104話 せんり「あなたを見かけたので」

 夏休みももう終わり間際で、俺は開店前の早い時間に店長に呼び出された。喫茶店で華実かさね先輩をずっと見ていない。そのせいで、夏休み最後の一週間は華実かさね先輩と一度も会うことが出来なかった。

 丸宮まるみや店長は複雑そうな顔をしながら、俺を待っていた。


「バイトの日でもないのにこんなに早く呼んでごめんなさいね」

「いえ、問題ありません。何かありましたか?」

「……折川おりかわさんにはお店について母がお世話になったんだけれど」


 父だろうか? 丸宮まるみや店長の母親ということはかなり前なのかな。


「はい」

「もうバイトも人が足りているから、頻度の少なめになった尚順ひさのぶ君のかわりの人をシフト多くしようと思ってるの」

「なるほど」

「申し訳ないけど、来月から尚順ひさのぶ君のシフト無しということで良いかしら」


 俺は店長をじっと見た。…………黙って、俺は迷惑にならないように明るい愛想笑いを浮かべる。


「こちらこそ、俺の都合のシフトばかりで調整してもらってすいませんでした。平日が全く入れなかったのに、土日も両日で入れないようになってしまって」

「ううん、学生だもの仕方ないとは思ってるの。だから、人が増えたらごめんなさいね」

「良いんです! 俺もまた新しいバイト探してみます」

「こっちの都合でごめんなさいね」

「本当に大丈夫です。次のシフトも予定がちょうど九月からになってるので」

「本当にごめんなさいね」


 俺は何度も謝罪する店長に、同じように何度も大丈夫です。お世話になりましたと繰り返した。笑顔でそのまま店を後にする。

 少し離れたところまで行ってから、一人で喫茶店に入って出されたコーヒーを見つめた。心が落ち着いてから、一口コーヒーを飲んで、丸宮まるみや喫茶店のコーヒーを飲みたいと思ってもう行けないなと苦笑いをする。


 華実かさね先輩のトークを開くが、ここはずっと止まっている。未読のままだから、俺は一方的にメッセージを送るのも止めていた。莉念りねんのトークを開く。既読がついている。だけど、同じように止まっている。会えない日に送っていた。だけど、毎日会えなくなって、俺は莉念りねんに怒ってほしかった。文句を言ってほしかった。だけど、彼女は何も言わない。


「こんにちは、一人なんて珍しいですね、どうかしましたか?」


 顔をあげる。長い黒髪がさらさらと流れていた。少しばかり早い所作で、彼女は紅茶を持って俺の目の前に座る。ほとんど黒に近い緑の瞳が俺を見つめた。俺に向かって微笑んで、不思議そうに首をかしげる。

 好きな動作だ。

 今日は動きやすい格好らしく、いつもとは雰囲気が違う。外で会う時は比較的お嬢様っぽいシルエットを思わせる清楚な服が多いが、上は白のゆったりとしたシルエットの半袖シャツに下はスカート型のキュロットのようだ。


「バイトの都合が合わなくなって、来月から土日が暇になるからどうしようかなって」

「あらら。大変ですね。次のバイト探すんですか?」

「どうかな。あんまりモチベも無いし、しばらくは小遣いでやりくりしようかな。今までは貯金に回してたけど」

「真面目ですねー」

「ははは」


 真面目ではない。乾いた笑いが出てしまった。コーヒーを飲む。白い手がテーブルの上に置かれていた。今日も綺麗にネイルをしている。彼女が俺の視線に気づいたのか、自慢するように見せびらかした。


「いつもと違いますけど、どうですか?」

「似合ってて可愛いよ。いつもと違うのはどうして?」

「いつもは落ちる心配ないですけど、今日はなにかに触れて汚れたりしたら目立つタイプは止めておいたんです」

「なるほどね。そんな心配するってことは、ああ、そう言えば前に言ってた友達とまたスポーツレジャー施設に行くの?」

「んぅ。うふ」


 彼女がぶるりと身体を震わせて、とろけるように頬をわずかに赤くして笑みを深くした。


「どうかした?」

「んぅ、ごほん。なんでも無いです。そうですね、たまに中学一緒だった友達と行ってるって話しましたよね。あなたを見かけたので、たった今さっき、今日その予定を、行けなくなったって辞めました」

「え?」


 困惑する。考える時間を作ろうとコーヒーへ手をのばす。俺の態度を見て取って、彼女はテーブルの上にあった俺の手を掴んだ。しなやかな指がしっかりと俺の手を握る。

 じっと俺の顔を覗き込んでくるのを、俺は視線から逃げるように顔をそらした。


「いや、コーヒー飲めなくなるから手を離してもらっても良い?」


 彼女は俺の願いに答えずに、俺の手を優しくもう一方の手で撫でていく。……彼女と初めて外で出くわした時に喫茶店で俺がしたなと思い出す。自分がされるとは思わなかった。そういえば、女友達や恋人にはしてばかりだった。自分から女友達へ手を伸ばして手を握りあったことがあったが、こうやって撫でられたことは無い。

 色んな人と上手く行っていないことを、その一旦である彼女に甘えてはいけないのに、彼女が俺に優しくするせいで甘えてしまう。かなりの時間、互いに黙ったまま過ごした。

 先程まであった白い雲はすっかり風に飛ばされたのか、すっきりとした青空を見ながらぽつりとこぼす。


「……夏休み、早く終わると良いな」

「えぇ~、私は折川おりかわ君と過ごせる時間が多くて、もっと長くても良いですよ?」

「忙しくて会えない人がいるから」

「本当にひどい人ですねー折川おりかわ君は」


 それでも撫でるのを止めない彼女の手を俺は見てから、そらしていた視線を彼女へ向ける。ふんわりとした笑みがあった。深緑の目が俺を見つめている。


「……出かけようか?」

「ホテルですか?」

「……とりあえず、博物館かな」

「夏休み中ですよ、絶対混んでますよ~」

「残念ながら夏休みも何もない平日でも博物館や美術館はそこそこ人が居て混んでるんだよ」

「余計に混んでるってことじゃないすか。なんで博物館なんですか?」

「前に行こうって言ったでしょ」


 俺の答えに彼女は本当にびっくりしたような顔をする。俺はその態度にため息をついてから、彼女の手を取って、立ち上がらせた。同じ中学の友達とは健全にスポーツレジャー施設で遊びに行くのに、俺とはホテルか家だけで過ごす不健全な生活をされても困る。


 外に出れば、想像以上に時間が経っていたのか夏の日差しが厳しくなっている。


「日傘差さないの? あれ、持ってない?」

「生まれてこの方、使ったこと無いです」

「まあ、俺も学生で使ってるの鳳蝶あげはぐらいしか見たこと無いけど」

「お嬢様ですね」

「まあ、傘がなければ、ほら」


 俺は少女の手を取り歩き出した。傘が無ければ手を繋いで歩きやすい。俺は彼女の手を引いて博物館に足を向けた。

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