99話 尚順「君を抱きしめたい」


 春日野かすがのが目の周りを腫らしていたが、気にするなと皆に苛烈に物申して写真部は昨日確認したスケジュール通りに写真を撮っていった。

 夕暮れ時、華実かさね先輩を撮るのが億劫に思えた。こんなに好きなはずなのに、夜に近づくほど俺は華実かさね先輩に向けるカメラが手に重くのしかかる気がした。


「もう良いのかい、尚順ひさのぶ君、どうかした?」

「なんでも無いです。ちょっと旅行疲れですかね」

「……枕が違うとよく眠れないことも多いからね、仕方ないよ」


 もう何枚かスケジュール通りに写真を撮る。熱意が足りないと思った。ゴールデンウィークの撮影なら、俺はもっとたくさんの華実かさね先輩の写真を撮っただろう。写真の思い出をたくさん撮りたいと俺自身が言っていたのに実行できていない。

 本当に自分自身疲れているようだった。


「うーん、春日野かすがのちゃんどうだった?」

「………………まあまあ、ですかね。私も今日は」


 俺が華実かさね先輩の背後から不安になって春日野かすがのの様子を伺っていた。華実かさね先輩に話しかけられた春日野かすがのが硬い顔で答えた。それでも彼女は笑顔を浮かべている。そして、ちらりと俺を見た。……俺がいるから、取り繕っているのか。

 俺は動けなかった。春日野かすがのをまた傷つけて、こうして彼女が俺のために取り繕っている、その有様に。罵れば良い。

 俺を平手で叩いた時のように批難すればいいのに。


「時間ですね。戻りましょうか」


 あまりに居た堪れなくなって俺が声を掛ける。華実かさね先輩が何も気付かなかったようで笑顔で俺に答えた。せんりが俺に向かって笑顔を向けてくる。


「そうだね!」

「戻りましょうかー。明日もう帰るなんてあっという間ですね」

春日野かすがの、戻ろう?」

「……折川おりかわ、戻りましょ」


 別邸に向かって歩く。かなり傾いた太陽はもう山間に消えてしまっており、空だけが夏らしく明るい白に変わっている。別邸の入り口がざわざわと騒がしい。見知った顔がいる。棚田と田中だ。 本館の大浴場に居たから本館に部屋があると思っていたが、なぜここに居るのだろう。俺たちが四人固まって歩いていたので、彼らの目に止まったようだ。


折川おりかわ!? こっちに何のようだ」

「こんばんは、棚田君、田中君」

「こんばんは。あれ、春日野かすがの、さん?」


 田中が春日野かすがのに目を止めた。驚いた顔をする。


「田中君、春日野かすがのは写真部なんだ」

「ぅえ、あ、ああ、そうなんだ。教えてくれないから知らなくてさ」

「あんたに教える理由あるの?」


 先程の少々力を無くしていた態度から一変して春日野かすがのが感情をあらわにする。あんた呼ばわりだから、田中の事は好きじゃないんだなとわかりやすい。俺は春日野かすがのを隠すように田中の前に出た。春日野かすがのが俺の服を手で強く掴んでいた。田中が俺を見てから、周りの皆を見た。


折川おりかわは、なんで! ……お前、おかしいよ!」

「何がおかしいの?」

「クラスでも美人な女子を友達だって侍らせて、ぶ、部活の旅行で男が一人だけ? それって異常だろ」

「写真部の部長だけど、君は何を言ってるの?」


 俺が反論する前に華実かさね先輩が冷たい目で田中に食いかかる。小柄だが美人が冷たい目でにらみつけると迫力があるのか、田中が一歩下がった。


「外野の君が何の関係があるんだい? 所属のメンツがどうなるかは部活によるだろ。君だって部活に入ってるんじゃないのかな? その部活の男女の比率はどうなっているんだろう」

