97話 勝ち誇った顔


鳳蝶あげはside


「気持ちいい、気持ちいいよ、尚順ひさのぶ君! 好き! 好き! 愛してる! 尚順ひさのぶ君が気持ちいいの!」


 きしむ音と女の大きな嬌声がする。それに慌てたような男子の小さな声がして、モゴモゴと声が収まった。

 私は、徐々に目覚めていく意識で声をあげないようにして、それを見てしまう。部屋は私が寝る前よりもさらに薄暗くて、なんとなく男女のシルエットが分かる程度だ。だから、私が目を開いているのも彼らにはわからないだろう。


 尚順ひさのぶさんがあの女のベッドに入って、エッチをしている。……目の前の光景に吐き気がする。なんでこんな事するのだと、私は泣きたくなった。尚順ひさのぶさんはそんなに私のことが嫌いなのだろうか。先程まで会いたいと言っていたのは嘘だったのか。

 ただ私の耳に打ち付け合う音と、尚順ひさのぶさんの声が聞こえる。嫌だと思うのに聞こえる、他人への愛の言葉と懺悔のような言葉が何度も繰り返される。


華実かさね先輩、好きです、愛してる。だから、お願いだから静かに、声を出さないで下さい。好きだから、愛してるから、こんな、華実かさね先輩すみません」

華実かさね先輩、どうして、」

「愛してる、好きです。だから、俺を許して下さい……」


 許して下さいだなんて、なんて最低なんだろう。わざわざ部屋に忍び込んで、恋人を睦み合うなんてしている人が。

 私はただひたすら心の痛みを堪えた。目の前に行われる絶望の光景を、そうして、私は見えないはずなのに、こんな暗闇で見えるはずもないのに。


 丸宮まるみや華実かさねが勝ち誇っている顔がずっと見えてしまう。


 行為はあっという間に思えたが、想像よりも長かったと思う。時計が見れないので、どれぐらいこの拷問につきあわされたか分からなかった。

 ベッドの縁に座って優しく髪を撫でるシルエットが見えて、すぅすぅと横になった丸宮まるみやさんの寝息が流れた。彼はしばらく眠ったのを確認したのか、長い、そう、ひどく長い溜息をついて後片付けをしていた。後片付け? 気づく。私は信じられなかった。

 尚順ひさのぶさんは何をしているんだろう。そんな無責任な人だと思わなかった。

 私は怒りがメラメラと沸き立つ。しかし、今ここで怒り出しても、


鳳蝶あげは

「……」

「ごめん、ごめんね」


 近づいてきた彼が小さな声で謝りながら、私のベッドに入ってくる。えぇぇ!? 私は必死に黙って眠ったふりをした。

 抱きしめられる。襲われる! 身体が震えた。しかし、尚順ひさのぶさんは私を抱きしめただけだ。


華実かさね先輩がエッチしたいって言ったら、恋人だから叶えてあげないとダメなんだ。だから、ごめん。ごめんね。起きてるよな。許して、こんな俺を、ゆるしてくれ。会いたかった。鳳蝶あげはに会いたかったんだ」

尚順ひさのぶさん、あなたゴムをしないのはダメですの」

「付けたくないって、付けると泣かれるから、俺はできなくって、ごめん、鳳蝶あげはごめん。隣で君が寝ているのに、ごめん。こんな事したらダメなのに」


 怒り出したい気持ちがあったのに、彼が泣きながら私を抱きしめている。……私は怒りがあったはずなのに、彼を抱き返した。

 ゴムを付けないようにと誘導したのは私なので、怒りが少しだけ減退した。ここまで付けないことに傷つくとは思わなかった。男は嫌がりながらも喜ぶものだと思っていた。

 好きだと明言している女の傍で別の女と睦み合うという最低な行動をされた。最低な男だ。そう思ったのに、やっぱり好きなのだ。ここで私を放って部屋に戻ったりしたら、怒りで我が身が焼かれて恋も愛も燃え尽きてしまったかもしれない。

 だけど、尚順ひさのぶさんは私の傍に来た。

 他の女とエッチしたその身で、すぐに私のベッドに入り込んでくる最低な行動に、泣きながら懺悔する可哀想な人を抱き返す。

 今、尚順ひさのぶさんに私は頼られている。


「優しい君を頼ってごめん」

「……あなたが好き」

「優しい鳳蝶あげはが好きなんだ」

「私もあなたが好きですの」


 好きと言われて、ぶるりと熱が溢れてくる。先程の怒りとは全く違う。喜色に心が落ち着いてくる。恋人がすぐそこにいるのに、私が好きと、彼はそう言っているのだ。あまりにも気持ちが良い。ふわりと想像以上に優しい声音が自身の口から吐き出された。


