『その声を待っている』
その声を待っている
ご注意:
ビーヴァの愛犬ソーィエが、本編終了後、ビーヴァやセイモアとの暮らしを回想する内容です。本編のネタバレを含みます。また、ソーィエ(犬)の一人称です。
本シリーズは、動物を擬人化して表現するものではなく、本編中にソーイエの一人称は登場しません。
そういうものが苦手な方や、本編の雰囲気を重視したい方は、お読みにならない方がよいと思います。
それでも構わないよ、というお方は、お付き合い頂ければ幸いです。
******************
1.
おいらの名前は、ソーィエっていう。なぜかは知らない。ビーヴァ
おいらが兄貴と出会ったのは、まだ赤ん坊のころだったから、よく覚えていない。なんでも、エビの
おいらの群れには、ビーヴァ兄貴と、タミラ母さんと、おいらの弟たちがいた。
タミラ母さんは、兄貴を産んだ母親で、兄貴とおなじように餌をくれる優しいひとだ。あと、ラナという小さな
兄貴は、兄弟たちのなかで、おいらを特に目にかけてくれた。狩りに行くときはいつも一緒だし、
ある日、兄貴とおいらは、狩りに出かけた。
その日は調子が悪く、兄貴の《飛ぶ爪(矢)》は、ぜんぜんライチョウに当たらなかった。キツネも、ウサギもみつからなかった。兄貴がしかけた罠は壊されて、そこいらじゅう、ルプス(狼)のにおいがしていた。
ルプスは、おいらたちにとっては敵だ。
奴らは、姿はおいらたちに似ているが、おいらたちより大きい。群れで行動するけど、たまに、ひとりの奴もいる。ルプスがいると、獲物はみんな逃げてしまう。横取りされることもある。なにより、奴らは、おいらたちをおそって喰う。
兄貴たちと一緒に狩りをするとき、おいらたちは、兄貴たちが声の聞こえないところへは、行かないように気をつけている。(おいらたちが兄貴たちの声を聞くんじゃあなくて、兄貴たちがおいらたちの声を聞きとれるところまで、という意味だ。) 離れすぎると、ルプスは、おいらたちをおそって来る。兄貴たちの《飛ぶ爪》や《長い牙(槍)》が届かないところへ行って、喰われた仲間が、おおぜいいるんだ。
だから、おいらはルプスが嫌いだ。
奴らの臭いがそこいらじゅうについていて、おいらは、気分が悪くなりそうだった。
壊れたルプスの巣穴で、あいつをみつけた。白くてちっこい、ルプスの子どもだ。久しぶりに新しい肉にありつけると喜んだのに、兄貴は、食べるなと言った。そうして、胸の毛皮のなかにいれて、たすけたんだ。
おいらは嫌だったけれど、ビーヴァ兄貴が喰うなと言うんじゃ、仕方がない……。
そうして、あいつは、おいらの群れにやって来た。
ちびのルプスは、ラナからセイモアという名前をもらった。ビーヴァ兄貴もそう呼んだ。セイモアは、夜は騒ぐし行儀は悪いし、てんでなっちゃいなかった。それで、おいらたちと一緒に暮らすことになった。
「頼むよ、ソーィエ」
兄貴にそう言われちゃあね……。分かりました。おいらが、このちびを
弟たちも協力してくれることになった。
セイモアは、本当に小さかった。ビーヴァ兄貴がいないと、不安でたまらない様子だった。おいらを怖がっているのは、仕方がない……最初、喰おうとしたからな。けれど、仲直りしたあとも、不安がっていた。
ゴーナ(熊)が怖いらしい。
ゴーナは、ルプスよりもっと大きな毛むくじゃらの連中で、くさい臭いがする。おいらは、兄貴たちと一緒に狩りをしたことがあるが、それでも怖い相手だ。ルプスは群れをつくるが、ゴーナはひとりでも、ルプスより恐ろしい。
セイモアは、両親をゴーナに殺されて、巣穴のなかで死にかけていたんだ。
おいらは、ちょっとちびに同情した……。それで、兄貴が留守のときは、くっついていてやることにした。
セイモアは言葉を覚えると、けっこう喋った。
――ねえ、ソーィエ兄ちゃん。
――なんだ。
――ビーヴァの兄貴には、尻尾がないの? 母さん(タミラ)も。
――ないな。
――どうして、いつも後ろ脚だけで歩いているの? 疲れないのかな?
