第一章 麦の民(4)



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 ニチニキ邑に着いた夜は、コルデが《女の庭》に来ることはなく、ラナは、ロキたちと穏やかに過ごすことが出来た。

 エクレイタ族の女たちは、案内役としてさしむけたルシカを通じて、水と、パンサ(麦)という草の実を砕いてつぶし、焼き固めたものを与えてくれた。テサウ(砦)で囚われていたときに食べさせられたものと同じだが、あれより良いもののようだった。自分たちで料理をしろというのだろう――焼き固めていないパンサの粉や、シイの実、野イチゴ、干した魚、革袋に入れたウシという獣の乳も、少しではあったが、分けてくれた。それらはエクレイタの女たちが食べているのと同じものだったので、ラナは彼女たちの厚意を理解した。

 子どもを連れたユゥク(大型の鹿)の母親たちが、ぴったり身を寄せ合って眠るように。ラナは、ロキとハルキに挟まれて身体をまるめ、ひとばん、夢も見ずにぐっすり眠った。

 翌朝。ラナは、部屋の空気がうごく気配に眼をさました。

 黒ずんだ梁から下げられた間仕切りの布が、かすかに揺れている。屋根と壁の隙間から、蒼白い日の光がさしこんで、淡いむらさきの影をつくっている。

「…………?」

 ラナは眼をこすり、瞬きをくりかえした。おしころした囁きが聞こえる。エクレイタ族の女たちが、食事を作っているのだろう。木の実の焼けるにおいと、扉の軋む音が、風にのって流れてくる。家の外から、丸太を打ち鳴らすコンコンという乾いた音が響いてきた。

 ラナが身体をひねると、ロキとハルキも身を起こした。女たちが、つぎつぎ眼を覚ます。溜息や囁きが湧きおこるなか、抑えた声が、仕切り布のむこうから呼びかけてきた。

「ラナさま……よろしいですか?」

「ルシカ」

 応えると、布の間から、器をもった二本の腕が現れた。ロキが受け取り、ラナへ差し出す。甘い湯気が漂い、少女の胃を刺激した。

「これは?」

「パンサを煮たものです。ウシの乳と、魚の身も入っています」

「あなたが作ってくれたの?」

 聞きなれない料理に戸惑いつつ問うと、ルシカは、伏せた面をさらに下げて肯定の意を示した。木製の器の中心にとどまる とろりと白い粥から視線を上げると、ロキは硬い表情で頷いてみせた。

「……どうぞ、召し上がってください。私たちは、出かけてきます」

 そう言って、ニレとともに立ち上がろうとする。ラナは、彼女の衣のすそを慌ててつかんだ。

「待って。どこへ行くの?」

 ロキの代わりに、ニレが答えた。

「合図が聞こえますか。あれが鳴る日は、ここの者はみな、畑へ出て働くのです。あたしたちも、一緒に行きます」

「私も行くわ」

「ラナさまは――」

 ロキは、衣をつかむ少女の手を、両手で包んだ。

「――着いたばかりで、お疲れでしょう。ここで待っていてください」

「でも、」

 ロキは腰をかがめ、少女の耳に口を寄せると、低くささやいた。

「畑には、男たちがいるのですよ」

 ギクリとして、ラナは押し黙った。彼女を見詰め、ロキはゆっくり頷いた。それからふと、眼もとを和ませる。

「昨日から、ハルキの体調が悪いのです、ラナさま。よろしくお願いします。ルシカ」

 ルシカは無言で、承知した、というように頷いた。ハルキが、少女の背に片手をあてる。ラナがハルキを顧みてから視線を戻すと、ロキは、他の仲間とともに部屋を出ていくところだった。

「…………」

 取り残されたような寂しさに、ラナが呆然としていると、傍らで、ハルキがそっと息をついた。ラナは振り返り、改めて、彼女のしずんだ顔色に気づいた。

「大丈夫? ハルキ」

「はい……申し訳ありません。昨日から、身体がだるいのです」

 言葉を切り、何かに耐える風だったが、

「失礼して、横にならせていただきます」

 というと、先ほどまでロキが寝ていた場所に、身を横たえた。眼を閉じ、片手を胸にあて、ふかい溜息とともに乾いた咳を吐く。ほつれた髪が頬にかかって急にやつれたようなのを見て、ラナはうろたえた。

