第一章 麦の民(5)


          5


 太陽が西へかたむくにつれ、《女の庭》は、騒がしくなった。

 北の地では、夏の夜、空がすっかり暗くなることはない。太陽はハヴァイ山脈の向こうに隠れたが、天頂は蒼白く、いつまでも明るかった。

 エクレイタの男たちは、一日パンサの穫り入れで汗を流した後、女たちが屋外に並べた机のところへやってきた。それぞれ、食事につかう器を手にしている。女たちは、彼らのために、焼いたパンサや木の実を机に並べ、干した肉や魚の料理を用意する。夜ごと、男たちはここへ来て、女たちと食事をともにするのが、エクレイタ族の習慣だった。

 かわいた洗濯物をとりこんでいたラナは、男たちの話し声が近づいてくるのを聞くと、急いで衣類をかかえ、女の家へ駆けもどった。ルシカは、水を入れた桶を提げて戻る途中、エクレイタの女たちと言葉を交わし、次の仕事の指示を受けた。

 ラナは、薄暗い家のなかを、ハルキの待つ奥へと進んだ。抱えた衣類のなかから、手ぬぐいや肩掛けなどがこぼれるのを、その度、膝を曲げて拾い上げる。枯れ草と外衣をかさねた寝床に、朝と同じ姿勢で横たわっていたハルキは、うすく眼を開けてラナを迎えた。

「大丈夫? ハルキ」

 軽く息をはずませてラナが問うと、ハルキは、瞼を伏せて頷いた。そのまま、眼を閉じてしまう。ラナが置いて行った朝食には、手をつけていない。

 様子をみに戻る度、ハルキの顔色が悪くなっているように思え、ラナは気が気ではなかった。

「ルシカ」

 ルシカは、少女のとなりに腰を下ろし、桶の水につけていた手ぬぐいを取り出した。かたくしぼって、ハルキの額の汗をぬぐう。高熱と、項から胸元へひろがる発疹に気づいてはいたが、他にどうすることも出来なかった。

 扉が開き、エクレイタの女たちが入って来た。入口近くの炉に火をおこし、土製の鍋を置いて料理を始める。ラナは、ちらりとそちらを見遣ったが、すぐに視線を戻し、いらいらと唇を噛んだ。

「何かしら……この、ぶつぶつ(発疹)?」

「わかりません」

 ルシカもうろたえていた。

「見たことのないものです。訊いてきましょう」

 そういうと、桶と手ぬぐいはそのままに踵をかえし、二人のそばを離れた。ラナがハルキを見守っていると、やがて、ルシカはエクレイタの女を一人連れて戻ってきた。

 背の高い女だった――ラナは、そう思った。ルシカとラナより頭一つ分背が高く、痩せている。長衣を頭からかぶっていても、鼻筋のとおっているのが印象的だ。――女は、栗色の髪のあいだからちらとラナを見遣ると、無言でハルキの上にかがみこんだ。熱い息を吐くハルキの顔を見おろし、そっと襟をひらいて胸元の発疹をながめ、身をおこす。首を横にふり、そっけない口調でルシカに話しかける。

 ルシカは、眼をまるくみひらいた。ラナには解らない言葉で、問い返す。女は肩をすくめ、一言二言、呟くようにこたえると、炊事場へ戻ってしまった。

 一連の女の態度と、やや呆然としているルシカの表情をいぶかしみ、ラナは彼女の袖を引いた。

「何て? ルシカ」

「……ああ。すみません、ラナさま」

 扉のひらく音がして、また入口が騒がしくなった。ルシカは、一瞬そちらに気を取られたが、ラナとハルキを交互に顧みて、不安げに口ごもった。

「『子どもの病気だ』と、いうのです。エクレイタの子どもが、一度はかかる病気だと。放っておいても治るから、大丈夫、と言うのですが――」

「子どもの病気って……」

 ラナは、眉間に皺をよせた。

 大人のハルキが、なぜ、子どもの病気にかかるのか。

 ニチニキ邑へ来て日のあさいラナは、未だエクレイタの子どもの姿を見てはいなかった。そう大勢いるとも思われないのに、何処でうつされたというのだろう?

 エクレイタ族の病気だというのも、不安だった。――ラナたち森の民の世界には、病をつかさどるテティ(神霊)がいる。時には死者もだす恐ろしいテティだが、人や動物に戒めと警告を与え、ムサ・ナムコ(現世)の規律をただしている。

 そのテティのあずかり知らぬやまい……。テティの力の及ばない土地にいて、ハルキは、耐えることが出来るのだろうか。

 ハルキが背をまるめ、痰のからむ咳をした。青白い顔がにわかに苦しげにゆがみ、咽喉でひゅーっと風のような音をたて、肩を揺らす。ラナは、彼女の背をさすった。衣服ごしであっても、掌に身体の熱さが伝わってくる。うなじから頬へと広がる発疹が、不気味に紅く浮きあがって見えた。

