第53話 井場せんり
日曜日の朝は、少し気だるげな気持ちで朝日を浴びながらバイト先に向かうために歩く。
ホテルで事を終わらせてゆっくり歩いていると、偶然一人の少女を見かけた。バイトまでの時間を確認して余裕があるため声をかける。
俺の声に反応し、長い髪がふわっと舞うように動いて、少女が俺へ振り向いた。その仕草にドキリとさせられ高鳴る。
「井場さんおはよ。偶然だね」
「おはよう、折川君。偶然ですね」
「俺はもうしばらく待ってからバイトに行くんだけど、井場さんは?」
「私は思ったより早く出てきちゃって。友達と会うんですが、駅前で時間を潰そうかなって」
「じゃあ、俺そこでちょっとコーヒーでも飲もうかと思ってたんだ。一緒に行こう」
俺がスッと歩いて彼女を促すと、彼女は断るタイミングを逃したように一瞬躊躇ってから、一歩遅れて俺の後をついてくる。
チェーン店のブラックコーヒーを頼んで、彼女は紅茶を選んだので一緒に頼む。
こぶりなテーブル席に向かい合って座り、バイトの時間に遅刻しないようスマホのアラームをセットする。井場さんがそわそわとしながら、少しだけ恥ずかしそうな態度を見せた。
「折川君って結構強引、ですよね。手慣れてると言うか」
「いやいや、そうかな? あんまりそういう事言われたこと無いけど」
「えぇぇぇ」
「それに井場さんとは仲良くしときたいからね」
「なんですかそれ、もしかして」
「うん?」
「
「え!? アハハハハ!」
井場さんがそんな事を言うので、あまりにおかしくて自然と笑ってしまった。俺があまりに笑うので井場さんが顔を真っ赤にしている。俺は笑いすぎたのを謝った。
「ごめんごめん、ちょっとびっくりしちゃった」
「もうすごい恥ずかしい。折川君ってひどいですね」
「いや、井場さんがいきなりすごい事を言うからだよ。学校でそんな事言われたら、周りの男子から刺されるのを覚悟しないとダメだね。
それか
「それって私は少しもモテてないじゃないですか! でも、わざわざこのタイミングで私なんて誘うの、そんなことしか思いつかなくて」
「クラスメイトだよ? 仲良くしようとしただけで、クラスメイトから私を通して高嶺の花狙いなんでしょって言われたら、もう」
「うぅ、すみません。やらかしたのもう止めてください~」
「ほんとごめん。でも、井場さんがそっちに会話を誘導するんだもん」
「もうそんな事していません。違いますよ!」
彼女がむむぅと恥ずかしさと私怒ってますアピールをするので、俺はあまりいじり過ぎないように素直に引き下がる。可愛い子が出す私怒ってますアピールはとても可愛い。莉念もよく出してくる。だが、これ以上からかって井場さんに嫌われるのはあまり好ましくない。
「井場さんは今日は着物関連? それとも遊びに来たの?」
「私は中学時代の友達と。最近は徐々に疎遠になってますけど」
「あー、わかる。でも、高校で授業も違うし部活も違えば話題が徐々に合わなくなるから難しいよね」
嘘をついた。中学時代の友人なんて居ないので徐々に疎遠になるも卒業前から疎遠みたいなものだ。笑顔で誤魔化されたのか、そうなんですよねぇと井場さんは頷いていた。
「私が茶道部に入ったことはびっくりされちゃいました」
「え、どうして?」
「実は私、中学の時は陸上部だったんですよね」
今の井場せんりさんをまじまじと見るが、全くイメージが湧かない。最近、明確に井場さんの存在をクラスメイトの女子として認識した。
だが、彼女はどちらかというと文系に所属するような、深窓のご令嬢と言われても信じてしまう人が多いだろう。
ゴールデンウィークあたりの記憶だとポニーテールだったのが、最近長髪をそのまま下ろすようになった。
視界に入ると一瞬、中学の頃の莉念の背格好似ているので、ドキッとして気になって目が向いてしまう。