「あう、え」

華実かさね先輩、俺が話しておくんで先に戻ってくださ――」

尚順ひさのぶ君、なんでそんな事するの。わざわざ」

「クラスメイトだから、まあ、そこまで無下にするのも失礼になるんで、お願いします」

「……わかったよ。みんな、戻ろうか」

「……私、残ります」

春日野かすがのさん、私も部屋に行くので、さっさと戻りましょう」


 春日野かすがのが俺の服をさらに掴んだが、それをせんりが離すようにして、手首を掴んでそのまま連れて行く。華実かさね先輩も連れ立って足早にこの場を立ち去った。

 女子が居ないほうが会話が円滑に進むと思ったのか、棚田と田中が残る。背後に残っている連中は、俺をちらりと見てから、棚田に戻ると一声かけて本館へ向かった。なんで別邸の入り口に固まっていたんだろう。


「どうして別邸の入口前に固まってたんだ?」

「ああ、一部の男子が同い年ぐらいのすごい美人が泊まってると噂しててな」

「それで住道すみのどうの集まりでホテルに来ているのにこんなところに? 恥ずかしいと思わないのか」

「……住道すみのどう様もこの別邸に泊まっておられるから、その挨拶を」

鳳蝶あげはとは顔合わせて話を聞いたよ。挨拶なんて、昼と夕方に集まりでしているんじゃないのか?」

「……お前、あれほど俺が住道すみのどう様に近づくなと言ったのに」

「今話しているのは俺だ。棚田の不満なんて関係ない。こんなところで集団で立って、女を見て話しかけようなんて、棚田君が集団をまとめているんだろう。君が止めるべきじゃないのか」


 棚田が俺の胸ぐらを掴む。周りに人がいないからだろう。俺はその手首を掴んだ。


「ずっと前から不快だったんだ。田中に聞けば、クラスでもベタベタひっついて、賢し顔で俺に説教か?」

「そうだよ。田中君を含めて、わざわざ写真部の女子に絡みに来て迷惑を掛けられたんだから、説教ぐらいする」

「お前!」


 顔を殴られそうになって、それを反対の手で強く防ぐ。この動作に慣れてしまっているのが虚しかった。田中がまさか暴力になると思わなかったのか、声を上げた。田中はこういうのに慣れていないらしい。それが普通だと思う。


「棚田!?」

「……殴るなら、顔は止めてくれ」

「はぁ!? 何を」

「顔は言い訳するのが大変だから、こちらが防ぐ上から殴られても我慢はするが、顔は止めてくれ。腹でも服に隠れる場所にしておいてくれたほうが、お互い楽じゃないかな」

「意味が、意味がわからない。お前、何なんだ」


 棚田が掴んでいた手で俺を押して、手を離す。わざとらしくよろめいたように一歩下がった。顔に殴った後が付けられると後々必ず面倒になる。中学の時に一番困ったのがそれだ。服の下なら、莉念りねんと一緒に風呂に入っている時以外、何も問題なかった。莉念りねんは俺が言わない限り、それに対してなにか手を出すこともない。

 しかし、棚田が俺を意味不明な生き物を見るような目で見ていた。


「だから、顔に殴られたりして怪我や後がつくと、言い訳に困るんだ。棚田君が苛ついて不満をぶつけるなら、せめて服の下でわからない場所」

「それがわからないって言うんだよ! 意味がわからない。素直に殴られるのか!? 俺に!?」

「俺の説教が気に食わないなら、棚田君が手を出すこともあるのは理解できるだから」

「お前、気持ち悪いよ。なんでお前みたいなやつが住道すみのどう様の」


 本館に通じる道から鋭い声が上がった。聞き慣れた声で、


尚順ひさのぶさん!」

鳳蝶あげは……」


 とてもタイミングが悪い。面倒事になりかねない。鳳蝶あげはが俺の元へ足早によってくる。そして、棚田と田中を睨みつけた。


「あなたたち、何をしてらっしゃるの!?」

住道すみのどう様、こ、これは少し話してただけで」

「それで気持ち悪いと相手に言いますの!?」

鳳蝶あげは落ち着いて」

尚順ひさのぶさん、あなたはどうして!? 住道すみのどうに関わる人にひどい事をされたのなら、私に相談してくださいませ。私、あなたのためなら」

「大丈夫、俺は気にしないから。だから、」

「どうして!?」

「俺は、鳳蝶あげはが俺のために、自分が後で後悔したりするような事につながることをしてほしくないんだ」

「後悔なんてしませんわ!」

住道すみのどう様!」


 これはダメだ。せっかく鳳蝶あげはと抱き合って、わかり合おうと一歩進んだつもりだったのに、他人が俺たちの間にわだかまりを作るせいで、また上手く行かなくなってしまう。

