第三章 真の王(2)



          2


 話し合いは、平行線に終わった。女たちの救出を訴えるラナも、それを止める氏族長たちも、どちらも譲らなかったからだ。ラナは疲れ、問題は明日へ持ち越された。

 用意されたチューム(円錐住居)へ下がり、女たちが準備してくれた食事を摂る。その間、トゥークは、当然のように彼女の傍らに居続けた。人々は、彼の扱いに困惑していたが、ラナが拒否するそぶりをみせなかったので、そっとしている。

 ラナは、つとめて彼を視界に入れないようにしていた。

『こうしている、間にも……』

 傷ついたロキ、病んでいたハルキを想うと、胸がふさいだ。ニレは、どうしているだろう。ルシカは。トゥークがコルデを殺してしまったことで、責められてはいないだろうか。

 一刻も早く、彼女たちを救いに行きたい。自分が安全な場所にいるという思いは、ラナの気持ちを沈ませた。

「…………」

 ラナは、食事の手を止めた。トゥークがこちらを見ている気配を感じる。氏族の許に還っても自由にならない我が身が恨めしく、溜息をついた。


 ――コルデを殺し、ニチニキ(邑)から逃げ出してから数日後、トゥークは、森の中でラナを抱いた。

 ラナは抵抗したが、途中から諦めて眼を閉じ、身を任せた。トゥークは、生まれて初めて触れる女体に溺れた。

『手に入れた。王の娘を手に入れたぞ!』

 世界にむかって、叫び出したい気分だった。

『俺は王だ。裏切者の子が、王になったのだ!』

 ラナは、放心したように横たわっている。投げ出された身体が、火明ほあかりを反射して、しろく輝いている。刺青と寝乱れた黒髪が、絡みあう蛇のような模様を膚に描いていた。茫然と天をあおぐ瞳は、何も映してはいない。わずかに開かれた唇が、情事の名残を留めていた。

 トゥークは、軽蔑をこめて、フンと鼻を鳴らした。

 力のないシャム(巫女)、民を失った王など、何の価値もない。それなのに、この女は人々の尊敬を集め、いるだけで庇護され、かくまわれる。自分は裏切り者の子として、いるだけで蔑まれ、疎まれるというのに。

 不公平だ……。トゥークはそう思い、彼女を憎んだ。

「お前は、俺のものだ」

 のろのろと身を起こして髪を掻きあげるラナの背に、トゥークは宣言した。

「分かったな」

「…………」

 ラナは項垂れたまま、頷いた。――


 自分は人質なのだと、彼女は理解していた。トゥークに居場所がないことも。

 コルデのところにも、己の氏族にも、森の中にさえ、少年の居場所はなかった。だから、自分と一緒にいるのだ。

『可哀想な、ひと』

 ラナは、彼を憐れんだ。恐れてはいなかった。おそれているのは、トゥークの方だ。

 そして、

『可哀想な、わたし……』

 自分にも、もはや居場所はないのだと、ラナは思った。身も心も穢れたシャム(巫女)に、還る氏族はない。憎しみにかられ、同族を争いに引き込もうとする者に、王たる資格はない。