 放っておいて大丈夫な病状とは、とても思えないのだが……。


 ラナたちが途方に暮れていると、再び入口のあたりが騒がしくなった。外の男たちと言い争う声がして、扉が閉ざされる。ラナは聞き逃していたが、何かひきずるような物音がこちらに近づいているのに気づき、顔だけで振り向いた。

 そうして、息を呑む。

 ルシカも、振り返ると同時に目を瞠り、両手で口をおおった。悲鳴を呑むのどの動きが、傍らから見て取れる。

 ラナは腰をうかせ、帰って来た仲間を迎えた。

「ロキ」

 かすれた声で囁く少女に、ニレは無言でうなずいてみせた。ロキは、彼女に肩を支えられ、片足をひきずっている。右手を腰にあてがい、苦痛にゆがめた唇の端からは、血が滴っている。

 ルシカは立ち上がり、ニレの反対側からロキを支えた。ラナがハルキの隣に大急ぎで整えた寝床に、彼女を横たえる。出来るだけそうっと下ろしたが、体重が自身のからだにかかった途端、ロキはうめきごえをあげ、身をよじらせた。

 彼女の頬にも首筋にも、むごい殴打の痕があった。かばう腕にも大腿にも、無数にあるのだろうと思われた。

 ラナは、己の顔から血の気がひき、身体の芯から震えが拡がってくるのを感じた。

「誰が、こんな」

 ロキは、細く眼をあけてそんなラナを見上げたが、少女を安心させようとつくった頬笑みは、襲いかかる痛みに押しつぶされた。歯をくいしばって耐える彼女のこめかみを、ルシカは、新しく濡らした布でぬぐった。

「どうして……」

 動揺を抑えきれず、ラナは、ルシカとニレを見遣ったが、二人とも、彼女の視線をうけとめることは出来なかった。ルシカは項垂れ、ニレは唇を噛んでいる。しかし、蒼ざめて唇をふるわせている少女に、誰かが告げなくてはならないと思ったのだろう。ニレが、重い口を開いた。

「……ここにいるエクレイタの女たちは、男たちが連れてきた、彼らの連れ合いや娘、子どもたちです。邑をつくり、パンサを育てるために――男たちの、身のまわりの世話をするために。だから、みな、決まった相手がいます」

 低くささやきながら、ニレは視線をあげ、ラナを見た。少女の顔がこわばっているのをたしかめ、再び眼を伏せた。

「しかし、男たちのなかには、独り身で、相手のいない者がいます。ここへ来て、連れ合いを喪くした者も……。あたしたちの仕事は、そういう男たちの相手をすることです。一人で……数人ずつ。相手を、しています」

 ルシカは、ロキの口元にこびりついた血をぬぐいながら、深く、深く項垂れた。

 ニレが見ると、ラナは凝然と目をみひらき、凍ったように彼女を見詰めていた。膝に置いた手が、わなわなとふるえている。ニレは、痛ましさを覚えて眉を曇らせた。

「あたしたちは、彼らに従うという約束で、あそこを出てきました。でも、ロキは違います。ロキは、男たちを拒んでいるので、こういう目に――」

「ニレ!」

 たまりかねて、ラナは叫んだ。それは、かすれた息だったので、エクレイタの女たちには聞かれなかったが、ニレは口を閉じた。悲しげな黒い瞳を見詰め、ラナはあえいだ。心臓を握りつぶされたような苦しさだった。

 ラナの脳裡には、あの時の記憶がよみがえっていた。身体に。コルデに殴られ、辱められたときの苦痛と屈辱が――。それだけでなく、彼女の呼吸をふさいだのは、自分がニレたちの枷になったという思いだった。

 自分があそこに残っていたせいで、彼女たちは、逃げることも出来ず、苦しみに耐えなければならなかったのだ……。

 背筋が冷たくなった。からだじゅうの毛が逆立ち、奥歯が鳴り始める。

 ニレは眼を閉じ、ゆっくり首を横に振った。囁きは、優しい諦めをおびた。

「ラナさま。あたしたちは、ルシカも、たとえテティ(神霊)が助けに来て下さっても、ナムコへ帰ることは出来ません。でも、ラナさまとロキは違います。……どうか、ロキをお願いします」

 そう言って、立ち上がる。ラナは、彼女の衣の裾をつかまえようとしたが、すり抜けられてしまった。

「待って、ニレ。違うの。……待って!」

 ラナは、部屋を出ていくニレに追いすがろうとしたが、にわかには立ち上がることが出来なかった。ルシカが少女の腕を掴み、引きとめた。早口に囁く。

「今、外へ出てはいけません。ラナさま」

「放して。だって、こんな……だめよ! ニレ!」

 ラナは取り乱し、激しく首を振ってあらがい、ついには腕をふりほどいた。勢いあまってつんのめり、体制を崩す。瞬間、横たわって胸を波打たせているロキと目が合ったが、振りきって駆けだした。驚いて立ちつくすエクレイタの女たちをかきわけ、外へ出る。