「全然そんなイメージじゃなかったから、驚いた。どちらかと言うと、文化系とか、ご令嬢だよ」
「ご、ご令嬢って。本当に一般家庭なんでありえないです。うちのクラスにいる
「えぇ、どういうところが?」
「ごきげんようって挨拶に使えるところが」
「あははは! 井場さんって面白いね」
「えぇぇ!? そんな風に言われたこと無いです!」
「じゃあ、陸上部はどうだったの? 俺は中学の時バスケ部だったけど、恥ずかしながらずっと補欠でしか無かったよ」
「あはは、私も同じようなものですよ」
「高校は陸上部じゃなくてよかったの?」
「あー」
一瞬答えに迷った反応をした井場さんの手が、ぎゅっと耐えるようにテーブルの上で拳の上で強く握るのが見えて、彼女にとって傷のある部分だと理解できた。あまりに強く握りすぎて手を痛めてしまう。
俺は彼女の手を取った。
びくりと驚いて彼女の体が震えた。
「あの」
「手、痛めちゃわないかな? 大丈夫?」
「あ、すみません。大丈夫です」
「良かった。ネイルしてるんだねー。学校でしてないけど、やっぱり女子はみんな休みだとするのかな?」
俺は笑顔でさらっとごまかす。彼女の左手を両手で優しく解いて、手を添えながらそんな感想を言えば、井場さんがホッとしたようにして微笑んだ。俺の指が彼女の手の甲を撫でた。
派手さは無いが、左手のネイルはうっすらと電灯で輝いているように見える。
「あ、そうなんです。んっ。その、茶道部がある時はダメみたいなんですけど、ぅんっ。今は運動じゃないから爪を軽く伸ばしても大丈夫だから」
最近だと
手入れされた少女の手は、俺が思ったよりも艶めかしく健康的だ。陸上部に所属している頃は日焼けしていて、今とはイメージが全く違ったのだろうか。
俺の指が肌に触れるのがゾワゾワしたのか、井場さんが恥ずかしげな声を上げた。そしてすぐに、悩ましげな声が出るのを誤魔化しながら説明する。
「ああ、そうなんだ。井場さんのネイル、綺麗で良いね、準備大変なんじゃない?」
「あ、ありがとうございます。んぅ、ネイル、そんなこと無いんですよ? 私のはさっと準備で終わっちゃいますし、んっ」
すっかり握られた手がリラックスしているようだ。
彼女が落ち着いたのがわかった俺はスッと手を離す。彼女は恥ずかしそうに顔を赤くしながら頷いた。
うつむいていて顔がしっかり見えないと、中学の頃の莉念と向き合ってる気がしてしまう。
でも、莉念なら手を撫でられるぐらいで恥ずかしがらないので、そこは違う点だ。だが、莉念の恥ずかしがる姿は可愛い。懐かしさが襲う。莉念のはわざとだと思うが、今と同じようにドキドキした。
ちょうどスマホが鳴動してバイト時間が近づいたことを示した。井場さんもそろそろ待ち合わせの時間と言っていた時間になっている。
「と、そろそろ俺もバイトに行く時間だから、お茶に付き合ってくれてありがとう」
「あ、その、もう、そんな時間、なんですね! いえいえ、私もちょうど待ち合わせの時間の隙間だったから、大丈夫でした! ありがとうございます」
彼女の飲んでいたアイスティーも合わせて片付けて、外に出て彼女に軽く手を振ってから喫茶店の前ですぐに分かれた。俺は手を振り彼女を見送る。
長い髪が穏やかに揺れ、駅前でよく使われる待ち合わせ場所へ向かった。姿が見えなくなるまで、ついそのまま見続けてしまった。
「……井場さんも、悩みがあるんだな」
だが、彼女に踏み込み過ぎたことを少々反省した。俺は中学のことを誤魔化したのに、彼女にとってストレスになるような事を聞いてしまったことが申し訳なかった。
俺は彼女に何かしてあげられるだろうか。
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