第26話 ひさ君はきっと悪い男だと思う

 朝の空気を吸い込んで吐き出し、ぼーっとしながらただベンチに座っていた。川の上流を目指して走った先にある川を眺める位置にあるベンチの前を、散歩やジョギングしている人たちが時折通り過ぎていく。

 スマホが鳴動する。手に取る気力もなかった俺の目の前に少女が立ちふさがった。金髪がさらさらと朝の春風に舞う。キラキラと輝きを返す彼女の姿は疲労している俺とは対象的に力強かった。


「おはようひさ君」

「おはよう唯彩ゆいささん。コンタロウは?」

「もう散歩終わって家に置いてきたし! この先に連れて行くには外に出しすぎだから」

「そっか。どうかしかした?」

「ひさ君がいつものルート走ってなかったみたいだから」

「ああ」


 俺は昨日の珍しく強く大量に降った夕立のせいで少々流れの早い川の音を聞きながら、頷いた。どう答えようか迷って、表情に少しだけ気合を入れて愛想笑いを作る。唯彩ゆいささんが俺の隣に自然と座った。


「昨日、バイトどうだった?」

「あー、ごめん。昨日すぐ寝ちゃったからメッセージ返信できてなかったな。とりあえず想像以上に大変だったな」

「そうだよね! あたしも初日は大変だったし! バイトで疲れたから休んでる感じ?」

「……そうだね。先輩にも迷惑をかけたのが、ちょっと後悔かな」

「そんなことなかったし! ひさ君理想高い!」

「理想が高いかな?」


 バッサリいう唯彩ゆいささんに言われても暗い感情はわかなかった。清々しい空気が俺を吹き抜けていく。軽く笑うと唯彩ゆいささんは、自分がバイト初日にやらかしたことを語ってくれた。カップを落として割ってしまったり。でも、さすがにミルクティーにレモン打ち込むのはやりすぎだと思う。

 どんな勘違いだろう。


「ね? それでも店長は全然許してくれたし、その時ホールに入ってた女の人も許してくれたし! 大丈夫!」

「ありがとう。華実かさね先輩の助けに少しでもなれるように頑張りたいんだ。写真部でもこの一週間色々教わってバイト先まで紹介されて頭が上がらないよな」

「……その、さ。ひさ君は丸宮先輩と仲良くなったの?」

「……仲良くなったとかそういう話じゃなく、俺は華実かさね先輩とどうしたいんだろう。……俺は高校で少しでもまともになりたいんだ」

「まともって、ひさ君はそんな変じゃないよ」

「ははは、ありがとう。でも、違うんだ。中学の時の俺は中途半端だったからさ、変わりたいんだ」


 唯彩ゆいささんは俺の言葉を聞いて、じっと俺のことを見つめた。俺は自分が何も具体的な内容を言えない事もみっともなかった。


「あたし、金髪じゃん?」

「中学の頃からなんでしょ? 徹底してるよね」

「でも、あたしってさ、中学だと浮いてたんだー」

「中学で染めてたらそりゃ浮くでしょ。中央中が不良の中学だなんて聞いたこと無いし」

「あははは、そういうこと。でも、怒られなかったの」


 怒られなかったという彼女の言い方はひどく沈み込んで、暗い響きを持って俺の鼓膜を震わせた。彼女はベンチから立ち上がって一歩前に出て背伸びをする。俺は何も言えないままで、


「さ、ひさ君、今日もバイト頑張ろ! 丸宮先輩と仲良くなりたいなら、チャンスなんていっぱい有るじゃん! あたし協力するし!」


 振り返った彼女はそう言って笑った。俺は逃げるように歩こうとした彼女の手をつかんだ。彼女がびっくりしたように俺を見る。そういえば、彼女と触れ合ったのはこれが初めてだ。


「えっと、どしたし?」

唯彩ゆいささんはなんで金髪にしたんだ」

「えー、今、あたし流したところじゃない?」

「俺、中学の時に幼馴染にフラレたんだ。」

「え、何?」

「高校デビューって言ったけど、俺はフラレてから変わりたかったんだ。中学のバスケだって結局補欠で終わった。試合に影響を与えない最後に記念参加みたいに出されただけだった。勉強だって中途半端だった」

「中途半端で入れる高校じゃないっしょ」

「フラレてから! そこからしか俺は頑張ってない。それで、俺は変わりたかった! 俺は唯彩ゆいささんみたいに中学の頃に変わるなんて出来なかった! 見た目を変えようとかそんなこともしなかった。だって、怖いだろ? 中学三年生の夏にいきなり変わったら、変だと周りから思われるんじゃないかって、俺は君と違って怖かった。俺はみっともないんだ……」


 情けなく吐き出した俺をしっかり見つめ返した唯彩ゆいさが、微笑んでいた。ギュッと彼女が俺の手を強く握り返してくる。


「見た目だけ変えたあたしの方が中途半端でしょ」

「中途半端で入れる高校じゃないだろ?」

「そう、そうだね。ほんとそう。アハハハハ」


 彼女は俺の返した言葉に大きな声でしばらく笑った。俺たちはまたベンチに座り直す。繋いだ手は相手の体温がわかり、それが春の風が肌を撫でると顕著に感じられた。

 唯彩ゆいささんはもう一方の手で髪先をいじりながら、唇を尖らせる。


「ひさ君はきっと悪い男だと思う」

「……俺は中学の頃中途半端だったから、高校で変わりたいんだ。なんでも自分本位だった。だから、高校では友達も困ってる人も、なんというか烏滸がましいけど、手助けできるならしたいんだ。だから、唯彩ゆいささんの力になりたい」

「……ほら、ひさ君は悪い男だ」

「ええ、どこが悪かったのかな?」


 俺が唯彩ゆいささんを見ると、彼女は俺の視線から逃れるようにそっぽを向きながら、手をぎゅっと痛いぐらい強く握ってきた。

 そうして、唯彩ゆいささんが黙ってしまったので、俺も口を閉じる。川の少々うるさい音に、時折俺たちをちらりと見ていく通りすがりの人たち。徐々に強くなる太陽の日差し。

 ポツリと彼女の声が溢れる。彼女は喋るために俺の存在を肌で確かめるように握り合う手の力加減を変えて指を動かす。


「これからたくさん話して」

「うん、話そう」

「そしたらあたしと仲良くなって」

「うん、仲良くしよう」

「あたしを助けてくれる?」


 俺の最後の返答の前に彼女が不安になったのか握りあった手から逃げようとする。俺は言わなくても伝わるように手をしっかりと握って離さない。

 彼女を安心させるように、心から力を込めて優しく言った。


「もちろん、俺は唯彩ゆいささんを助けるよ」


 友達だから。俺の言葉はちゃんと伝わっているだろうか。唯彩ゆいささんは俺を見ないまま、うんと小さい声を出して応える。少しの時間俺たちはただじっと同じ空気を共有して、たった今繰り返した言葉の価値を心のなかで確かめ合っていた。

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