「どうしたの。何か、食べる?」

「いえ……」

 少女が自分の朝食をさしだそうとするのを片手で遮り、ハルキは、ぎこちなく微笑んだ。

「大丈夫です。すこし、疲れているだけですわ。ラナさま、召しあがって下さい」

「でも」

 反論しようとしたラナだったが、ハルキが再び眼を閉じてしまったので、言葉を呑みこんだ。ルシカも、眉を曇らせている。ラナは、湯気をたてている掌のなかの器を眺め、しばらく考えていたが、やがて、唇をつよく結んで顔をあげた。

「ルシカ」

「はい」

「ごめんなさい。せっかく作ってくれたけれど、私、これを食べるわけにいかないわ」

 ルシカは、しずかにシャム(巫女)の瞳をみかえした。ラナはひとつ頷き、彼女のまえに器を差し出した。視線でハルキを指し、

「ハルキに……お願い出来る? 私、みんなのところへ行ってくるわ」

「…………」

「エクレイタがここで何をしているのか、知りたいの」

 ルシカは眉をわずかにひそめ、次に、やや大きく眼をみひらいた。唇をあけ、何事か言おうとする。彼女より先に、ハルキが声をかけた。

「ラナさま」

 小さな咳にせながら、少女を見る。呼吸をととのえ、次に発した声は、苦笑を含んでいた。

「では、ルシカをお連れ下さい。私なら、大丈夫です。昼間、ここへは誰も来ませんから」

「……お願い出来る?」

 ラナが問うと、ルシカは無言で頷いた。ラナは、器をハルキの枕元にそっと置いた。独りにさせるのは心配だったが、使命感がそれに勝った。

「食べてね」

 小声で言うと、ハルキはうなずき、微笑んだ。



 ルシカの後について建物を出ると、ひやりとした朝の風が吹きつけてきた。あわてて、髪をおおう布をかきよせる。少女の不安とは裏腹に、空は青く澄んでいた。白い日差しがまぶしい。丸太を叩く合図の音は、聞こえなくなっていた。

 織りの粗い長衣を、エクレイタの女風に頭からすっぽりかぶったルシカは、足を止め、辺りを見まわした。背伸びをして、昨日ラナたちがやってきた木戸の方をすかし見る。眉間にしわを刻み、何事か迷っている表情を、ラナはいぶかしんだ。

 ルシカは踵を返し、木戸とは反対の方向へラナを促した。

「こちらです」

 少女の肩に軽く触れ、速足で歩き出す。ラナは慌て、草の根につまづきながら後を追った。

 木の実や薪を得るため、《女の庭》には、森の木々がわずかながら残されていた。天をおおうモミやサルヤナギの大木ではなく、まだ若いベニマツやコチョア(胡桃)や野イチゴの灌木だ。二人は、そうした木々や、山積みされた丸太の間をぬって進んだ。

 ルシカは、長衣の裾を両手でからげ、迷うことなく歩いていく。後を追うラナは、小走りになった。背をかがめ、軽く息をはずませてゆるやかな斜面を登り切ると、眼を瞠ってたちどまった。

「…………!」

 ルシカも、ゆっくり足をとめた。驚きのあまり、ラナは人目もはばからず立ちつくしている。長衣が風にあおられ、黒髪があらわになりそうなのを警戒して、ルシカは周囲を見渡した。それから、共感をこめて、若きシャム(巫女)を見遣る。

 二人の前には、金色に輝く大地が、どこまでも広がっていた。

 ラナの腰にとどく高さの草だった。ほそながい葉をもち、茎の先端には、ひと固まりの実が密集してついている。長い毛に守られ、黄色くいろづいた穂が、整然と並んでいる。ただの一本も、ひとすじも、他の草木が混じることはない。――畑は、ラナの視界をうめ、地平線まで続いていた。

 少女の知識のなかで、果てが見えないものは、ロマナの湖面だけだった。風に揺れる草の穂は、ロマナの波のようだ。日差しを反射して、金赤色にきらめく。風にざわめき、うねり、おしよせる。