「お風呂に一緒に行きましょう? お話、聞きますわ」

「あり、ありがとう。ごめん、ごめん鳳蝶あげは

「良いんですのよ、尚順ひさのぶさん」


 私は辛そうに泣いている彼と一緒に静かに浴室へ向かう。とりあえずあの女の匂いや痕跡の何もかもを全部洗い流し落とそうと、私は甲斐甲斐しく彼の身体を洗った。興奮する。一日住道すみのどう家の令嬢として過ごしてきた私が、尚順ひさのぶさんのためだけに甲斐甲斐しく世話をするという行為が、あまりにも不一致で私の心をくすぐった。

 私が彼とだけ行う特別な行為。

 そして、持ち込んで飲み水を並べて、二人きりで露天風呂に浸かる。

 少しだけ離れて座った彼の足の間に、私は座り直した。

 移動する時、私が立ち上がると、彼は不安そうにこちらを見てから、私が座る場所を作った。……学校では全く見たことのない表情だ。彼もこんな表情をするのだと知った。

 肌と肌が触れ合う。彼の手が、恐る恐る私を背後から抱きしめた。強く彼の身体を密着する。湧き出した気持ちは喜びと欲だった。


 静かだ。空は雲ひとつなく、夏の月が見えていた。


「会いたかった」


  φ


折川おりかわ尚順ひさのぶside


 起きているのが分かった。寝息が聞こえなくなっていたからだ。ベッドに入り込んで、拒絶し叩かれるのを覚悟していた。だけど、抱きしめていると鳳蝶あげはから抱き返されて俺は安堵した。

 見捨てないでくれ。

 そんな気持ちが湧き出て、鳳蝶あげはに言われるまま行為の汚れを落として、彼女を抱きしめて風呂に入っている。

 鳳蝶あげはの首元に顔を寄せて強く抱きしめる。落ち着いた。


「会いたかった。ごめん、ごめんな、鳳蝶あげは


 俺はあんな場面に出くわしたら即座に自殺するだろう。だけど、鳳蝶あげはは怒っているのを抑えて、俺と一緒に居てくれる。彼女の手が自身のお腹に回した俺の手を上から握るように触れる。


「……尚順ひさのぶさんは謝ってばかりですわね」

「……ああ、ごめ」

「ほら、また。ふふ」


 二の句が告げなくなった。口を開いたらまた謝罪の言葉を口にしそうだ。柔らかな身体の身体を強く抱きしめる。鳳蝶あげはが甘く声をあげた。


「んっ」


 謝罪以外に俺が話せることはなんだろう。……鳳蝶あげはの話をしよう。


「デートの時とも違う、住道すみのどう家のお嬢様のための姿の私服可愛かった」

「えぇ!? きゅ、急にどうしましたの」

「ずっとずっと言えなかったけど、俺は下着報告をされるより、朝の君がどんな気持ちで服を選んだとか、写真と一緒に話してくれた方が嬉しいんだ」

「あ……」

「浜辺で見た鳳蝶あげは、すごく綺麗だった。可愛かった。似合っててあの私服好きだな」

「ありがとうございますの。でも、聞いてほしいですわ」

「……何を?」

「わがままですけれど、下着も今日のスカートやシャツを選ぶのと同じぐらい尚順ひさのぶさんに伝えたかったですの」

「あっ。ご、ごめん。そう、なんだ」

「そうですの。毎日制服だけだと、私、尚順ひさのぶさんに朝に送る写真も上手く行かなくて。だから、下着の写真を送るのも許してほしいんですの」

「……えっと、でも、下着の写真はちょっとダメだと思う。女子が男子にあんな写真を送って、もしものことがあったら」

尚順ひさのぶさん」


 ねだるように乞う鳳蝶あげはの呼びかけに、俺は悩んだ。でも、鳳蝶あげは自身がやっぱりそういう気持ちじゃなく、純粋に服を選んだ気持ちのように写真を撮って共有したいというのであれば、裸でなければ彼女の気持ちを尊重するべきじゃないか?