――疲れるだろ。だから、時々、座っている。
――兄貴って、大きいね。
――大きいな。
――ゴーナより強い?
――強い。兄貴も、おいらたちも。だから、安心しろ。
――うん。
本当は、おいらは知っているんだ。
兄貴たちの強さは、群れの強さだ。兄貴ひとりだけだったら、おいらたちと同様、ゴーナには敵わない。でも、兄貴たちは《火》を使う。《飛ぶ爪》も《長い牙》も持っている。なにより、仲間がおおぜいいる。
だから、ゴーナに負けたりしない。
危ないからゴーナ狩りにはついて来るなって言ったのに、セイモアは、兄貴を追いかけて来てしまった。おいらは、仲間たちと一緒にゴーナを追っていたから、かまってやれなかった。
あいつは、ちびのくせに頑張って、兄貴の役にたったらしい。褒められて、嬉しそうだった。
その日から、ちびは、あんまり怯えなくなった。
2.
暖かくなって、そろそろまた狩りにでかけようかという頃。川から、見たことのない
そいつは、名前をマシゥと言った。ビーヴァ兄貴に会いに来たんだ。
兄貴たちがマシゥと一緒に《大きな巣(王の家)》にこもっている間、おいらは外に居て、どんな話があったのか知らない。兄貴とエビ大兄貴が、マシゥをとなりの群れ(ワイール氏族の集落)に連れて行くとき、おいらは一緒に行っていいと言われた。
やった! 狩りだ!
今度は、ちびはラナと留守番をすることになった。ちびは、何故かすごく嫌がった。
――兄ちゃん。行っちゃうの?
――おう。
――嫌だよう。怖いよう。僕も連れて行ってよ。
――なに言ってんだよ、お前。ゴーナは倒しただろうが。お前も、喰っただろ?
――そうだけど……。違うんだ。気持ちが悪いんだ。行かないでよう。
落ち着いたと思っていたのに、ちびが何を怖がっているのか、おいらには全く分からなかった。兄貴にも分からなかったらしい。ちびを撫でて、こう言った。
「ラナと母さんを頼んだよ、セイモア」
ちびは、しょんぼりしちまった。
おいらたちは、マシゥを連れて森へ入った。しばらくの間、ちびが悲しそうに兄貴を呼ぶ声が聞こえたけれど、引き返さなかった。
兄貴から、あまり先へ行かないよう言われた。マシゥ、こいつが、とにかく足が遅いんだ!
おいらは、カタツムリ並みにゆっくり歩いた。それでも、ときどき立ち止まって、マシゥを待ってやらなきゃいけなかった。……嗚呼、おいら、こいつと狩りは出来そうにない。
おいらは、木の実を貯めこんでいる野ネズミの巣をみつけた。ウサギと、キツネの足跡もみつけた。うずうずしていると、兄貴はいつもの、かっこいい笑顔を見せてくれた。
「ソーィエ、タァ(行け)!」
――待ってました!
おいらは、キツネを追って駆けだした。ビーヴァ兄貴は、二本脚でも、おいらと一緒に走ることが出来る。下り坂なら、なおさらだ。
おいらたちは、風向きに気をつけながら、谷を駆け下った。窪地によどむ霧のなかにキツネをみつけると、兄貴は、おいらを止まらせた。
おいらは、兄貴が《飛ぶ爪》を構えるのを、息を殺して見守った。
ひいよぅっ! と音がして、爪はキツネに当たった。さすが、兄貴!
おいらは、キツネに駆け寄った。獲物を横取りしようと狙う奴は、おおぜいいる。特に、カラスやロカム(鷲)のやろうには、うっかりすると、すぐに盗られてしまう。
おいらたちが守っているから、兄貴たちは、後からゆっくり来ればいい。兄貴は、ちゃんと分かっている。頭を撫でて褒めてくれた。
(おいらは、こういう時が、いちばん好きだ。兄貴と狩りをしているとき、獲物をうまく捕まえたとき。兄貴が褒めてくれるとき、兄貴が嬉しそうなとき……。楽しそうな兄貴と一緒にいると、おいらも楽しい。
こういうのを、幸せって言うんだろう。)
その後、おいらたちは、嵐に遭った。兄貴たちは穴を掘って、寒さと雨を凌いだ。アンバ(虎)にも出会ったけれど、なんだか、すげえ楽しかった。
旅が終わる頃には、ビーヴァ兄貴とマシゥは、すっかり仲良くなっていた。
夕暮れまえに、おいらたちは、となりの群れ(ワイール氏族の集落)のなわばり(集落)に着いた。そこで、今度はユゥク(大型の鹿)を連れた
牝はキシムと言った。おいらは知らなかったけれど、ビーヴァ兄貴は知っていたらしい。ちょっと変わった牝だ。それに……兄貴の様子が、少しおかしい。
あれ?
