第22話 朝、幼馴染に挨拶

 春の朝の空気を切り開くような勢いをつけて走っていく。昨日の夜は少しばかり行き過ぎた態度だったことを後悔してしまい、気持ちを切り替えるためだった。朝起きてから未だにスマホは見れていないのが、余計に自分自身の気持ちの現われに思える。ポケットのスマホは恨めしげに走る速度に合わせて揺れた。


 最近していなかったトップスピードで走るランニングだ。コンタロウを散歩していた唯彩ゆいささんも挨拶をまともに返す事も出来なかった。すれ違った彼女の顔は少しだけ寂しそうにしていても、今は立ち止まるわけにはいかなかった。

 過ぎ去る光景に、いつもより少しだけ遠くまで来たところで、ゆっくりペースを落として、写真を撮る。

 二枚撮った写真には、一枚には葉芽を枝に揃えだした桜の枝の向こうで鷺が翼を広げており、もう一枚には汗だくの自分がいた。

 おはようのスタンプとともに写真を送る。

 そして、また俺は走り出した。


「尚順、おはよう」

「おはよう莉念りねん。今日は遅くないか?」

「……尚順、汗だく。タオル、これ」

「ありがとう。これを?」

「うん、尚順、朝の挨拶、くれた」

「最近は朝、すれ違ってばっかりだったから」

「嬉しい、明日、予定ある?」

「明日から土日はバイトだよ。昨日も言ったぞ」

「そうだった。でも、夕食帰ってくる?」

「当然だろ」

「お嬢様っ」


 莉念りねんが口を開こうとしたところで、送迎をしている運転手の女性が俺たちに割り込む。莉念りねんは少しむっとしながらも、仕方ないと諦めたようにまた夕方と言って、車にするりと乗り込んだ。

 俺の言葉も行動も何も忖度なく、車は静かに進みだして行ってしまう。

 俺は受け取ったタオルで汗を拭きながら、家に戻り洗濯かごに放り込む。

「お嬢様、か」

呟いた声は虚しく響いた。



 自転車で進んですぐに、一人の少女が自転車のサドルに座りながらスマホをいじって、誰かを待っていた。派手な金髪が朝の日差しを受けて輝いている。

 今日の早朝、すれ違った唯彩ゆいささんがなぜかそこにいた。通り道とはいっても、通学の時間帯が被っていなかったのに、どうしたのだろう。俺を待っていたのだろうか?


唯彩ゆいささん、おはよう」

「ひさ君、おはよ! さっきのびっくりしたし! 早すぎるよ! コンタロウもびっくりして飛び跳ねちゃったね」

「ごめんごめん、ちょっと気合入れて走ろうと思ったから、止まれなくて」

「あー、そういう時あるね。あたしもコンタロウと全力ダッシュずっとしてみるとかやったことある」

「でしょ? 唯彩ゆいささんももう登校するなら一緒に行く?」

「行くし! あ、ネクタイ斜めだよ」


 唯彩ゆいささんが俺のネクタイをすっと直す。ああ、少し気持ちが落ち着かなくてネクタイが歪んでいたみたいだ。彼女のほっそりとした指が優しくネクタイを労るように触り、絹のようになめらかな指先をつーっとネクタイに沿わせて走らせる。

 まっすぐとなって、俺へと満足そうに彼女が頷く。


「キマってる! かっこいいよ!」

「あ、ありがとう」


 ギャルっぽい彼女が朝からはち切れんばかりに元気な笑顔で、何の裏もなく言われると気恥ずかしかった。彼女は俺のそんな態度も気にしなかったようで、自転車を漕ぎ始める。慌てて俺も彼女と並んで自転車を走らせた。

 人の少ない道を気持ちよく進む中で、唯彩ゆいささんとの会話は主にバイトのことだ。お酒を提供しないながらも、夕方も人が多く利用しているが、チェーン店のような騒がしさはなくて雰囲気が良いということや。


「たまーにお菓子もらえるの嬉しすぎ」

「女の子は喜びそうだなぁ。妹も喜ぶかな?」

「手作りで美味しいもん。絶対嬉しいよ!」


 彼女のお墨付きをもらえたので、もしも貰えるときがあれば妹のためにもらっていこうと決める。持ち帰りで買えるなら購入もありかもしれない。せっかくのバイト代が妹他のお土産に消えるのはちょっと困るので買える量も計画的にだ。


 学校について唯彩ゆいささんとともに一年二組の教室に行けば、やはり今日も教室には茶色に見える髪をハーフアップにした鳳蝶あげはが、凛とした雰囲気をまといながら本を読んでいる。今日は何の本を読んでいるのだろうか?

