第72話 あなたを愛してますの

 日曜日の朝、俺はまた早めに家を出る。母と妹からは何の予定か疑われた。莉念りねんは予定が無いと二人に昨日の夕方も話していたからだ。俺は家族に莉念りねん以外の女性の人間関係に深く話をしていない。

 まあ、中学時代も莉念りねん以外の人間関係が壊滅だったので、話題が出ないのは気にされていなかったけれど。


 ランニングに全く似つかわしくない曇天と雨が今にも降り出しそうな朝だ。俺の重い心持ちを表しているかのようだ。

 それでも、雨でなければランニングを行わなかった事が少しばかり憂鬱で、俺は待ち合わせの駅前に向かう。

 初夏とは思えない弱々しい日差しのもと、俺は時間通りに到着したつもりだった。

 しかし、すでに待ち合わせ場所には雨天の下に咲く紫陽花のように美しい色をした日傘を差した少女が一人立っていた。茶色のハーフアップの髪が、少し湿っぽい風にふわふわと揺れている。

 ワンピース型の服でふんわりと広がるスカートが、そわそわと人を待つ彼女の気持ちを表すように揺れている。ゆっくりと近づいて彼女に声を掛けた。


鳳蝶あげは、おはよう」

「! おはようございますの、尚順さん」

「今日も可愛いね」

「ありがとうございますの」


 腰にベルトを使って絞ることで、彼女のスタイルの良さと腰の細さが強調される。今日もアクセサリーは高級そうだ。

 鳳蝶あげはの付けているアクセサリーは少ない。

 胸元に輝くダイヤを使ったネックレスは、高校生が使うにはダイヤ自体が大きめだが、鳳蝶あげはの見目の良さの前には正しく装飾品として働いている。

 白だと思ったが、ほんのり淡い藍色がついていて、白のワンピースとは違った印象を与えた。

 じっと俺が見ていたせいだろう。日傘の下で恥ずかしげに鳳蝶あげはが身を捩る。

 鳳蝶あげはがおずおずと言った態度で手を差し出した。


「行きませんか?」


 昨日の蠱惑的に誘ってきた華実かさね先輩と比較すると、奥ゆかしくて清楚な少女だ。これから行先を俺たちだけが内心で知っている。その手を握って、彼女が望むとおりに先導する。

 ……悩んでいた。

 彼女を気持ちよくしたほうが良いのか、しないようにすれば良いの。


 ホテルについて、今日はランクを落とした部屋にしようとしたら、すぐに鳳蝶あげはの手が伸びてまた同じ部屋を取った。


「こちらが良いんですの」

「そうなの?」

「はい」


 莉念りねんはその部屋を基準にしつついろんな部屋を見るんだけどな。俺はそう思いつつ、笑顔で鳳蝶あげはにわかったと答えて、部屋へ向かった。

 今日は前回のように鳳蝶あげはの内装観光は行われなかった。彼女は前回、俺が教えた場所にカバンを置いて、ベッドに腰掛ける。

 彼女が俺の頬の手をそえて、そっとキスをした。

 鳳蝶あげはの望むまま、また写真を撮って行為をして、一度落ち着く。

 鳳蝶あげはの髪から背中へ手を動かして撫でながら、ポツリと悩んでいたことが口に出た。


鳳蝶あげはは、気持ちよくなかったら好きだと思わないのかな」


 薄暗いホテルの部屋の中、俺の言葉に、少しうとうとしていた鳳蝶あげはが目を開いて、徐々に思考が覚醒したのかバッと体を起こす。そして、泣きそうな顔をしていた。

 俺も体を起こして、鳳蝶あげはと向き合う。


「どうしてそんな事言いますの!」

「……いや」

「尚順さんは、私がしたいから尚順さんを好きになったとおっしゃりたいのですか!?」

「ごめん、違うんだ」

「違いませんの! 私、私! するのは私があなたを好きだからですの! だから、触れ合いたくて、入れてほしくて、恋しくてこんなに求めてるのに、どうしてそんな事をおっしゃるの」


 さめざめと泣き始めた鳳蝶あげはを抱きしめる。お互い裸のせいで、肌と肌が密着すれば、鳳蝶あげはの泣き出した感情が余計に痛々しく伝わってくる。

 泣かせたくないために、鳳蝶あげはとすると決めたのに、泣かせてしまった。


「ごめん、ごめんね、鳳蝶あげは

「どうしてそんな事をおっしゃったの。こんなに好きなのに、あなたと性欲だけでしたいだけの女だと思われていたなんて、ひどい。ひどいですの」

「ごめん、ごめん鳳蝶あげは。俺が思い込んだだけだったんだから」

「誰に言われたんですの!」

「……彼女が、気持ち良いから愛されてるって感じるって」


 そう言った瞬間に、起き上がって抱き合っている体勢から押し倒された。ボロボロと俺の顔に涙の粒が落ちてくる。見上げれば、泣いたままの鳳蝶あげはが俺を見つめていた。


「私は、違いますの」

「違う、の?」

「はいですの。愛を伝えたくて、好きと伝えたくて、全部全部、伝えたくてしていますの。

 気持ち良いから愛されてると感じるためじゃなく!!