 しかし――

 溜息をつく。思考は先刻から、同じところを巡っている。氏族長たちは正しい。ただ己の感情が、抑えきれないのだ……。

 食事を終え、女たちが下がると、ラナは立ち上がった。トゥークが、すかさず、その手を捕らえる。

「どこへ行く?」

「ウィタ(星)を観に行くだけよ。逃げはしないわ」

 けだるい口調で答えてから、ラナは、ひたと彼を見据えた。

「……泣く自由すら、ないと言うの」

「…………」

 トゥークは言い返すことが出来ず、手を離した。ラナは、ふり払うように身をひるがえし、チュームを出た。



 星を観ると言ったからではないが、ラナの足は自然に、森の斜面を登っていた。森の民は、集落を移動するとき、一旦山へ入るのが普通だ。その習慣に従う。

 チュームの数がまばらになり、やがて見えなくなった。うっそうと茂るベニマツの木陰で足をとめ、息をつく。見上げると、暗い秋の夜空に、無数の星が輝いていた。

「…………」

 泣きたい気持ちはあったが、涙は出て来なかった。またたく銀の星ぼしを見詰め、ラナは佇んだ。こんな風に独りで星を観るのは、久しぶりなことに気づく。

 ハァヴル(西風)が吹き、木々の梢を揺らした。マツヤニと、草の葉と、しめった土の匂いがする。さらさらと川の流れる音も聞こえた。どこかで、ハッタ(梟)が鳴いている。

 静けさに身をひたしていると、ふいに、人の声がした。

「…………!」

 ドキリとして、ラナは、マツの幹に身を寄せた。――隠れる必要はないはずだが、トゥークと逃亡を続けるうちに、癖になってしまったのだ。灌木の枝ごしに様子をうかがい、眼をみはった。

『ビーヴァ!』

 木立がまばらになった場所に、ビーヴァがいた。足下には、セイモアとソーィエもいる。二匹は、夜に歩きまわるのが楽しいらしく、フサフサと尾を振っていた。風下にいるラナに、気づいた様子はない。

 声をかけようとして、ラナは躊躇った。ビーヴァが独りではないと気づいたのだ。彼と肩をならべている者がいる。男……では、ない。

『あのひとは――』 

 ラナは息を呑んだ。いつか、霊魂のみとなって森を彷徨い、ビーヴァを探した時、彼の傍らに居た、男の恰好をした女だ。ケレ(悪霊)と呼ばれて祓われた衝撃を想いだし、ラナは自分の肩を抱いた。――もう一人。使者の男がいることも意外だった。父王が殺された時、ともに命を落としたと思っていた。

 三人は、森に棲むテティ(生き物)を起こさぬよう、小声で話をしていた。内容までは、聴きとることが出来ない。男装の女が、骨でできた棒をとりだし、ビーヴァが、杖のようなものを手にした。使者は、二人からゆっくり離れる。

 女が何か説明するのを、ビーヴァは、真剣な表情で聴いていた。セイモアとソーィエは、耳をぴんと立て、尾を振りながら主人を見上げている。やがて、女はビーヴァをひとり残し、場を離れた。使者に並んで立ち、胸の前で腕組みをする。

 ビーヴァは、杖をマラィ(長刀)さながら身体の前にかまえ、眼を閉じた。

『ビーヴァ?』

 ラナは、いぶかしんだ。何をしているのだろう? 声をかけるべきか迷う彼女の目前で、それは起こった。


 ビーヴァの杖が、突然、蒼白い光を放った(ように、ラナには見えた)。音もなく、炎さながら燃えあがり、青年の身体をつつむ。編んだ黒髪がなびき、衣の裾がはためいた。

 セイモアとソーィエが、ぱっと跳びさがる。使者と女は、眼をまるくした。

「…………」

 ビーヴァは無言で、足をひろげて立っていた。眼を開け、杖の先を見詰める。

 蒼白い光は、みるまに膨らんで、巨大なテティ(神霊)のすがたになった。ゴーナ(熊)よりも巨きい。長く反りかえった牙をもつ、小山のようなテティだ。ラナは心のなかで悲鳴をあげた。

『ビーヴァ!』

 少女は、入巫の儀式の際、マモント(マンモス)・テティの霊威に翻弄され、危うく自我を崩壊させるところだった。あのときの恐怖がよみがえり、彼女は震えた。ビーヴァの前に現れたのは、まさに、あのテティだった。純白にかがやく二本の牙が、今にも青年の胸を貫きそうだ。

『逃げて……!』

 ビーヴァは、穏やかに佇んでいた。彼の牙の兄弟たち(セイモアとソーィエ)も、使者と女も。ラナは、彼らにはテティが見えないのかと疑ったが、そうでないことはすぐに判った。

 ビーヴァが、片手をのばし、マモントの鼻に触れたからだ。

 青年は、杖を左手に持ちかえ、右手でテティに触れた。眼を細め、ささやく。微笑んでいる……。マモントは、ゆっくり鼻を振って彼に応えた。夜の森に融ける身体のなかで、黒い瞳がまたたく。

 ラナには、信じられない光景だった。

 ふいに、テティが鼻を挙げ、巨大な牙を持ちあげた。ビーヴァが手を離し、後ずさる――恐れからではなく、見守るために。マモントは、片方の前脚を踏みだした。途端に、身体をふちどる蒼い炎が、高くたかく立ちのぼった。