兄貴の巣を出入りしている小さな牝、ラナは、兄貴と
兄貴には、キシムのにおいがついていた(キシムのにおいだと、その時、おいらは知った)。キシムには、兄貴の……。これは、ひょっとして、そういうことなんですかい、兄貴?
マシゥがとなり群れの長(ワイール氏族長)に何か言い、おいらたちは食事に招かれた。おいらは、ふっとい骨つきの肉をもらった。ごちそうだ。
セイモアがいきなり飛びこんできて、おいらたちはびっくりした。またしても、兄貴を追って来たらしい。しようがない奴だなあと思っていると、今度はマグが現れて、マシゥに殴りかかった。
3.
タミラ母さんが、死んだ。
報せを聴いたおいらたちは、おおいそぎで群れに戻った。となり群れの連中(ワイール氏族)と、キシムも一緒だ。帰ってみると、なわばり(集落)は大変なことになっていた。
《大きな巣》は、壊れていた。焼けた煤のにおいと、血のにおいがした。ラナと、なんにんかの牝と子どもたちが、いなくなっていた。ビーヴァ兄貴とおいらたちの巣は残っていたけれど、タミラ母さんは死んでしまった。
おいらには、何が起きているのか分からなかった。
兄貴たちのほかに《火》を使えるやつはいないが、巣を燃やすはずがない。
タミラ母さんは喰われていなかった。喰わないのに、殺す理由がわからない。
――どうしてですか? 兄貴。
答えて欲しかったけれど、兄貴は黙っていた。エビの大兄貴もだ。おいらたちに餌をくれるけれど、自分たちは食べようとない。おいらは心配になった。
――元気だしてくださいよ、兄貴ィ……。
おいらとちびは、ビーヴァ兄貴にくっついていた。
兄貴たちとおいらたちの言葉は違う。兄貴たちは声をたてて鳴くが、おいらたちは身ぶりが多い。複雑な鳴き声はわからないけれど、おいら、兄貴の声はよく解る。兄貴も解ってくれている。
タミラ母さんといっしょに巣を燃やした兄貴のてのひらに、おいらは鼻を押しあてた。セイモアが、兄貴の膝に顎をのせて呼びかける。
兄貴が悲しんでいると、おいらたちも悲しい。兄貴がつらいと、おいらたちもつらい……。
「ごめん、ソーィエ」
兄貴が話しかけてきたので、おいらは、ちょっとドキッとした。
兄貴は低い声で、うなるように言った。
「どうしてこんなことになったのか、分からないんだ。俺も……どうすればいいか、わからないんだ」
――兄貴ィ……。
エビ大兄貴が怒った顔でやって来て、ビーヴァ兄貴に声をかけた。マシゥを連れて、《飛ぶ爪》を当てる遊びをやったけれど、兄貴は外した。全然やる気がなさそうだった。
おいらは、兄貴が心配で、離れられなかった。
遅れて、マシゥがやって来た。
マシゥもやっぱり、兄貴のことが心配だったらしい。並んで座り、しばらく話をしていた。どんな話なのかは分からなかったけれど、兄貴は顔をあげてくれた。マシゥと《飛ぶ爪》を交換して、前足を握った。新しい挨拶らしい。
おいらは、ちょっとだけマシゥを見直した。兄貴を元気づけてくれたんなら、なんでもいいよ……。
キシムの群れの長(カムロ)が、ユゥク(大型の鹿)をたくさん連れてやって来た。兄貴たちは、いっとう大きな牡のユゥクを殺して分け合った。おいらとセイモアも、分けてもらった。生のユゥクは、やはり美味い。
兄貴は、キシムと
キシム姐御は、優しいというより、頼もしいひとだ。
ふつう、
喧嘩しているわけじゃないよな?