 一拍遅れて、ルシカの声が響いた。

「ラナさま!」



 ラナを迎えたのは、薄紫の夜と、その中で輝く金のかがり火だった。

 暗い建物の中から飛びだしたラナは、眩しさに、思わず足を止めた。それから、周囲の喧騒が耳にはいってきた。

 男たちの笑声、どなり声、女たちの嬌声……。肉の焼けるにおいと、酒のにおいがただよう。一人の男がふらつきながら女を追い、すぐそばを通り過ぎるのを、ラナは、扉の陰に身をよせて見送った。

 ルシカの声が、追いかけてきた。

「ラナさま……」

 ばたんと後ろ手に扉を閉め、ラナはそれを遮った。すばやく辺りを見まわし、ニレの姿を探す。ニレだけではない――仲間を見つけ、すぐに、ここから離れなければならない。

「ニレ! どこ?」

 思えば、朝から何も食べていなかった。ラナは、空腹と恐怖に気が遠くなりかけたが、意を決して歩き出した。

 エクレイタ族の女たちは、男たちの食卓を、巨大なかがり火を中心に並べていた。凹凸のある大地の上に、あるものは傾き、あるものは岩を脚代わりに置いている。その間を、女たちは黒い影となって動いている。男たちの食事はほぼ終わっているらしく、彼女たちが手にしているのは、酒の入った器だった。陽気になった男に腕をとられ、立ち話をしている者もいる。

 ニレはどこへ行ったのだろう?

 ラナは、長衣の襟をかき合わせ、出来るだけ顔を伏せて、影の間をぬって歩いた。手拍子がおこり、歌声がわきおこる。肩を組み、踊り出す者たちもいる。男たちの笑声が、割れるように天へ響いた。言葉はわからないが、酒気をおびた口調の下品さは理解できる。

 女たちは、軽くあしらう者もいれば、怒って手をふりあげる者、笑いながら応えている者もいた。同意を得て、手と手をとりあって立ち去る若い男女がいれば、遠慮なく口づけを交わす者もいる。

 ラナは、混乱した気持ちで辺りをみわたした。目のやり場に困るが、ここにいる男たちから、邪悪なものは感じられない。ただ一年の労をねぎらい、収穫を祝い、夏の夜の出会いを楽しんでいるように見える。少々はめをはずし過ぎるところは、女たちが上手く窘めている。

 森の氏族が集まる《夏至祭り》にも、こういう雰囲気はあった。成人前のラナには意味が解らなかったが、今なら(嫌というほど)理解できる。一瞬、そういう場に紛れ込んだ錯覚にとらわれる。

 けれども、森の民とは、決定的な違いがあった。

「…………!」

 一人の男がラナの腕をつかみ、酔った声で話しかけてきた。ぞっとして、ラナは振り払おうとした。男は、強引に彼女を引き寄せ、衣をはぎ取ろうとする。ラナは、男の胸に両手をあて、力の限り突っぱねた。

「いや!」

 男の手が離れ、ラナは勢い余って倒れこみ、強かに腰を打った。長衣がはだけ、黒髪がこぼれ出る。男もよろめいて後方の仲間とぶつかったが、少女の抵抗が面白かったらしく、声をあげて笑いだした。

 ラナは、急いで身を起こし、這うように駆けだした。男は悠然と、酔っ払い仲間を連れて追ってくる。前方をふさがれ、ラナは、数人の男が自分を包囲しようとしていることに気付いた。笑声と、揶揄する声がかけられる。動悸が速くなり、息苦しくなる。

 一本の腕がラナの長衣をつかみ、別の腕が、長い黒髪をつかまえた。遠慮なくひっぱられて、少女は身をのけぞらせた。うめき声がもれ、ずるずると引き倒される。たちまち無数の腕がむらがり、彼女の身体をおさえつける。衣が音をたてて引き裂かれた。

「やめて! ……いや!」

 叫ぶ少女の顔を、誰かが殴った。男にとっては造作のない仕草だったが、ラナは一瞬気を失いかけ、身体の動きが止まった。口の中に、血の味がひろがる。

 男たちは、笑いながら彼女の衣を剥ぎ、しろい肌をむきだしにした。胸を彩る刺青を目にして、口笛を吹く。力の抜けた大腿を、撫で上げるものもいた。

「どうした?」

 ラナが、自失して、男たちの為すがままにされていると。彼らの向こうから、涼しげな声が投げかけられた。

「ずいぶん、楽しそうだな」

「これは、団長」

 聞き覚えのある声の主にラナが思い至るより先に、男たちの一人が答えた。別の男は、少女の乳房に手をあてている。

「珍しい小鳥を捕まえたんです。いい声で鳴きますよ」

「そうか。……ほう、こんなところにいたのか」

 男たちの肩越しに、冷たく輝く碧色の瞳が見え、ラナは呼吸を止めた。身の内から、震えが湧きおこる。目を逸らすことが出来なくなる。

 ひきつった彼女の表情を見たコルデは、にやりと唇を歪めて嗤った。

「悪いが、放してくれ。そいつは、俺の獲物だ」

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