 ゆらゆらと揺れる熱のない焔のなかから、ロカム(鷲)・テティが現れた。大きくはばたいて光の粉を散らし、ビーヴァとマモントの頭上を旋回して、舞いあがる。ひと呼吸の後、キツネのテティが。ウサギが、リスが跳びだし、ビーヴァの脚や腕をかいくぐって走り出した。驚いてよけるセイモアとソーィエを跳びこえ、去っていく。

 カササギが、ツグミの群れが、飛び去っていく。見事な枝角をふりたてた純白のユゥク(大型の鹿)のテティが現れ、ビーヴァの身体を通り抜けると、同様にそらへ駆けのぼった。

 次から次へと現れるテティ(霊魂)たちは、みな輝きながら森を駆け、天へと昇って行った。ルプス(狼)が、アンバ(虎)が、ホウワゥ(鮭)の群れが……。途切れることのない光の帯となり、底のない夜空で渦を巻き、ほどけ、波打ち、碧や青の色をおびた。

 ラナは勿論、ビーヴァも、使者の男も、息をとめて魅入っていた。

『天の炎(オーロラ)だわ』

 ラナは、気づいた。いにしえより語り継がれてきた、天の老人(天神)が燃やす霊魂の炎。いま、自分はそれを観ているのだと。

『ビーヴァ。あなたは……』

 杖ひとつでテティを召喚し、霊威に圧倒されることなく、受け容れ、祝福される。こんな存在を、ラナは、ひとつしか知らない。

 シャマン(覡)

 巫女より数は少ないが、巫力ちからは圧倒的だという。伝説のロコンタ氏族のシャマンは、霊魂のみとなって世界をめぐり、月へたどり着いた。父王も、叔父も成りえなかった覡の霊力を目の当たりにして、ラナは呆然と立ち尽くした。


           *


 最後にマモント・テティが天へ昇り、空を埋め尽くしていた炎が消えると、辺りは急に暗くなった。タイガ(森林)の影がふちどる夜空には、残された星ぼしが、弱々しく瞬いている。

 マシゥが、溜息をついた。キシムはその横顔を見て、苦笑した。――おそらく、使者にはテティのすがたは観えず、ぼんやりと光が漂って見えた程度だろう。それでも、異民族の彼が、この現象を知覚できたことは驚異だった。

『テティのあるじ、か……』

 シャマン(覡)の巫力に感心しながら、キシムは、やや淋しく思った。漠然としていた予感が、予測へと変わる。

 テティの消えた夜空を見上げている、ビーヴァ。……彼はやがて、ムサ・ナムコ(人の世)を捨て、ムサ(人)たる身をも捨てて、かの世界へ赴くのだろう。そう、彼自身が示したことに、ビーヴァは気づいているだろうか。

 ふたつの世界を生きる者。杖をもってムサ・ナムコへ留まるのと引き換えに、遠くない将来、彼が旅立つということを、キシムははっきり理解した。

「ビーヴァ」

 キシムは、組んでいた腕をほどき、彼に近づいて行った。杖を見詰めていたビーヴァが、振り返る。晴れた夜空と同じ色の瞳に、キシムは言った。

「調子はよさそうだな」

「……ああ」

 ビーヴァは、一瞬、キシムの言葉の意味を考えたのち、頷いた。杖を握りなおし、彼(彼女)を見る。マシゥを、セイモアとソーィエを見てから、視線を戻した。

 男装のシャムは、淡々と告げた。

「その杖が、お前の巫力ちからの中心だ。」

「中心……」

「そうだ。本来、杖は武器ではない。巫力を集め、芯となる。せっかく授かったんだ、大切にしろよ」

「…………」

 ビーヴァは、神妙に頷いた。

 キシムの言うことは、実感できた。いつもは茫漠としてとらえどころのない己の巫力が、今は集中して感じられる。方向も、たしかに……定め易くなっている。

 青年が理解しているとみて、キシムは、あふっと欠伸を噛みころした。

「オレはそろそろやすませてもらうが、お前はどうする?」

「……もうしばらく、ここに居るよ」

「そうか。じゃあ、また明日」

 軽く手を振って、キシムは踵を返した。マシゥも、片手を挙げて挨拶をする。

「お先に、ビーヴァ。」

「ああ。おやすみ……」

 キシムは肩をすくめるようにして、集落の方へ歩き出した。マシゥは、ビーヴァのチューム(円錐住居)に戻っていく。二人の姿が木々の向こうに消えるのを見送り、ビーヴァは、吐息をついた。

