望んで現れたのだと。

 安堵する。――まさか、もう二度と逢ってくれないとまでは思わないが。喚んでも応えてくれないのでは、と危惧していたのだ。

 そんなことを、口にするキシムではないが。

 ユゥク・テティが巨きな枝角を振って、ビーヴァの身体に入っていく。他の小さなテティたちも、蒼白く輝いて彼に吸い込まれていくのを、キシムは見送った。

「話は聴いていたよな?」

 ビーヴァは、眉間の皺を深くしてうなずいた。

「何とか、ならないのか?」

《……ラナに憑いているテティは、俺たちとは違う》

 キシムの言わんとすることを察し、ビーヴァは、やや苦い口調で答えた。

《大昔、アロゥ(氏族)の祖先に憑依した、ゴーナ・テティ(熊の神)だ。ながい間に、十数人のシャム(巫女)の巫力と霊魂を吸収して、もとの意識はなくなった。でも、最初の契約は生きている。……アロゥにちから(霊力)を授かる代償に、子孫をさしだしたんだ》

「カムロの言ったことは、可能だと思うか?」

 ラナがビーヴァを想い続け、生きている男を夫として子を成すことがなければ……彼女に憑いたテティ(神霊)は、他の者を選ぶだろうか。楽観的な話だが。

 ビーヴァは、首を横に振った。

《ラナがテティを宿せるうつわでなければ、壊されるだけだった。選ばれた者がテティを拒めば、どうなるか、キシムも知っているだろう》

「そうか。やはり……」

 キシムは、唇を噛んだ。どうすれば、ラナを救うことが出来るのだろう。


《……苦しいんだ》

 ビーヴァは彼女に横顔を向け、ぽつりと言った。あまりに小さく、あまりに短い声だったので、キシムは聞き返さなくてはならなかった。

「え?」

《苦しいんだ。ラナと居ると》

 本当にいきぐるしいとでも言うように眉根を寄せ、ビーヴァは、悲し気に続けた。

《どうしてなのか、解らない。キシムと居ると、嬉しいのに。ラナと居ると、つらくなる。どんどん、苦しくなる》

 キシムは、少し驚いて彼を見詰めた。

 無口で口下手な青年は、無口で口下手らしく、言葉えらびに苦労していた。

《むかしから、そうだった……。ラナは、俺を追いかける。俺のことを、探しまわる。俺がちゃんとそばに居ても、見えていないみたいに》

『観えていないだろうが』と、言いたくなるのを、キシムは堪えた。そういう意味ではない。

 ビーヴァは、片方の手で顔を覆い、ほとんど息だけで囁いた。

《ラナが俺を想ってくれているのは、知っている。だけど、俺は応えられない。……無理なんだ。それは、ラナも、判っているはずなのに。……俺を呼ぶのを、止めようとしない》

『ああ』と、キシムは思った。この二人のすれ違いの原因は、そこにあるのかもしれない。

 だとしたら、出来ることはあると考え、口を開けた。

「判っていないかも、しれないぞ」

 ビーヴァは、顔をあげて、キシムを見た。キシムは、首を一方へかたむけた。

「ビーヴァ。お前……今まで、それを、ラナ様に言ったことはあるか?」

 ビーヴァは、かぶりを振った。キシムは、溜息を呑んだ。

「お前が苦しいって、伝えたことは?」

《ない……と、思う》

「だからだよ」

 ビーヴァは、怪訝そうに瞬きをした。

 キシムは、ゆっくり眼を閉じ、眼を開けた。穏やかに言う。

「あのさ、ビーヴァ。世の中には、頭では分かっていても、心がついていけない。諦めたくても諦められないことが、沢山ある。恋なんて、特にそうだ」

《…………》

「諦められるなら、イングとリングゥンは死ななかった。ニルパとアリは……。ディールの親父とルシカも、そうだったろう」

 ディールの名に、ビーヴァはぎくりとした。キシムはその反応に気づいたが、表情を変えることなく、淡々と続けた。

「ラナ様も、きっとそうだ」

《…………》

「ラナ様は、お前を想いながら、奴らに捕らわれた。お前に心を残したまま、壊された……。お前が死んでいると、頭では分かっている。だけど、お前はそこに、セイモアと一緒にいる」

《…………》

「諦めようったって、諦められないんだよ」

 ビーヴァは口を開けて言いかけ、言えず、口を閉じた。項垂れ、考えこむ。キシムは、眼を細めて、その様子を見守った。

 やがて、ビーヴァは、ぽつりと言った。

《キシム。俺は……恋をしたことが、なかった》

『ああ、そうだろうな』思ったが、キシムは言わなかった。代わりに、溜息をついた。

「話し合うわけには、いかないのか」

《…………》

「お前を苦しめることは、ラナ様の本意じゃないはずだ。ちゃんと話せば、解るだろう。……ラナ様だって、苦しいんだ。終わらせてやるのが、お前のつとめだ」

 ビーヴァは、また考えこんだ。

『オレだって、諦められないんだ』キシムは、内心で呟いた。『ラナ様に、諦められるわけがない……』


 マシゥといい、ソーィエといい。彼を想う者たちの嘆きを観て、平気でいられるビーヴァではない。ムサ・ナムコに心を遺しているからこそ、テティとなっているのだ。

 ラナと逢えば、どうなってしまうだろう。

 おそれる気持ちは、キシムにも理解できた。だが、このままでは、いつまで経っても、どうどうめぐりだ――


《キシム》

 しばらく考えた後、ビーヴァは、俯いたまま訊いた。

《俺の杖を、持っているか?》

「ああ。ここにある」

 キシムは、腰に左手を添えて答えた。シャマン(覡)の杖。マモント(マンモス)の牙から削りだしたビーヴァの杖は、今では、キシムの杖とともにある。

 ビーヴァは眼を伏せた。

《俺が、ケレに堕ちたら……その杖で、はらってくれ》

 キシムは、一瞬、呼吸をとめて彼を観た。

「承知した……。だけど、ケレになったお前を、どうやって見分ければいい?」

《キシムになら、判るよ》

 ビーヴァは、苦笑して言った。襟元に、ちらりとリスの頭がのぞく。

 数匹のリスのテティが、上着の襟合わせから現れて、彼の肩にのぼった。胸をわたり、反対側の肩へとよじ登る。その間に、ビーヴァの身体は蒼白く輝きはじめ、背中には、ロカム(鷲)・テティが現れた。

 銀灰色のロカムは、彼の肩にとまり、ばさりと羽を動かした。風が、キシムの頬を撫で、髪を揺らした。

 ビーヴァとテティの身体は、蒼く透け、消えようとしていた。

 青年の囁きが、キシムの脳裏で繰り返した。

《キシムなら、必ず、判る。頼んだよ……》


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