 真っ先に口を開く唯彩ゆいささんの明るい声が教室に響く。教室の中にいる寝たふりをしていた男子学生がピクリと震えたが、寝たふりは続行のようだった。


「あーちゃん、おっはよ~!」

唯彩ゆいささん、尚順さん、おはようございます。唯彩ゆいささん今日はお早いのですね」

鳳蝶あげはおはよう。今日は唯彩ゆいささんが偶然一緒になったから、二人で来たんだ。俺もいつもより早かったかな?」

「本当ですわ。どうりで今日は読んだページが少ないと思いましたの」

「ふっふふー、早起きは三文の得だよ」

唯彩ゆいささんはコンタロウの散歩でいつも早いだろ」

「そうだけど、学校に来るのはもっとゆっくりだしー」

「そういえばそうですわね。家で何かされてるんですの?」

「うーん、単純に散歩の後にシャワー浴びてお化粧し直すから時間かかっちゃうって感じ?」


 彼女らが盛り上がる中で、俺はスマホに通知が来たのに気づいてアプリを立ち上げる。怒りマークが来るかと思ったが、今日の朝送った写真への彼女の感想がぽつりと返ってきただけだった。


『おはよう。でもこれは、折川君の言ってた写真じゃないよね』


 俺はえぐるようなその言葉に既読だけつけて、アプリを閉じる。鳳蝶あげはがその時の俺を見ていた。


「尚順さん、どうかされましたか?」

「どうしたしー?」

「ああいや、何でも無いんだ」


 俺はその後上の空のままで朝のホームルームを迎え、鳳蝶あげははひどく心配していた。

 一限目は化学基礎だ。プリントを用意する教師のため、忘れないようにと言われていたにも関わらず受け取りに行くのを忘れてしまった。朝のホームルーム前に取りに行くと鳳蝶あげはに言っていたのは俺自身だったのに。

 入れ違いに入ってきた化学基礎の教師は、慌てて飛び出した俺と鳳蝶あげはにムッとした顔を向けていた。気難しい教師だ。授業開始が数分遅れてしまい、俺は素直に頭を下げた。俺のせいなのに、鳳蝶あげはも頭を下げている。


「前回は忘れなかったのに、一限目だからか? 次は忘れないように」

「「はい、申し訳ありません」」


 俺のミスなのに鳳蝶あげはにも謝らせてしまった。みっともなくて一限目の授業では、まともに授業の内容のメモが取れたと思えなかった。

 一限目が終わる。隣の席の放出はなてんが、俺の背中を励ますように叩いた。


「おいおい、さっきのミスに落ち込みすぎだ! 先生だってまだまだ怒ってなかったぞ」

「あ、ああ。でも、ちょっと、な」

「尚順さん、私も一緒におしゃべりしすぎてしまいましたの。ですから、私も一緒ですわ。よろしければ、忘れないように今日の振り返りましょうか」


 情けなくてという言葉は発することが出来なくて、口の中で消えてしまった。こんな事ではいけないのだ。鳳蝶あげはが優しい声で慰められて、すぐに彼女は自分がメモしているスケジュール帳を開いてくれる。彼女は手書きで手帳に書き込むのを好んでいた。俺はスマホに置いたメモアプリに雑多に思いついて書き込んでいただけだ。


「今日はお昼に先生に呼ばれていますわね」

「あ、漏れてたな。ありがとう」

「ふふ、尚順さんもうっかりですわね」


 一日に二度もミスが出るところだった。鳳蝶あげはは自身のスケジュール帳を見せて、優しく笑う。俺は彼女の指摘を受けて、忘れないようにメモに書き込んでおく。

 彼女の大人が使うような手帳は、カレンダー式になっている。授業については書き込まれていないが、それ以外の予定についてはびっしりと美しく記載されていた。一限目にプリントを用意することも整えて書かれており、尚と横に書かれている。俺がやると言っていたメモだろう。

 俺は彼女に任せた作業についてメモをしていなかった。しかし、彼女はそんな手抜かりはしないのだ。


鳳蝶あげはありがとう」

「いえ、尚順さんの助けになれて良かったですわ」


 今は周りにクラスメイトたちがいる。みっともない俺は、鳳蝶あげはと二人の時に相談しようと心に決めたのだった。

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