第62話 私、だよ

 部屋で莉念りねんといつも通り過ごしていると、莉念りねんが思い出したような仕草で可愛らしく手をぽんと叩いた。


「井場せんりさん、着物、選んだ」

「ああ、そうなんだ。ありがとう」

「あとは、任せた」

「え、何が?」


 そのまま莉念りねんは黙って俺の手を握った。こういう場合は大人しくしているのが一番彼女が喜ぶのだから、俺は大人しくしていた。

 ポツポツと漏れ出す会話はありきたりな学校の授業のことや周りで起こった事についてで、俺たちはただ日々の当たり前の日常を口にする。

 そこに、俺の友人も恋人も介在することはなく、この空気の時はいつだって中学のフラれる前の空気だった。この空気が辛かったのはいつだろう。この空気の方が辛くなくなったのはいつだろう。

 俺の思考の大部分が傾きそうなところで、莉念りねんの指が俺の頬に触れる。


「ねえ、キスして?」


 ゆっくりと触れ合うだけのキスをした。舌が触れ合わない、まるで初な恋人同士のキスで二人きりの時にも関わらず莉念りねんは珍しく満足したようだった。


「ねえ、テスト、大丈夫?」

「ええ、どうしたの急に」

「夏休み、補習、潰れる、困る」

「ああ、補習あるんだ。レベルが足りなかったらフォローしようとするのは手厚いな。全然気にしたこと無かった」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃなかったら相談する」

「わかった」

「それでさ、」


 それからまた彼女が顔を上げたので、言外に示されたキスしてという態度に俺は応じて、莉念りねんの桜色のぷっくりした綺麗な唇にまた初な恋人みたいなキスをした。


「ん」


 どこか満足そうな、嬉しそうな声を莉念りねんがあげて、紫色の瞳を向けて笑顔になった。

 ああ、そういえば。言葉にされないで俺から会話を中断してキスを行ったのは初めてかもしれなかった。


  φ


「今、良いか」


 放課後すぐ、鳳蝶あげはと話していた俺は田中に声を掛けられる。鳳蝶あげはがにこやかにしつつも、警戒するように一歩俺の背後に隠れるように動いた。田中はそんな態度に気づかないのか、俺たちを二人を見つつ口を開く。


「申し訳ないんだけど、また図書室の手伝いをしてくれないか」

「ああ」


 春にも一度あったなと俺は記憶を思い起こす。中々時間のかかる作業だった覚えがあり、同日動くと図書委員が何かしらの理由があって来られないのだろう。


「俺は構わないよ。だから、鳳蝶あげは、今日もごめんね」

「もう尚順さんは優しすぎませんか? 仕方ありませんわね」


 一瞬冷たい視線を田中に送りながら、しょうがない人とにこやかに俺へ答えた。するりと立ち去る鳳蝶あげはに田中が視線をやるが、俺は田中をうながして図書室へ向かう。

 図書室に向かった田中は、ガランとして人の居ない図書室で俺と向き合った。


「委員長に、聞きたんだけど」

「なんだろう? 図書委員の仕事があるんじゃないのか」

「そっちは……ごめん、そこまで量があるわけじゃないから、嘘だ」


 なるほどと思いながら、田中が何を聞きたいのか大人しく待った。彼は言いにくそうにしながら、迷ってからようやく口を開く。


住道すみのどうさんと委員長は仲が良いけど、付き合ってるのか」

「いや、友達だね」


 すんなり言うことができる。だが、田中は首を振った。


「だって、ゴールデンウィーク明けのキスしたって」


 だいぶ今更の話だ。もしかして、田中が聞く勇気が湧いたのか最近なのだろうか。


「それは事実だけど、友達で納得してもらった」

「納得って、そんな。だったら今の住道すみのどうさんとの関係というか距離は変だろ!」

「変って。田中が考える男女の友達の距離感を押し付けないでくれ」


 いつもはなるべく穏やかに声を発するように気をつけて言うるが、珍しく強い口調が出てしまった。これをそうだね変だねという事になれば、またゴールデンウィーク明けからしばらく続いたように鳳蝶あげはへの男子の態度が失礼で良くないものになってしまう。

 鳳蝶あげはは気にしていないと言った態度で、お嬢様らしく愛想笑いで答えていたが、下世話な態度を見せて近づく男子がそこそこ居たのも事実だ。今の環境でようやく落ち着いた状態である。

 特に好きだからというのではなく、フラれたんだから慰めてやるよという態度の男子については、ひどく鳳蝶あげはが困っていた。俺は身勝手だと思うがそういうのは不快だった。

 中学の夏に莉念りねんにフラれた後、俺が少々莉念りねんと学校で距離を取ったら、莉念りねんに対して男子学生が俺と喋ってないならということでそれまでクラス内でも莉念りねんにちょっかいを掛けてこなかった男子たちが、こぞって莉念りねんに絡もうとした。


『傍に男がいなくなったからこれ幸いと声を掛ける? 女子の傍に男がいるかどうかのタイミングだけで、女子に声を掛けるかを選択してくる態度がどんな風に見えるか言ってやろうか!』