 住道すみのどう鳳蝶あげはとして、あなたに全部、全部上げますの。好きと愛してると、だから、お金じゃなくて、人でもなくて、私を全部!」


 ……ああ、やっぱり一緒になってしまう。好きだと莉念りねんに教えたくて、伝えたくて、幼馴染だからと体を許してくれる莉念りねんに肌と肌で触れ合ってすがりついて伝え続けている。

 鳳蝶あげはが座り位置を動かす。そのまま彼女が俺の肌を手でなぞっていく。


「こうやってるのに、伝わってませんの? こんなにしてるのに、そんな事を言われるなんて、伝わってませんでしたの?」


 ポロポロとまた涙を流し続ける鳳蝶あげはに俺は謝ることしか出来なかった。でも、本当は分かっているんだ。俺はそれから目をそむけている。

 彼女が欲しいのは、俺に好きと言ってほしい。愛してると俺から返してほしい。

 俺が莉念りねんにしてほしいように。

 でも、女友達の鳳蝶あげはに恋人として求められるような「好き」を嘘でも返すわけには行かないから、俺は目の前で泣く綺麗な少女を傷つける謝罪しか言葉にできないままだ。

 鳳蝶あげはは俺の恋人ではないから。


「ごめん、鳳蝶あげは。君を傷つけて、ごめん」

「でも、大丈夫ですわ。わかりましたの、私」

「なに、を?」


 彼女が笑う。薄暗い部屋の中で、怪しく笑う。


「私の方が尚順さんの事が好きですわ。あの写真部の部長さんより、私の方があなたを好きですの」

「……それはちが――」

「違いませんわ。だって、私、気持ち良くて愛されるから、尚順さんとしたいわけじゃないですの」

「ちが、う?」

「あなたに伝えたいんですの。愛してるって」


 鳳蝶あげはの方から強く、強く抱きしめられる。その細腕のどこにこんな力があるのかと思わされるほど俺を抱きしめている。


「あなたに分かって欲しいですの。こんなにも、あなたを愛してる」


 俺は分からない。愛してるという鳳蝶あげはが、俺の友人でいてほしいという気持ちを叶えてくれないこと。


 しかし、俺には分かることがある。どれほど繋がりあっても、好きと言ってくれないことを寂しいと感じている鳳蝶あげはの心が、手に取るように分かる。


 俺は鳳蝶あげはと初めてした時のように、鳳蝶あげはにすべてを任せた。

 鳳蝶あげはが叫ぶように俺に告げる。


「あなたを愛してますの」


 俺は答えず、鳳蝶あげはの綺麗な手を恋人つなぎで握り合い、荒く息をする鳳蝶あげはのキスを大人しく受け入れた。


(俺は君を可哀想だと、そう思ってしまって)


 どれほど鳳蝶あげはが好きと言っても繋がり合っても寂しさは埋まらないだろう。俺の心が埋まっていないように。

 涙が溢れてしまう。

 鳳蝶が尋ねた。


「何か、何かお辛いですの? 私で、私ができることで、尚順さんを癒やしたいですの」

「ごめん、違うんだ。鳳蝶、気持ち良いよ。上手に、上手に、なった、ね」


 応えた俺の声が震えてしまった。涙が止まらない。

 鳳蝶は俺を気持ちよくするのも上手になってきた。そんな物が上手くなっても、たった今俺が考えみたいに、相手は、可哀想だと思っているだけかもしれないのに。


 俺も莉念を気持ち良くするのが上手くなった。よがる莉念の姿に暗い気持ちを覚えたこともある。

 上手くなっても、莉念も俺としてくれる時、今の俺みたいに、俺のことを可哀想だと、思って――。


『尚順、可哀想。だから、やらせて、あげるんだよ?』


 そんな事思っているはずがない。そう信じたい。幻聴が俺を襲って、吐き気がする。その瞬間、鳳蝶が俺の口を塞いだ。

 鳳蝶の舌の感触に身を委ねる。吐き気が引いていく。目の前の快楽で思考を逃げさせる。

 この思い至ってしまった辛い考えを忘れるために。彼女の嬌声が俺の幻聴を押し流す。


「尚順さん、好き、好きです。愛してますの! 全部、全部上げる。私の、全部。だから、」


 ――私を愛して。尚順さん。

 ――俺を愛してくれ。

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