第49話2 先輩も。あーん



「尚順さん、本当にありがとうございますの。私、尚順さんといると元気をもらえて、嬉しくて、いつだってあなたのために頑張りたいのですの」

「ああ、ありがとう」

「それで、今日は残念でしたわね。……その、ラブホで男女が過ごすならお風呂も一緒に入りたかったのに」

「いや、鳳蝶……外であんまりそういうの話すのは良くないよ」

「でも、こういう女はお嫌、ですか?」


 名前が鳳蝶なのに、あたかも蝶を捉える虫のように怪しく誘うよう鳳蝶に苦笑いでしか答えられない。その俺の態度に鳳蝶がしゅんとする。

 ごめんねと謝ってから、鳳蝶の頭を撫でる。学校の人が居ないようにと願ってしまう。


「バイトがあるから、もう行かないと」

「本当に残念ですわ」


 今回は時間があまり無かったのは鳳蝶あげはも分かってくれているのだが、時間を置くと残念だと、お風呂も一緒にゆっくり入りたいとわがままを言ってしまう。

 ラブホの部屋ではもっと強いわがままだった。バイトがあるからと俺が強く拒否せざるをえなかった。

 そうすれば、彼女は明日絶対に一緒に入りましょうと言って俺はそれを大人しく約束した。明日もするのか。そんな落ち込んだ気持ちを、鳳蝶に悟られないように気をつけた。

 いくらか頭を撫でられて、キスをしたそうにしつつも満足した鳳蝶あげはと駅で別れを告げる。




「おはようございます!」

「あら、おはよう。折川君」

「おはよう尚順君」


 丸宮まるみや喫茶に着いてすでに店の中で準備を始めるところだった二人へ、可能な限り元気よく挨拶をする。

 出迎えた店長と先輩はいつもどおりの反応を返してくれて俺は自分の態度に出ていないことをホッとした。


 改めてホール側で軽く掃除を行い、店長の丸宮まるみやさんにお願いされてカトラリーのチェックと各テーブルと椅子を濡れ布巾で拭いてから乾拭きする。せわしなく動いていると気が重くなることも考えなくなる。バイトを初めて良かったと思うのは、自分が通っていた頃は意識しなかったことだが、店員目線で見ると案外通う人についてなんとなーく覚えるということだった。

 土曜日の開店はいつもどおりの客足の滑り出しで始まった。徐々に暑くなっている影響か、先週よりもアイスコーヒーのお客さんも多い。また、アイスのレモンティーが女性に人気が高い。

 カランカランと氷がガラスコップで音を鳴らす。ガラスコップの大きさは控えめだが、ここのアイスコーヒーもアイスティーも氷はチェーン店と比較してみると少なめだ。


「あの人毎週、来られますね」

「そうだね。でも、常連扱いなんてしたらいけないよ。どんなお客様にも節度ある距離感が一番良いんだ。馴れ馴れしくて良いことなんてないからね」


 最後の言葉は後悔を多大に含んだ声で言われて、俺は素直に華実かさね先輩に頷いた。お客さんに呼ばれて、華実かさね先輩が小走りに向かった。唯彩がキッチンに声をかけてメニューを伝えてニコニコと並ぶ。

 お昼時には、この喫茶店がランチを出さない関係上、ランチを出す喫茶店と比べると回転もゆっくりとなっていく。

 バイトの休憩時間中に一口サイズほどに小さく切り分けられた桃味のパウンドケーキを華実かさね先輩が持ってきた。

 小さなバスケットに入れられたそれらをテーブルに置いて、もう片手に持っていたアイスティーを俺の前に置く。


「休憩中の尚順君に」

華実かさね先輩ありがとうございます」

「メッセージで言っただろう? パウンドケーキと紅茶で一度楽しんでくれたまえ」

「先輩が作ってくれたんですか?」

「……そういうことを聞かずに胸に秘めて食べるのが私としては嬉しいのだけれど」

「なるほど。でも、作ってくれた人に美味しいと言いたいじゃないですか」

「うぅぅぅぅぅ、……そう?」


 華実かさね先輩が悩むように指をいじいじし始めたのを横目に、パクリと一ピースを口に入れる。ほのかな桃味という香り付けと味の主張しすぎないバランスが口の中に広がる。

 しっかり味わってから、アイスティーに手をつけた。素直なミルクもガムシロップも入れていないアイスティーだ。苦味は少なく爽やかな味合いで、夏の季節にぴったりに思えた。