兄貴がみょうにおどおどしているので、おいらは不安だった。
セイモアは図体がでかくなって、だんだん態度もでかくなってきた。あー、これだから、ルプス(狼)は
――お前、ずいぶん楽しそうだな。
――え? だって、嬉しいじゃないですか。兄貴と狩りに行くんですよ。僕もやっと連れてきてもらえた。
ふつう、なわばりを離れるのは、危険なんだが……。やっぱり何も考えていないらしい。
ユゥクを連れて狩りをしたことなんてない。いつもと様子が違うと思っていたら、おいらの不安は当たった。
兄貴が倒れたんだ。
河口のちかく、森の切れるあたりだ。ぼうっと木の上を眺めていた兄貴が、突然、倒れた。おいらが慌てていると、セイモアは、空を仰いで叫んだ。
――兄貴が飛んだ! 飛んだよおぉ~!
――うるさい! 何言っているんだ、お前。
「邪魔だ、どけ!」
キシム姐御が怒って、おいらたちを蹴とばした。はずみで、スレインが姐御の毛皮から落ちてきた。ちびは、おいらの足元に、
「戻れ、ビーヴァ!」
姐御は、骨の杖を振りかざすと、倒れている兄貴の前足に、そいつを突き刺した。血がとび散り、おいらとセイモアは、ほんとうに慌てて駆けまわった。
――何するんスか、姐御。兄貴が痛いじゃないですか!
ギャアッ ギャアッ
おいらたちの頭の上で、ロカム(鷲)が叫んでいた。黒い羽をばたつかせ、よろめきながら飛んで行く。キシム姐御とセイモアは、そっちを気にしていた。
ビーヴァ兄貴が気づいた。良かった! おいらは駆け寄って、顔を舐めた。セイモアも、戻ってきて兄貴を舐めた。
――痛いですか? 兄貴。大丈夫ですか?
「あ……」
兄貴は、まだぼうっとしていた。キシム姐御に傷の手当てをしてもらいながら、ロカムを眺めている。
姐御は、ひどく難しい顔をしていた。
4.
仲間が、おおぜい死んでしまった。
ちびの牝(ラナ)を救い出したかったのに、群れの長(アロゥ族長)と子どもたちが殺されて、兄貴はすっかり沈んでしまった。姐御にも、どうにもできないらしい。姐御は姐御で、死者の弔いに忙しかった。
エビ大兄貴は、行ってしまった。おいらたちに挨拶をしてくれたけれど、どこへ向かったのかは分からない。
マシゥは、大怪我をしていた。
他に世話をする奴がいないんだから、仕方ない。兄貴は、マシゥの傷の手当てをした。折れた前脚に木の枝をくくりつけ、餌を食べさせた。マシゥは、自分で食べられないくらい弱っていたんだ。(おいらたちも餌をもらったけれど、おいらたちは元気だぞ。)
セイモアは、やっぱり変なやつだ。
キシム姐御がやってきて、新しい巣のなかで、兄貴と話をした。ふたりで食事をして、ビーヴァ兄貴がマシゥと並んで横になると、セイモアは、ふいと巣を出て行ってしまった。
――おい。どこへ行く? 兄貴を守んなきゃ、ダメだろ。
と、おいらは言ったけれど、あいつは、全然聞いていない風だった。しようがないなあ、これだから、ルプス(狼)は……。
「ヨゥ、ヨーウ。ソーィエ」
姐御は、おいらの首周りの毛をなでて言った。行かせてやれ、ということらしい。赤毛のちび(スレイン)も、一緒にいる。
おいらは、セイモアを放っておいて、兄貴を守ることにした。
夜中だと、思う。
なにか……が、巣をおおうユゥクの皮をすり抜けて、入って来た。音はしなかったけど、マツヤニを燃やした煙に似た、変なにおいがした。
――何だ?
おいらは、そっちに注意をむけた。姐御とちびは眠っているし、マシゥはうなされている。兄貴は静かに寝ているけれど、起こした方がいいのかどうか、分からない。
「ソーィエ?」
姐御が目覚めた。おいらが警戒していることに気づいて、杖をかまえる。
おいらは、唸りながら迷っていたけれど……『そいつ』が眠っている兄貴に近づいてきたので、ぞっとした。
こいつ、危ない! やばい奴だ!
ガウッグルルルッ、ワンワンワン!
――起きてください、兄貴! 姐御! こいつ、やばい奴だ!
おいらは、『そいつ』と兄貴の間に跳びだし、牙をむいて叫んだ。
「何者だ?」
姐御も気づいてくれた。煙みたいな『そいつ』が、盛り上がったり渦を巻いたり、伸びたり縮んだりしながら兄貴に近づこうとしているのを見て、杖を振り上げた。
「ケレ(悪霊)か! 下がれ! ソーィエ、来い!」
おいらの牙は、『そいつ』に触れても、何の効き目もないみたいだった。兄貴を起こそうと吼えていたら、姐御は、杖で『そいつ』をぶん殴った。『そいつ』は、細かい塵みたいになって、崩れて消えた。
やっぱり頼もしいぜ、姐御!
