第57話 こんな簡単なこと

 風呂上がり、俺は思ったより長風呂になってしまった体の熱を逃がすようにパタパタと顔を手で仰いだ。キッチンの冷蔵庫から持ってきた麦茶は心地よい冷たさだ。

 机の上での勉強を再開しようか迷ったところで、スマホが鳴動する。俺は先輩からかな? と思って、スマホを掴んで少しだけ後悔した。土日は朝出かけると夜はメッセージを送ってくるだけだったのが、通話してくるとは珍しい。


「もしもし、鳳蝶あげは、どうかした?」

「あの、今よろしかったですの? 眠る前にお声が聞きたくて」

「そうなんだ。そうだ」

「ど、どうかしましたか!?」

「ああ、茶道部で茶会があるんでしょ?」

「あら、どうして知っていらっしゃるの?」

「茶道部に興味のある男子が俺にも聞いてきてね。それで茶道部のみんな、着物を着るんでしょ? 鳳蝶あげははどうするのかなって」

「ええ、そうですの! も、もしかして尚順さんも参加されるのですか?」

「あーっと、そうじゃなくて。俺は写真部で茶会中の写真を取るんだ。学校の宣伝用だね」

「写真部ですか」


 鳳蝶あげはは少しばかりがっかりしたと言った声音をしていたが、写真を撮られるということを頭の中で復唱して思い出したらしい。


「えぇ、写真を撮られるんですの!?」

「うん、そうだよ、よろしくね」

「そそそ、そんなの知りませんでしたわ!?」

「あれ? 生徒会にこの前顔を出した時は茶道部も知ってる前提だったみたいだけど」

「あうあう、少々気になることがあってそちらに気を取られていましたの……。てっきり写真部の部長さんが来られる程度かと」

「ああ、そうなんだ? どうして」

「あの、写真部の部長さんは茶道部の部長さんとお友達ですもの。ですから、遊びに来るのかなと」


 ああ、ちょっと理解できたかもしれない。わざわざ住道すみのどうグループ関係の茶道部員に声をかけたのは、華実かさね先輩が来ると思ったからか。俺は鳳蝶あげはがそんな行動するとは思わなかったし、見たくなかった。しかし、ここでがっかりしたりため息をつけば、彼女はことさら傷つけるだろう。


鳳蝶あげはの着物姿、楽しみにしてるね」

「あうあうあう、わ、わかりましたわ! 気合、入れますの!」

「いや、そこまで気合入れて周りに迷惑かけたらダメだよ」

「ええっと、が、頑張りますわ! よろしければ、……その着物選びお助けいただきたいですの」

「いや、俺個人としては茶会の時にサプライズとして楽しみにしてるよ」

「そ、そうですの? そうであれば、秘密にして頑張りますわね!」


 鳳蝶あげはとはそれからもう少しだけ話して通話を切る。想像以上に長くなってしまった。だが、最近の過激な写真を送ってくる態度より、女友達との関係として問題ない距離だ。

 俺はホッとしながら、メッセージが来ていることに気づく。


『今、大丈夫かい?』


 奥ゆかしさを感じるメッセージで、華実かさね先輩はメッセージだと未だにこちらをついつい伺って来る。もっとフランクに送り合いたいなと思いながら、時間を確認すれば送られたのはかなり前だ。

 俺は慌てて彼女に通話をかけた。


「もしもし?」

「こんばんは、遅くなってすみません」

「私だって通話をするのはいつするか時間も言わなかったから、ごめんね! 忙しかったのかな……?」

「ちょうどお風呂に入って上がったところで」

「そうなんだ! 私はちょっと長湯しちゃってこんな時間になったから申し訳なくなるね」

「それで、昼の話、なんですが」

「うん。その、……わがままな彼女でごめんね?」


 華実かさね先輩が真剣にそんな寂しい声で言うことに俺は辛くなった。俺が距離感を間違ってしまったのか。俺は悩んで華実かさね先輩に尋ねた。


「女子のクラスメイトの相談に乗るには、近すぎますか」

「えっと、ううん、違うんだ。あれからずっと考えていて、これは、私のわがままなんだってちょっと思い直したんだ。本当にごめん。

 尚順君の人との関わり方っていうのをね、付き合うまでに分かってたのに、私、彼女になったから、ちょっとわがままになったみたいで。私、ごめん。ごめんね?」


 スマホ越しに華実かさね先輩が自分で話している事を改めて口にして振り返ったせいか泣いているがわかった。俺は傍にいなかった。

 スマホ越しに吐き出す慰めのなんて虚しいものか。俺は今、まざまざと突き付けられている。


「……すみません。本当に」


 莉念りねんへ行った女の子を慰める方法なんて、彼女はいつも傍にいるから、身を寄せ合って抱きしめあって、頭を撫でてそんな肉体的な接触を伴うものばかりで、本当に通話越しのタイミングでの慰め方が分からなかった。

 ただ俺は彼女が泣き止むまでずっとスマホ越しに彼女の声を聞いていた。


『わがままでごめん』


 繰り返される言葉が落ち着いて、泣き止む頃には華実かさね先輩は恥じるようにおやすみと言って一方的に通話を切ってしまう。俺は掛け直そうとしたが、どんな行動をすれば相手が慰められるのか分からなかった。

 そうしてスマホを操作してしまう。

 彼女はすぐに通話に出た。先程まで直接聞いていた声が俺の耳に届く。


「もしもし、どうしたの。尚順?」


 ツヤのある声が俺を優しく出迎えた。俺は悩みながらぽつりぽつりと断片的に尋ねた。


「通話越しに女の子に泣かれた時に、どう慰めれば良いのかな」

「簡単、だよ?」

「え、簡単か? 何すればいい」

「その人の、家に、行って、いつもみたい、慰める」

「今から、か? こんな時間に?」

「うん、そう」


 莉念りねんの物言いに悩んだ。俺はそれはできなかった。


「それはできない……」

「どうして?」

「だって、こんな夜遅くに。家だって知らないし」


 そんな事を俺が言った瞬間、通話越しに胸が締め付けられる声がした。中学の頃、体調がつらくてまれに泣いていた莉念りねんの声が俺の耳に届いたからだ。


「つらい、尚順、私、つらいよ。傍に、いてよ」


 俺は部屋を飛び出していた。何も考えられなかった。こんな失礼な時間なのに、莉念りねんに強く言い含められているのか住み込みの手伝いの女性は、あっさりと俺を通した。

 俺は莉念りねんの部屋に飛び込む。

 ベッドの上でぺたんと座り込んだ黒髪の少女を、無我夢中で抱きしめる。お風呂上がりだろうか。甘い香りが俺の鼻孔をくすぐった。薄手の寝巻き越しに柔らかい体が腕の中にすっぽりと収まる。


「ごめん、何が辛かった? 気づかなくてごめん」

「ううん、良いの。来てくれた、から」

「良かった。良かった」


 こんな簡単なことなんだ。お互いを確かめ合うように抱きしめる。

 莉念りねんが泣き止んで、ありがとうと言って、その夜は幼馴染らしく中学生の頃のように不純な行為が混ざらない、まっさらな気持ちで莉念りねんをただ慰めたくて抱きしめあって眠った。


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