「ああ、美味しいですね」

「そ、そうかな? 味見して母上からも合格をもらっていたのだけれど、自分で母上のと食べ比べると、本当にこれで美味しいのか不安になってくるというか」

「本当に美味しいですよ。はい、先輩も。あーん」

「うぇ、えぇぇ!?」


 俺がもう一つありがたくいただき、次は先輩にそう促すと驚愕の表情を俺に向ける。先日のクレープでもどうぞとはしたが、あーんはしなかったなと思って、俺は笑顔でためらう華実かさね先輩に圧をかけた。

 休憩時間はかぶらないようにしているが、華実かさね先輩はちらちらと休憩室の扉の方を見て、誰か来るのではないかと不安がりながら、もう一歩すぐに動けないといった具合の態度を見せる。


「ほら、誰かが来たら余計に恥ずかしいのは華実かさね先輩ですよ」

「き、君が言うかなぁ?」

「はい、あーん」

「……あーん。ん」


 小柄な少女の口の中にパウンドケーキが届けられ、もう味なんてわからないという具合に耳まで赤くなった華実かさね先輩がぷしゅーっと音をたててしまいそうだ。

 へなへなと近くの椅子に座り込んだ華実かさね先輩は、顔を赤くしたまま俺を指さした。


「バイト中はこういう交際関係に関わる行動禁止にする。私は、そういう行動をするためにバイト仲間と過ごす気はない」

「……すみませんでした。了解です。華実かさね先輩」

「うむ」


 俺は素直に華実かさね先輩の申し出を受け入れる。彼女にとってこのような線引は常に重要な物として行われてきたのだろうと、これまでの写真部での部長としての行動や、生徒会や教師達との会話に、ゴールデンウィークに付き合ってからも、今日までこのような行動を全く結びつけたりしないことで察せられたからだ。

 部活の活動日も、決してデートまがいのことは許さず、ちゃんと写真部としての活動を徹底していた。彼女は正しく写真部の部長として在りたいんだ。

 今であれば、古参のバイト先輩として働く。これが彼女が求める線引きか。

 だから、先程の行動はただの俺のわがままで、彼女の優しさというものに甘えた結果だ。


「いつもは家に夕食を作るぐらいなのだけど、お店で出すようなスイーツは大変だったよ。かなり母上から分量に注意を受けるし」

「量を沢山作ろうとしたら、計量の回数も大変ですね」

「そうなんだよねぇ。私が作ってるのはお試しみたいなものだから、分量も少ないけど本来はもっと大きな道具も使うからね。そういう機械や道具は……、尚順君は厨房担当じゃないからそもそも入らないね」

「喫茶店のキッチンへは掃除の手伝いに呼ばれた時ぐらいですけど、そもそも俺は料理もできないので」

「今の時代、男子も料理をするべしとは言われないのかな?」

「台所は母親が占領していますからね。たまに掃除で働けって言われるぐらいでしょうか」

「ふふ、そうなんだね」

華実かさね先輩は、俺は料理できた方が良いですか?」

「どちらかなぁ。それは尚順君が料理を喜んでくれるかどうかで変わるんじゃないかな~」


 母親と莉念りねんと、時たま妹がキッチンを支配し莉念りねんは俺を強制排除するので基本的に入ることは無い。華実かさね先輩の料理の写真と説明で彼女の料理の腕については心配がないので、食べる機会があるのならわくわくするレベルだ。


 貴重な休憩時間を、華実かさね先輩と大事に過ごすことができて、俺は朝の沼底のような気持ちから脱却することができ、楽しい気持ちで家路につけた。

 初夏の紺色に染まっていく空に月が登り、俺を見下ろしている。

 軽快に歩く帰り道に邪魔はなく、家の扉を開ければいつものように夕食の良い香りと長い黒髪の少女が俺を出迎え、おかえりと声をかけた。


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