おいらは嬉しかった。姐御がおいらを信じてくれただけでなく、ちゃんと兄貴を守ってくれたことが。
姐御も、おいらを撫でて褒めてくれた。
「よく起こしてくれたな、ソーィエ。よくやった」
――へへ。ついて行きますぜ、姐御。
マシゥが目覚めたのは、翌日の夕方だ、セイモアも、ようやく帰って来た。ビーヴァ兄貴は、起きて迎えた。
セイモアは水にぬれていたうえ、左耳に大きな怪我をしていた。血をうしなって、ずいぶん草臥れていた。
兄貴は、セイモアを抱えていたわった。おいらも、傷を舐めてやった。
5.
しばらくの間、おいらたちは、一緒に過ごした。 おいらとセイモアとちび(スレイン)、兄貴と姐御とマシゥだ。
マシゥの怪我は、なかなか治らなかった。兄貴は、おいらにマシゥの世話をさせたがった。
――でもねえ。おいらにとっては、ビーヴァ兄貴がいちばんで、キシム姐御が二番め。セイモアとちびがその次で……マシゥは本当、仔犬より前足がかかるから、勘弁してほしいんスけど。
「頼むよ、ソーィエ」
兄貴は片目を閉じて、おいらを喜ばせようと背中をがしがし掻いてくれた。マシゥは兄貴にとって大切らしい。セイモアには任せられないし(なにしろ馬鹿だから)、仕方がないか。
(兄貴がいちばん、なんだ。どうして離れてしまったんだろう。兄貴さえいてくれたら、おいらは、それでよかったのに。)
兄貴と姐御は、マシゥを連れて、氷河の洞窟へ行った。おいらとセイモアも、一緒だ。小さな牝(ラナ)が帰って来ても、兄貴は、マシゥの方が大事みたいだった。ラナは、可哀想に、泣いたり怒ったりしていたけれど……。
*
おいらとセイモアは、兄貴とマシゥと一緒に、狩りに出かけた。
兄貴は、ゴーナ(熊)を避けるために、キィーダ(皮舟)を漕いだ。おいらは慣れていたから、すぐ跳び乗った。セイモアの奴は、尻込みしていた。乗ってからも、足下が揺れるのを怖がって、兄貴から離れなかった。――まあ、仕方がないよな。おいらは、大目に見てやることにした。
みずうみを渡る途中で、雪が降り始めた。
雪はみるまに積もって、辺りは真っ白になった。おいらとセイモアは平気だが、兄貴たちは寒そうだった。兄貴は、マシゥの怪我を心配していた。マシゥの左の前脚は、血のめぐりが悪くて、冷たくて、いやなにおいがする。そのうち凍っちまうんじゃないかな。
新しい森に入ると、兄貴は『みそぎ』を行った。
おいらには、よく分からない。寒いはずなのに、ビーヴァ兄貴は毛皮を脱いで、雪の中に坐りこんだ。おいらは、兄貴の毛皮と、マシゥの番を仰せつかった。マシゥは、まだ眠っている……。毛皮を脱いだ兄貴が凍っちまうんじゃないかと心配していたら、セイモアが駆けてきて、兄貴にどしーんとぶつかった。
――ああっ! あのばか。兄貴に何するんだ!
でかくなったセイモアに体当たりをくらって、兄貴は雪のなかへ倒れ込んだ。セイモアは、ふわふわの雪のなかを、おおはしゃぎで駆けまわり、また兄貴にじゃれついている。おいらは気が気じゃなかったが、マシゥの側を離れるわけにいかない。
「ソーィエ。……ビーヴァは?」
目覚めたマシゥが、兄貴をみつけて、驚いた顔をした。そりゃそうだよな。
「おーい、ビーヴァ!」
マシゥが呼んでくれ、兄貴は焚き火のそばへ戻って来た。笑っている。怪我をしていないならいいんだが。
――ええい! この、てめ、どきやがれ!
――やめてよ、兄ちゃん。くすぐったいよ!