 光の波に圧倒され、ラナは言葉をうしなった。

「これは――」

 ごくりと唾をのみ、囁く。ルシカがあとを引き継いだ。

「これが、パンサです」

 視線をくぎづけにされたまま、ラナは繰り返した。

「パンサ」

「エクレイタの人々の、命を支える草です」

 ルシカの口調は複雑だった。羨望とも恨みともとれる響きに、ラナは彼女を顧みた。ルシカは腰をかがめ、パンサの穂に片手をかざしているところだった。

「《レイム(太陽神)の血》、《レイムの生命》、とも呼びます。《レイムの子》である彼らエクレイタを養うために、レイムが自ら流した血から生まれた草なのだそうです」

『太陽の血……』 ラナは、口の中で呟いた。

 そう言われてみると、パンサは、殻をむかれ砕かれたものとは違って見えた。生きているからだろう。いまにも弾けそうなほど膨らんだ実の表面は、紅い炎に包まれているようだ。風に揺れるたび、ぱちぱちと火花が散る。

 でも――ラナは、不安になった。

 パンサが太陽の化身というのなら、モミやベニマツも、太陽の恵みを受けるテティたち(神霊)だ。ヌパウパ(ヤマニラ)も、フウロソウも……。この地にいたテティたちは、何処へ行ったのだろう? リスやモモンガやキツネたち、オロオロ(地リス)や、ユゥクたちは? 

 ハッタ(梟)やゴーナ(熊)やアンバ(虎)・テティは、いま、何処で狩りをしているのだろう?

「ラナさま」

 人の気配を察して、ルシカがラナの袖を引いた。ラナは、急いでその場にしゃがみこんだ。パンサの陰にかくれて窺うと、人が集まっているのが見えた。

 エクレイタ族の女たちと、男たちがいた。皆、畑を向いて並んでいる。後ろには、濃い色の髪をした女たちがいた。ロキたちだ。

 ラナは首をのばし、仲間の顔を見分けようとしたが、遠くて判らなかった。

 集団の先頭に、コルデがいた。こちらは、遠くてもすぐ判る。ラナは、はっと胸を衝かれる心地がした。――木の枝を組んでつくった台の上に、灰茶色の鳥をのせ、左手でそれを押さえ、右手を天へ向けている。ぼそぼそと祈るような言葉を呟いているのが聞こえ、ラナはルシカを振り向いた。

「何をしているの?」

 言い終わるより先に、甲高い悲鳴が響き、ラナはぎょっとして呼吸を止めた。コルデが振り下ろした右手の下から、ばあっと羽が飛び散った。風にのって、血のにおいが流れてくる。

 ルシカは表情を変えず、淡々と説明した。

「犠牲をささげているのです。レイムと大地に。今年の恵みに感謝して。……団長が帰ったので、これから穫り入れをするのでしょう」

「犠牲? 殺したの?」

 森の民には、馴染みのない習慣だ。

 ラナは、己の顔から血の気がひくのを感じながら、彼らの行為を見守った。恐ろしかったが、見なければならないと思った。

 コルデは、切りおとした鳥の頭と体を、台の上に並べてのせ、ヒツジの毛をって作った糸やギョクや木の葉でそれを飾った。からになった両手を挙げ、天を仰いで祈る。開拓団長が頭を下げると、後に控えるエクレイタの人々も、ふかぶかと一礼した。

 それから彼らは、コルデの合図でパンサの畑に入り、穂を摘みとる作業を始めた。ロキたちも一緒だ。


 ラナは、コルデに見つからないよう、ルシカとともにじりじり後退して、その場から離れた。そうしながら、彼らから眼をそらさなかった。

 一連の儀式は、森の民がゴーナやハッタ・テティを『送る』ときに行うことと、似て見えなくもなかった。だが、ラナには意味が解らなかった。

 森の民は、ムサ・ナムコ(人の世界)へ来てくれたテティの霊を、もとの世界へ還すために『送り』を行う。ムサ(人間)とテティ(神々)の契約の証として、刺青を入れ、イトゥ(御幣)をささげ、料理をつくってテティをもてなす。

 太陽は、森の民にとっても重要なテティだが、ここでは別の名で呼ばれ、別の姿で崇められている。エクレイタの民と、彼らの太陽神との関係は、ラナたちのそれとは違うらしい。

 レイムに『捧げられた』鳥のテティ(霊魂)は、何処へ行くのだろう……?