 セイモアが、フゥンと鼻を鳴らす。ソーィエは、腰を下ろし、首をかしげて主人を見上げた。

 ビーヴァは苦笑すると、身をかがめ、二匹の肩にそれぞれ片方の腕を載せた。右手は、杖を握っている。二匹の頭を撫でて労をねぎらい、チュームへ帰ろうと身を起こした。

 その時だった。

 セイモアとソーィエが、同時に耳を立て、首まわりの毛を逆立てた。尾をあげ、身構える。ビーヴァが怪訝に思う暇もなく、闇の中から人影がとび出して来た。

「ビーヴァ!」


『……ラナ?』

 青年は、完全に虚を衝かれた。このとき、この場所に、少女がいるなどと想像していなかったのだ。それで、反応が遅れた。氏族の掟に従い眼をそらすどころか、彼女を傷つけないよう、手にした杖を避けるだけで精いっぱいだった。

 ラナは、一瞬の迷いもなく駆け寄ると、立ち上がりかけた彼の胸に身体をぶつけた。そのまま、力の限り、しがみつく。ビーヴァは、文字通り眼を白黒させた。よろめき、踏みとどまる。

 ソーィエは跳びさがり、相手が誰か判ったセイモアは、警戒のうなり声を呑みこんだ。戸惑い、尾を下げる。

「ビーヴァ!」

「…………?」

「ビーヴァ、ビーヴァ。逢いたかった……!」

 青年の衣に顔をおしあて、ラナは言った。ふりしぼるような声と吐息が、直接胸に響く。ビーヴァはごくりと唾を飲み、囁いた。

「……ラナ」

「…………」

「え。どうして……。ラナ?」

「ビーヴァ」

 彼女が泣いていることに気づき、ビーヴァは、ますます混乱した。どういうことだ? ラナは、氏族長たちのところに居るのではなかったか? 叔父であるロコンタ族長の許に。トゥークの権利が認められたのでなければ――

『何故、俺の前にいる?』

 頭の中がまっしろになった状態で立ちつくす。彼の心情にはお構いなしに、ラナは言った。

とうさまが、殺されたわ」

「…………」

「タミラも――。もう、私たちだけになってしまった」

 ビーヴァの胸に、切り裂かれるような痛みが走った。少女の時間が、あのとき止まってしまったことに、思い至ったのだ。

 セイモアが、ラナの衣のにおいを嗅ぎ、靴に身をすりよせた。ソーィエが、くうぅんと鼻を鳴らす。

 ビーヴァは……かなり迷い、ためらった挙句……そっと、少女の肩に手をのせた。

「ラナ」

 引き離そうとしたが、ラナはしがみつき、動かなかった。ビーヴァは溜息を呑んだ。なだめる口調になる。

「俺たちだけじゃない。みな、ここに居る。エビは出かけているけれど、ソーィエも、セイモアも……。シャナ族とロコンタ族の仲間が、助けてくれる。テティ(神霊たち)だって……」