セイモアがいつまで経っても兄貴から離れないので、おいらは頭にきた。割り込むと、兄貴はおいらとセイモアの毛にまみれて、また雪の中へひっくりかえった。
兄貴は笑ってくれた。マシゥも笑っていた。
おいらたちは、南へ南へ、河をくだった。途中、兄貴はユゥクを狩り、おいらとセイモアは、生の肝臓を食べさせてもらった(ごちそうだ、ごちそう!)。どこへ向かっているのか知らなかったけれど、辿り着いたのは、大きな なわばり(街)だった。
ぐるりを高い土の壁に囲まれた、なわばりだ。おいらは、こんなのを観たことがない。ビーヴァ兄貴も、警戒していた。
マシゥの仲間なんだろう、においが薄くて尾のない奴が、おおぜいいた。ユゥクより背の高い奴(馬)、ゴーナ並みに毛の長い奴ら(牛)もいた。おとなしそうだが、喰うには、ちょっとでかすぎるかもしんない。
マシゥは、兄貴を、自分の巣へ連れて行った。
土と石を固めてつくった四角い巣だ。周りには、毛の長い奴(牛)や、鳥のにおいがしていた。待っているおいらたちの前を、羽の小さな太った鳥(鶏)が、行ったり来たりしていた。
あれは、たぶん、飛べないよな。
幼い声がした。
「たあま、んま。……わんわ!」
え?
「わんわ!」
――ええっ?!
小っさい子どもが現れて、おいらに抱きついた(セイモアの野郎、逃げやがった)。おいらは、びっくりして毛を逆立てた。
誰だ、こいつ。いきなり、何するんだ?
「ヨゥ!(止まれ) ソーィエ。ヨーウ!」
兄貴がするどく言ったので、おいらは、牙をしまった。子どもにぎゅうっと首をしめられて、おいらはげんなりした。勘弁してくれよ……助けて下さいよ、兄貴ィ……。
それが、ジルぼっちゃんとの出会いだった。
6.
ジルぼっちゃんは、マシゥの息子だ。ほかに、テリーおばさんがいた。
ビーヴァ兄貴のなわばりにも、勿論、子どもはいた。ラナも昔は小さかったし、おいら、子どもが嫌いなわけじゃない。だけど、おいらは兄貴の
それが、どうだ。
ジルぼっちゃんは、初めて会ったおいらを、むぎゅーっ!とした。むぎゅーっだぞ、むぎゅーっ! 人形かなにかと、間違えているんじゃないか? おいら、首は絞められるわ、兄貴には注意されるわ、本当に情けなかった。
セイモアは、兄貴とおいらの後ろに隠れて、上手に逃げた。あいつは、兄貴とラナ以外の奴に触られるのが、嫌いなんだ。
おいらがほとほと困っていると、兄貴は、ユゥクの干し肉を持ってきてくれた。ジルぼっちゃんに渡して、力の入れ加減を教えた。……助かった。ぼっちゃんが改めて出してくれた肉を、おいらは食べた。
仲直りってやつだ。
それから、ぼっちゃんは、無理においらを絞めることはしなくなった。撫でてもらえるなら、おいらだって、いやじゃない(セイモアは避けていたが)。仲良くなれそうだと思った。
……ここから先のことは、おいら、あんまり話したくない。
マシゥの群れの親玉(エクレイタ王)に会ったとき、奴らのひとりが兄貴に触ろうとしたので、おいらは威嚇した。だけど、奴らは、兄貴をあぶない目に遭わせるつもりはなかったらしい。急いで北へ還ることになり、テリーおばさんとジルぼっちゃんは、別れを惜しんでくれた。
兄貴とマシゥは、角のないユゥクみたいなの(馬)に乗った。おいらとセイモアは、はりきって駆けた。マシゥがまた一緒なのは不思議だったけれど、気にならなかった。
途中、兄貴はライチョウを狩った。毎年、冬になると簡単に捕まえられる奴だ。この時まで、兄貴は元気だったんだ。
ユゥクみたいなの(馬)は、森に弱かった。蹄を傷つけたり、
おいらが気づかないうちに、ビーヴァ兄貴は弱っていた。餌を食べなくなり、寝ている時間が長くなった。おいらとセイモアは、くっついて兄貴をあっためたけど、役にたたなかった。
兄貴ィ……。
遠くでルプス(狼)の群れが狩りをしていた夜、突然、ビーヴァ兄貴は吐き始めた。おいらとセイモアは、びっくりして兄貴を舐めた。兄貴は苦しがっておいらたちを押しのけ、雪のなかに倒れてしまった。
――兄貴、兄貴! しっかりしてください、兄貴!