 ラナが考えこんでいる間にも、エクレイタの人々は、黙々と働いていた。手にした黒曜石の刀で、パンサの穂を一本一本ていねいに摘みとり、運んでいく。コルデも働いていた。彼らの表情は真剣で、満足げだった。声に出さないよろこびに、輝いているようだった。

「五年前――」

 ラナが黙っていると、ルシカが口を開いた。エクレイタの作業を見守りながら、独り言のように言う。

「五年前、彼らが初めて来たとき、ここは森でした。木を伐り、下草を焼き、凍った大地を耕して、パンサの種を蒔きました。最初は、殆ど生えてこなかったそうです」

 手を伸ばし、手近に生えているパンサの穂をひきよせると、考え深げに続けた。

「せっかく生えても、途中で枯れたり、弱ったりして、実をつけないものが多かった。実っても、痩せた、小さなものしか出来なかったそうです。それを植え、出来た実のなかから、少しでも大きくて強いものを選び出しました。それをまた植え……三年、繰り返し、やっとこの地の寒さに負けないパンサを育てあげたのです」

「…………」

「ここまで来るのに、四年、かかりました。その間に、多くの人が寒さと餓えで死んでしまった」

 ラナは、まとまらない気持のまま、ルシカの横顔を見詰めた。

 ルシカは、揺れるパンサの波を眺め、眼を細めた。

「シャムよ……エクレイタの人々は邪悪ではないと、私は思います。ただ、弱いのです。――彼らには、ユゥク(大型の鹿)を狩ることも、犬橇に乗ってゴーナと戦うことも出来ない。吹雪をさける術を知らず、ロマナ(湖)の歌の意味も解りません。――彼らに出来るのは、畑を耕し、パンサを育てることだけです。そして、この地のテティ(神霊)は、弱いものをゆるさない……」

 ルシカはうつむき、そっと溜息をついた。

「だから、彼らは壁の中に閉じこもり、身を守るしかないのです」

 ラナは何と言えばよいか判らず、ルシカからパンサの畑へ視線を戻した。風に揺れる穂の波と、その中で働く人々を眺める。

 少女の隣で、ルシカは低く囁いた。

「私も弱い……。テティの掟は、私がナムコで生きることを許しては下さらなかった。私も、ここでしか、生きていけないのです」

『弱い?』 ラナは、胸の奥で呟いた。『弱いって……どういうこと?』

 ラナは、コルデに捕らえられたときの光景を想い出していた。自分の腕をねじあげ、小さなルプス(狼)を蹴りあげた時の、男の表情を。父王をおどし、哀れなタミラを殺したときの残酷な嗤いは、忘れようとして忘れられるものではない。

 それだけではない。――ラナは、身体が震えるのを感じた。――彼女たちが考えられないほどの非道を、あの男たちは、為してきたではないか……。

 邪悪ではないという言葉も、弱いという言葉も、ラナには受け入れがたかった。何故、ルシカはこう言うのだろう? 己の経験と、いま眼にしているエクレイタの姿を結びつけることが出来ず、混乱は深まるばかりだった。

 そんな少女をいたわるように、ルシカは、彼女の肩に手を置いた。

「戻りましょう、ラナさま。ハルキの代わりに、仕事を済ませておかないと」

 ラナは頷き、踵を返した。来たみちを戻りながら、少女は、なかなか顔を上げることが出来なかった。


          *


 ハルキは、女たちの家の奥によこたわり、ラナたちの帰りを待っていた。ルシカの作った乳粥には、手をつけていない。眠るつもりはなかったのだが、いつか意識はもうろうとしていた。

『どうしたのだろう……?』 不思議なほど肌が熱く、流れる汗が気持ち悪い。そのくせ、身体の芯は冷えていた。ぐらぐらする眩暈に、眼瞼を開けていられない。

 喪った我が子を想いながら、眼を閉じる。ハルキの項には、粟粒大の紅い発疹があらわれていた。

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