 だから、俺はもう棚田も田中もどうでも良かった。今、話し合うべきは鳳蝶あげはだけだ。

 俺は鳳蝶あげはの手を握って、歩き出す。


「行こう」

「な! まだ話してる途中だ折川おりかわ!」

「話は終わった。俺は迷惑をかけられたが、我慢するから、君たちも用事がないなら大人しく部屋へ戻るだけで良い」


 こちらを追ってくるが、鳳蝶あげはが彼らを静止させようと声を上げる。


「迷惑ですわ」

「ですが!」

「迷惑ですわ」


 結局彼らはついて来られなくなる別館の入り口ホールまでやってきた。俺は鳳蝶あげはを先に行かせる。


「迷惑だ。ここから先は泊まっていない棚田君も田中君も来られないから」

「此処から先って、お前、本当にこっちに泊まって?」

「そうだよ。じゃあね。すみません」


 呆然とした彼らを置き去りにして、従業員を呼んでおいてから通路の三階直通のエレベーターへ向かう。鳳蝶あげはは心配そうに俺を待ってた。


尚順ひさのぶさん!」


 声を掛けてきた鳳蝶あげはに、俺は知り合いの視線もないから気兼ねすること無く抱きしめる。鳳蝶あげはがまさか抱きしめられるとは思ってなかったようで、びっくりしていた。


「結局、迷惑かけてごめん」

「……良いんですの。私、」

「ありがとう」


 彼女がなにかその先を言う前にお礼を言って、髪を撫でる。どうしたら話がつけられるのか。俺は理解できている。だけど、それは今、選ぶことの出来ない選択肢だ。

 俺が華実かさね先輩の恋人で、鳳蝶あげはが友達である限り、彼らが俺と鳳蝶あげはの関わりに対して、度々口に出したがるのを防ぐのは難しい。

 それこそ、中学の莉念りねんみたいに莉念りねんが放置する線を越えた人間へ行う場合のよう時だけだろう。今はまだ彼らも顔を合わせて目についた時に、俺へグチグチと言うだけだ。俺は言われたって構わない。苛立ちを人が見えないところで、大怪我にならない程度に殴られたって構わない。だから、鳳蝶あげはに見つからない場所でやってほしかった。


尚順ひさのぶさん、私が」

「言わないで。鳳蝶あげはにそんな事、させたくないんだ。分かって欲しい。お願いだから、俺の願いを分かって受け入れてほしい」

「……ひどい人」

「ごめん、ごめん鳳蝶あげは


 鳳蝶あげはが腕の中でわずかに動いて、息を吸って、我慢したように吐き出したのが伝わってくる。せんりと違う部分だ。彼女は今、キスしてと言うのを我慢したと思う。違うかもしれない。だけど、朝のせんりとのやりとりがあったせいで、俺は鳳蝶あげはが言わなかったと思えて、それが嬉しかった。


「ありがとう」


 君を傷つけてごめん。だけど、今の俺はこんなにも君と抱きしめ合って救われてしまう。

 今、君は俺にとってどんな存在だろう。セフレではないと思う。だけど、君を抱きしめたいと思って、抱きしめられると救われて、それは友達ではありえなくて。


『女の子を慰めるのは普通』


 そう、慰めるために抱きしめるのは普通だと莉念りねんに教わった。だけど、そこには抱きしめられると救われる気持ちは、いつだって入り込まなかった。

 今、君と俺の関係を言葉にすることは難しい。難しいのに、大切なんだ。


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無茶苦茶な人間関係の傷を、恋人に癒やされる日々のはずだったのに……

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