兄貴は、おいらの首の周りの毛をつかんだ。凄い力だった。ぐいと引っ張られて、おいらは息をとめた。
「ソーィエ! マシゥを守れ。離れるな……!」
その声は、おいらの体の芯を貫いた。おいらは、身ぶるいした。
兄貴は、セイモアにも言った。
「セイモア。ちからを、貸してくれ……!」
それきり、兄貴は眼を閉じて、動かなくなってしまった。
おいらが舐めても、あっためても、兄貴は眼を開けてくれなかった。体がどんどん冷たくなっていくのを、おいらは、どうすることも出来なかった。
ルプスの声が聞こえた。セイモアの知らない群れだ。やばいとは思ったけれど、おいら、兄貴から離れるつもりはなかった。
どうしてそんなことが出来る?
マシゥが、おいらの首紐をひっぱった。おいらが暴れると、セイモアの奴、体をぶつけて来やがった。
――兄貴を置いていくってのか? 何故だ! おいらは嫌だ、ぜっったい嫌だ! 兄貴と一緒にいる。喰われたってかまうもんか! 離せ、マシゥ。離しやがれ!
兄貴の声が、聴こえた。
『ソーィエ! マシゥを守れ。離れるな……!』
――兄貴!
おいらは泣きながら、雪のなかをひきずられて行った。
7.
……おいらは、ビーヴァ兄貴の供犬だ。
赤ん坊のころ、おいらを毛皮に入れて温めてくれたのは、兄貴だ。おいらに餌をくれ、糞の始末をしてくれた。毛づくろいをして、痒いところは掻いてくれた。狩りのやり方を、橇の曳き方を教えてくれた。
おいらたちは、いつも一緒だった。
狩りに行くときも、キィーダ(皮舟)に乗るときも。おいらがついて行っちゃいけない事情がないかぎり、兄貴は、どこへでも連れて行ってくれた。兄貴と仕事をするのは喜びだった。一緒に走って、獲物を捕って、褒めてもらえるのは嬉しかった。遊んでもらえて楽しかった。
兄貴がいないのに、おいらはいる。何故だ?
セイモアは、おいらをなだめようとした。おいらが怒っていると思ったんだろう。
違うんだ!
誰か、教えてくれ! どうして、おいらは兄貴と離れているんだ?
――兄貴! どこにいるんですかい?
…………。
マシゥを守れと言われた。それが、今度のおいらの仕事らしい。
兄貴が帰って来るまで、おいらは、マシゥの側にいなきゃいけないらしい。
――わかりました、兄貴。おいら、仕事はきっちり果たしますぜ。
だから、帰ったら、いっぱい褒めて下さいよ……。
8.
ガタタタン、と派手な音がした。それから、おおーとわめく声が。
まただ。おいらは、急いで小屋へ向かった。
水を運んでいたんだろう。桶が転がり、土が水にぬれていた。敷きわらが散らばり、驚いたウマが蹄を鳴らしている。一番奥の柱にしがみついて、マシゥは、わあわあ叫んでいた。洟をすする音にまじって、声が聞こえた。
「すまない、ビーヴァ。すまない……!」
これで何度目だ? ああもう、世話が焼ける。
おいらはマシゥに駆け寄ると、びっくりしているウマは放っておいて、上着の裾をくわえて引っ張った。マシゥは、はじめ首を振って抵抗していたが、ずるずる下がってしりもちをつくと、今度はおいらにしがみついて泣きだした。
――きつい。苦しいだろ、こら。
おいらは仕方なく、ぐしゃぐしゃになったマシゥの顔を舐めた。
ラナたちと別れてから、マシゥはずっとこんな調子だった。毎日毎日、ちょっとしたきっかけで泣きだした。ただ泣くだけじゃない。大声で叫び、物を投げ、自分で自分の頭を壁に打ちつけたり、刀で腕を切ろうとしたりするもんだから、危なっかしいったらなかった。
『ソーイエ、マシゥを守れ。離れるな』
それが、兄貴の命令だ。だから、おいらはマシゥについて来た。けどもう、本当に、世話が焼けて仕方がない。
「ソーィエ、すまない。私が来たばっかりに……。私がいなければ、君のご主人は、死なずにすんだ」
――うるせえ。なに言ってるかわかんねえんだよ。泣くな、みっともない。
マシゥには、おいらの言葉は分からないみたいだ。おいらも、どうしてこいつが大騒ぎするのか分からない。ただ、兄貴に会えないのが悲しいのは分かった。おいらも同じだったから。
ビーヴァ兄貴。おいら、いつまでここにいなきゃいけないんですか?