 莉念りねんの周りにうろつく男に対して嫉妬に駆られた俺はそう中学の時に叫んで、また莉念りねんの見えないところで色々されたが、そんな嫉妬が含まれた男子達の行動に、俺はフラれた直後なのにみっともなくもスカッとした。


「……田中君は、本当は鳳蝶あげはを呼びつけたかったのかな?」

「う、そんな事は、ないけど」

住道すみのどうさんと仲良くしたいなら、なんで高校入学初めに声を掛けなかった。その時はまっさらだった。実際に朝、鳳蝶あげはは一人だったし、朝早くに来て一人読書をしていた」

「それは、その自分に自信が。それに登校したのはもっとずっと後だったし」

「今なら、自信があるのか?」

「いや、それもその。ちょっとは?」


 田中の態度を見て俺はがっかりした気持ちになった。彼の鳳蝶への態度は、別のクラスの友人へ見せる姿とは全く違って、酷く取り繕って気弱に見える。

 俺は落ち着きつつもなるべく強く言葉を発する。誰も居ない図書室に声が響いた。


「俺は君の態度は悪いと思う。

 田中君が住道すみのどう鳳蝶あげはに好かれたいと思って、それに対して自分に自信があって改めて自分をアピールするために住道すみのどう鳳蝶あげはに声を掛けたいというのならわかる。でも、田中君の態度は、良くないよ」

「うう、ど、どこが悪いって言うんだよ」

「どうして田中君は、住道すみのどう鳳蝶あげはは俺を好きになってくれますか? ってずっと顔色を伺って話しかけるのかな。

 そんな事したら、鳳蝶だって当然田中君にも明確に一定の壁を作るしかないんだよ」

「ち、ちがっ。俺はそんな顔色を伺うなんてしてない!」

「違わないよ。

 田中君は拒絶されたのに気づいているのに、少し時間を置いては、同じ態度で話しかけてる。それは、住道すみのどう鳳蝶あげはにとっても迷惑だろう」

「め、迷惑ってそんなこと。住道さんはちゃんと挨拶もしてくれるし、質問があればしっかり話して――」

「鳳蝶は当然学校のクラスメイトとして教室内で返してるんだよ。

 田中君は友人となるために接するならまだしも、どこか自分の恋人になってくれるかどうか、学校を出て、さらにプライベートで会えるかどうかを、いつも確認しているじゃないか?」

「っ――――」


 田中は本当にそんなつもりが無いと言うように顔を赤くしているが、俺はそう思わない。当然だ。

 本当にそんなつもりが無いのであれば、一クラスメイトとして教室内で挨拶をして会話をして終了すれば良いのだ。


「四月にもあったね。

 住道すみのどうのパーティーに、参加すると田中君が鳳蝶に話した時もそう。

 今度の茶会だって田中君は茶道部じゃない。一般参加者の一人だ。クラスメイトとして参加したいなら、正式に参加できるタイミングの前に、鳳蝶へ自分が参加するとアピールする必要があるのかな?

 わざわざ棚田君の後に従って、住道すみのどう鳳蝶あげはに対して、クラスメイトではなく自分を優遇してくれますか? と顔色を伺っていたよね」

「ぐぅ、そ、それは――」


 傷ついたように顔をうつむかせた彼に、俺はことさら優しい声音を意識した。田中君も一時期落ち着いたのに、茶会というイベントでわざわざ暴走しているのは、きっと棚田のせいなのだ。俺は鳳蝶に迷惑をかけるなら、それを排除しておくのが友人としてのやるべき事だろう。


「俺は田中君が棚田君と仲良くなるのは、推奨しないな」

「ど、どうして? 棚田さんは一年生の住道グループのメンバーとも交流してよく読んでくれて」

「棚田君は、田中君にとっては、あくまで住道すみのどう関係の知人でしょ? 他クラスの田中君の友人との関わり方と違うから分かるよ」

「え!? いや、俺の友達知ってるの?」

「いや、見かけたらわかるから。五月から別のクラスの友達と昼をよく食べに行ってるでしょ」

「えぇ! いや、委員長って男なんて無視してるもんだと」

「それこそ失礼だよ。今だって田中君の図書委員の手伝いを来てるのに」

「そ、そういえばそうだな。いや、なんというか、ずっと住道すみのどうさんと鯰江なまずえ|さんと、あと、三年生の美人と放課後ずっと絡んでるイメージというか。特に放課後ずっと学校内を度々二人きりで和気あいあいと歩き回ってるから目立つと言うか」

「いや、田中君、女子の事考えすぎでしょ。そんなに女子が気になるなら、とりあえず、友人経由で女友達でも増やしていくのが一番良いんじゃないか――」

「じゃあ、委員長が紹介してくれよ」


 いい案を思いついたと言った顔をした田中が俺へそう告げた。

 俺はその言葉を聞いて、げんなりした。

 ここまで来て、その発言をされるととても嫌だ。中学の頃にもあったなと思い出してしまう。四條畷しじょうなわてとそんなに仲が良いのは分かったし、じゃあ四條畷しじょうなわては諦めてやるから他の女子でも伝手で紹介してくれね? とあたかも譲歩したように振る舞うのだ。