 鳳蝶あげはに尋ねる。


「エッチな意図じゃなくて、鳳蝶あげはの今日の服装の選んだ気持ち、思い出、なのかな」

「思い出?」

「うん、鳳蝶あげはが純粋に大切な思い出の一つとして俺に見てもらいたくて写真を送るなら、俺は拒まないし受け入れるよ」


 肌と肌が触れ合っていると、相手の心の機微が時折しっかり伝わって来る気がしてくる。鳳蝶あげは思い悩んでいるように感じられた。……やっぱりエッチな目的だったのかな。それだったら、受け入れたくない。


「私、不純な気持ちじゃありませんの。ですから」


 本当だろうか。でも、俺に優しくしてくれる鳳蝶あげはがそう言うのなら本当なんだろう。

 ギュウッとついこれまでよりもさらに密着したくて強く抱きしめる。鳳蝶あげはが恥ずかしげに声を上げて、水面を揺らした。

 ハアハアと鳳蝶あげはが彼女の身体の熱が高まって居る気がした。俺はゆっくりと彼女から離れる。


「ちょっと、長湯になったね、明日も早いし上がろうか」

「あの、ぎりぎりまで尚順ひさのぶさんと話したいですの、お部屋に行っても」


 俺は嬉しかった。エッチをしたいではなく、鳳蝶あげはが話をしたいと言ってくれるなら、俺はいやも何もない。彼女の頭を撫でる。嬉しい。会えて嬉しい。話せて嬉しい。


「良いよ、俺こそ嬉しい。もう少しだけ話そう」


 彼女の髪を優しく乾かす。ドライヤーを当てながら櫛を通して、長い茶髪の髪を痛めないように気をつける。綺麗な髪だ。

 綺麗だと口にする。恥ずかしげに鳳蝶あげはが身を捩った。


 和室は布団が一組しか無い。座布団でもと思ったが、鳳蝶あげはは躊躇もなく布団にぺたりと座り込んだ。


「先程のベッドみたいに抱き合って話しませんか」


 俺は答えずに、すっと彼女に近づいてその体を抱きしめる。華実かさね先輩とは違い、平均的な女子の身長にしなやかながら肉感のある柔らかな身体が浴衣越しに触れ合う。

 横になり布団の中で向かい合った顔はとても近い。息がかかるぐらいだ。

 綺麗な青い瞳が優しく俺を見つめている。なんて可愛いんだろう。彼女が珍しくじっと黙って俺を見つめていた。吸い込まれそうな色合いに、今ならゆっくりもっと俺の気持ちを伝えられるんじゃないかと思った。


鳳蝶あげはにわかって欲しい事があるんだ」

「……私に?」

鳳蝶あげはは、俺の写真にあまり興味が無いとは思うんだけど」

「そんなことは」

「俺の写真は、思い出なんだ」

「思い出?」

「……そう。俺が鳳蝶あげはの写真で一番大切なのは、なにか分かる、かな」


 鳳蝶あげはが悩んで俺を見つめていた。きっと彼女は答えを間違えるだろう。俺は彼女と話し合わなかったし、彼女も俺の話を聞いてくれなかった。彼女の暴走に俺はいつだって曖昧に終わらせて、俺自身の望みは彼女にとっては尖すぎて彼女が受け入れられなかった。


「……初めてエッチした日の写真ですの?」

「俺は、日曜日に鳳蝶あげはと二人で初めて喫茶店に行ったのが今は一番大切だよ」

「っ。どうして、私の初めてよりも」

「俺は住道すみのどう鳳蝶あげはと日々の当たり前に過ごす時間を大切にしたい。それが分かってもらえないと、俺は恋人という範疇で鳳蝶あげはのことを好きになることは無いと思う。ごめん、だから俺は今、君とは恋人じゃないんだ」


 鳳蝶あげはがなにか言いたそうなのは分かる。だけど、それを我慢するように唇を噛んで、俺を泣きそうな目で見ていた。恋人という意味で好きにならないと言われたら、そうだろう。俺だって莉念りねんに言われてボロボロに泣いた。俺はその時一人で泣いた。

 だけど、


「ごめん、鳳蝶あげは。だけど、分かって欲しい。君が泣き止むまで抱きしめて一緒に居るから」

「う、ひっぐ、酷いですの。たった今私を振ったのに、ひどい」


 あんな事をされた人間に怒らない鳳蝶あげはの優しさに甘えるのを許してほしい。今、君に俺の思いを伝えて傷つけることを許してほしい。だけど、今だけが、きっと俺が君に本心を伝える事ができるタイミングだと信じてる。


 彼女は声を押し殺して泣いている。俺は彼女の気持ちが分かる。だから、俺の大切にしたいことを君にわかってほしいと願いながら、君を抱きしめて慰める。鳳蝶あげはも俺を強く強く痛いほど抱きしめて静かに泣いた。


 辛い時に、お互いを確かめ合うように抱きしめる。

 こんな簡単なことを、ようやく俺と君は出来ている。


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