ジルぼっちゃんとテリーおばさんが来てくれて、おいらはホッとした。とにかく、おいらが独りでマシゥの面倒をみるのは、大変だったから。
「そうえ!」
ジルぼっちゃんは、おいらを見るなり、大喜びで駆けてきてくれた。おいらは、尻尾を振って迎えた。
テリーおばさんは、いいにおいのする手で、おいらを撫でてくれた。
「マシゥを守ってくれていたのね、ソーィエ。ありがとう」
「みんな、ビーヴァのお陰なんだ……」
また泣きだした。マシゥは、今度はテリーおばさんに抱きついた。おいらはぶるりと体を振って、毛並みを整えた。
*
マシゥは世話が焼けるし、やることなすこと、兄貴に比べると下手だし、どうしようもなかった。
けれど、たまにいい事を言った。
暖かくなったある日、あいつは、おいらを誘った。
「君のご主人を探しに行こう、ソーィエ」
――そいつはいい考えだ。
おいらは、尻尾を振ってこたえた。
ロマナ湖の東。雪が消えたあとの湿原を、おいらはマシゥを連れて歩いた。兄貴を探して。兄貴の靴とか毛皮とか、荷物とか。あの時、忘れたものがないかと思って。
おいらは、ぜったいに見つける自信があった。兄貴のにおいを、忘れることなんてない。湖の反対側からだって、分かると思ってた。
……本当に、見つけたんだ。懐かしいにおいを目指して、おいらは、駆けだそうとした。
その時、
《ヨゥ(止まれ)、ソーィエ!》
兄貴の声が頭にひびき、おいらは、尻尾を立てて立ち止まった。背中の毛が逆立つ。
《待ってくれ、ソーィエ。……マシゥを連れてこないでくれ》
「どうしたんだ? ソーィエ」
マシゥが呼ぶ。おいらは困って、くんくん鼻を鳴らした。兄貴は、においがするのに、声が聞こえるのに、いなかった。おいらには、観えない。
――兄貴。あにきィ……。
《ごめんよ、ソーィエ。本当に、ごめん》
おいらは哭いた。声をあげて哭いた。どうして会えないんですかい、兄貴。姿を見せてくれないんですかい? 兄貴はそこにいるのに、掘り出しちゃあ、いけないんですかい。
《約束する。必ず、会いに行くから……迎えに行くから。今は我慢してくれ、ソーィエ。お願いだ》
――約束?
あおあお啼いていたおいらは、口を閉じた。土と兄貴のにおい、フウロソウとしめった羊歯のにおいの中で、声を聴いた。
《そうだ。キシムに埋めてもらったんだ。俺の身体は、放っておいてくれ……。マシゥを守ってくれ、ソーィエ。お前の仕事が終わったら、必ず、迎えに行くよ》
――本当ですかい? 兄貴。
《俺がお前に、嘘をつくはずがないだろう》
兄貴が笑っているのがわかった。泣いているような声で、笑っている気配がした。
……そうだ。これは、おいらの仕事だ。
セイモアには任せられない(なにしろ、馬鹿だから)。おいら以外の誰にも出来ない。マシゥを守り、兄貴を守るのは、おいらだ。
おいらは、耳をぴんと立て、尻尾をあげた。風に残る兄貴のにおいを胸いっぱいに吸い込むと(また泣きそうで困った)、くるりと体の向きを変えた。
マシゥが呼んでいる。早く戻ってやらないと、あの馬鹿は迷うんだ。
兄貴の声が、聞こえた。
《……ソーィエ、ありがとう》
**
おいらは、ここに居る。
いっぱい喰って、いっぱい寝て。ジルぼっちゃんに狩りを教え、テリーおばさんの手伝いをして……ときどき、マシゥの世話をしながら。
兄貴が迎えに来てくれるのを、待っているんだ。
兄貴は、きっと褒めてくれる。おいらを撫でて、ねぎらってくれる。
そうして、また、一緒に狩りに出掛けるんだ。
おいらには、兄貴の声が聞こえる。とびきりの笑顔で、こう言うんだ。
「ソーィエ、タァ(行け)!」
~『その声を待っている』 完~
このお話は、読者様のリクエストを頂いて書いたものです。ありがとうございました。ソーィエを気に入って応援してくださった皆様、ありがとうございました。(作者 拝)
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