「どうして? 誰を紹介してほしいのかな」

「そりゃ、じゃあ、鯰江なまずえ|さんとか、あ、その周辺の女子とか」

「なんで? 可愛いから? まず人脈という面で挑戦することに対して、女友達を作ってみるっていう選択肢に顔が良いとか可愛いとか綺麗だからって必要ないよね」

「え。いやそれは必要」

「必要ないよ。なんで顔がかわいい必要があるのかな? それは田中君が恋人にした相手の好みだ」

「いや、だってモテるなら、いろんな女に粉掛けろってネットとかで」

「今は女子の友人を作る話しだったと思う。田中君はモテたいの? なら余計に俺と関わらないでほしい」

「ど、どうしてだよ! 女子を独占するってことかよ! 美人どころを独占して他の男を馬鹿にしてるんだろ!」


 失敗してしまった。田中を熱くさせてしまった。俺は後悔しつつ、田中に向き合う。俺は彼の肩に気持ちを抑え込むように手を置いた。力を入れる必要はない。

 自分が少々の怪我をする可能性があっても、一度熱くなってしまった人と距離が遠いまま、言葉の応酬だけでは人は冷静にならず熱くなるだけだ。


「俺の友達に失礼を働くな。

 田中君は住道すみのどうさんが好きかと思えば、結局は顔が良い女子がーという話題になる。

 君がそんな態度なら、君のその態度を好ましいと思う女子を探せば良い。俺の周りに、今の田中君の態度を好ましいと思う女友達は居ない」

「俺は!」

「もう説得する気はない。手伝って欲しいことについて示してほしい。仕事を手伝うよ、早く片付けよう」


 もう一度口を開いた田中に、明確にもうその話しはしないと言い、彼が落ち着くのをただ待った。かなり待っただろうか。

 しかし、仕事が終わったか教師が確認に来てしまった。田中と距離を取って、すぐに俺が素直に全く終わりませんでしたというと、教師は田中に向かって口を開こうとする。

 田中が今日の担当なのだから叱責されるのは当たり前だ。

 しかし、俺は田中の前に立って教師へ深々と頭を下げた。実際に俺がもっと上手くやれば良かった。頭ぐらい下げよう。


「俺も手伝うと言ったのに遅れてしまって田中君に迷惑かけたからです。すみませんでした」

「……そ、そうか。もう遅いから今から始めてもさして進まないだろう。もう帰りなさい。鍵を締めます」


 俺は素直に教師の言葉に従えば、信じられないというような表情をした田中が何故か俺を見ていた。教師に促されてようやく動き出した田中が素直に廊下へ出る。


「すみません。俺はもう用事があるのでこれで」

「気をつけて帰るように」

「あ、ああ、委員長……」


 教師と田中へ立ち去るために別れを言えば、田中は生返事を返した。

 俺は足早に教室に戻ってカバンを取って、部室へ向かったが、部室は閉まっている。慌ててスマホを見た。

 何件も華実かさね先輩からメッセージだけでなく着信が来ていたが、すべて不在対応してしまった。

 時間を見れば、最後にメッセージが来てから30分以上も経っている。


『もう帰るね。また明日』


 いくら通話を掛けても先輩は出てくれず、先輩から返ってきたメッセージは、


『ちょっと忙しいから今日は多分返せないよ、ごめんね』


 怒らせたのだろうか。初めてこんなメッセージをもらった。どうしよう。どうしたら良いんだろう。

 だけど、何も思いつかなくて。


 いつの間にか帰宅して、気づけば夕食も食べ終わったらしい。部屋には莉念りねんが居た。いつも通り彼女が居た。

 莉念りねんも良く怒っていた。

 ベッドに座った状態でも、当然身長差がある。

 莉念りねんの紫色の瞳が俺を見上げるように覗き込んでいた。


 ギュッと確かめるように抱きしめる。莉念りねんを怒らせた時はいつだって彼女を抱きしめた。

 抱きしめて! 慰めて! いつもそう言われたのだ。

 莉念りねんは怒っても、いつだって俺の部屋に来た。

 フった時にさえ部屋に来た。俺はそれを拒絶した。痛い思い出のはずなのにそれが思い出された。だけど、その日彼女は怒らなかった。次の日、部屋に入れないのを怒られた。だから、


「怒らせてごめん」


 俺は身勝手にそう言った。莉念りねんはそれに答えず、ただ俺を優しく抱き返して、


「名前、呼んで?」

莉念りねん」「……うん」

莉念りねん」「私、だよ」

莉念りねん」「……尚順」

莉念りねん」「……うん」


 それ以上体は動かさず、ただ莉念りねんの名前を呼んで、それに彼女が応えるだけの時間だった。けれど、その日は莉念りねんに送り届けるのがいつもより少しだけ遅くなってしまった。

 ずっと傍にいる幼馴染に、傷つけられて、けれど救われてしまう。

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