 しかし、言葉の途中から、ラナは首を振りはじめた。聞きたくないと言うように、ますます彼の胸に顔をうずめてしまう。ビーヴァは、どうすればいいか分らなくなった。

「ラナ」

「――じゃない。テティはいない」

 ちぎれんばかりに彼の外衣を握りしめ、ラナは呻いた。ビーヴァは、聴きとろうとした。

 ラナは、血を吐くように繰り返した。

「テティなんかいない。私は、シャム(巫女)じゃない。」

「……え?」

 ビーヴァは、耳を疑った。ラナは、しゃくりあげて泣きだした。

「私に、テティの声は聞こえないの」

「…………」

「テティは、私には、話しかけてくれない。今まで、一度だって……。私は、見捨てられてしまったの」

「ラナ」

『何の話だ?』 息苦しくなって、ビーヴァは喘いだ。何日も食べていないかのように、喉が渇いた。

「駄目だ……そんなことを言ってはいけない」

「どうして?」

「…………」

「何故、本当のことを言ってはいけないの。みんなのため? 私が王の娘だから? 一生、嘘をつき続けろと言うの!」

「ラナ。静かに……」

 彼女の声は、だんだん大きく、高くなっていった。夜の森に響く。ビーヴァは、なだめる必要を感じ、声をおし殺した。

「そういう意味じゃない……。落ち着いてくれ、お願いだから」

「…………」

「テティは、俺たちを、見捨てたりしない。声が聞こえないのは、何か、理由があるんだろう。……無事に逃げることが出来たんだ、大丈夫。今度は、みなを救け出せる。トゥークも戻って来てくれたから、ロキたちを救う方法を――」

 だが、トゥークの名が、ラナの胸に火をつけた。彼女は、弾かれたように顔をあげ、叫んだ。

「望んで、あの人と一緒にいると思うの? 貴方がいるのに!」

 二人の目が、出合った。

 まともに、正面から泣きぬれた黒い瞳と出合い、ビーヴァは息を呑んだ。ただでさえ早かった鼓動が、一気に高まる。

『……どういう意味だ?』

 奥に火花のような煌めきを宿した、黒い瞳。濡れて星明かりを反射している瞳と、真正面から見詰め合う。ビーヴァは、身動きできなかった。呼吸を止め、めまぐるしく考える。

『これは、ラナ、か? 本当に?』

 憔悴し、痩せた顔には血の気がなく、夜の闇に白く浮かんで見える。アロゥ族であることを示すモナ(炎)の紋様が、左の頬をふちどり、首筋から外衣の襟内へと拡がっている。――同じものが、ビーヴァの頬にもあるはずだった。成人してからは決して合わせてはならないはずの視線を合わせ、彼の内奥を覗きこむ。

 両手の下、衣におおわれた肩が折れそうなほど細くなっていることに気づき、ビーヴァは手を離した。

「なにを――」

 ビーヴァは、彼女から顔を背けた。一、二度喘ぎ、やっとの思いで言葉を搾り出した。

「言っているのか……わからないよ……」

「……そうね。解らないんでしょうね」

 ラナも、彼から視線を逸らし、低い声で呟いた。

「私にも、解らないんだから」

 ラナは、彼から身を離した。ビーヴァはほっとしたが、同時に、あきらめた声音に、胸を刺される痛みを感じた。

 右手で自分の左腕をつかみ、ラナはしばらく、ビーヴァに左頬を向けて立っていた。セイモアがフンフン鼻を鳴らしているのに気づくと、背をかがめ、《彼》の頭を撫でた。

 独語のように囁く。

「ビーヴァは、私よりずっと、テティに近いわ」

「…………」

「名前をつけても、セイモアは、私と一緒に暮らしてはくれなかった。いつもそう……。テティが選んだのは、貴方だわ」

 ビーヴァは、何も言うことが出来なかった。

 ラナは溜息をつき、ほとんど息だけで囁いた。

「私には、テティは解らない。……ただ一人のひとの気持ちも、解らないのに」

 そう言うと、項垂れたまま、ナムコへ向かって歩き出した。セイモアは、数歩後を追って立ち止まり、ビーヴァをふりむいた。キュウンと鳴いて、彼の意図を問う。

 ソーィエは、ビーヴァの許を離れず、じっと少女を見送った。


 ビーヴァもラナも、自分の気持ちだけで精いっぱいで、周囲に注意を払う余裕はなかった。だから、トゥークが二人のやりとりを目撃したのち、ラナをつけて行ったことに、気づかなかった。

 キシムは、シラカバの幹に背をあずけ、様子を伺っていた。

 男装のシャムは、片手にマラィ(刀)を持ち、トゥークが二人に危害を加えることを警戒していた。危険が去ったと判断すると、緊張を解いた。マラィを鞘におさめ、ビーヴァを見遣る。

「……どうすればいいんだ」

 ビーヴァは呟き、ソーィエとセイモアの頭を撫でると、深く、ふかく嘆息した。



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