第294話 75


 戦士長との戦いのあと、廃墟に面した通りに静寂が戻った。しかしその静寂は決して安らぎをもたらすものではなかった。どこからともなく怨霊に襲われている戦士の悲鳴が響き渡り、憎しみに満ちた呻き声が聞こえてくる。篝火の薄明りにぼんやりと照らし出される荒廃した都市は、今や亡霊たちの棲み処に戻ってしまっていた。


 アリエルは半球形の屋根を持つ廃墟に視線を向けた。松明が掛けられていて、風に揺れる炎が焼け焦げた壁を照らしていた。壁面は黒々とした煤で覆われ、炎で融解したかのようにゆがんでいた。


 入り口に掛けられている毛皮の垂れ幕に、青年は慎重に手を伸ばした。指先でそっとめくりながら、姿勢を低くし、建物内の様子をうかがう。〈気配探知〉も使って周囲の気配を探るが、感知できたのは大気の微かな揺らぎだけだった。何かがそこにいるのは確かだが、それが人なのか、それとも何か別の存在なのか判然としない。


 空気が張り詰めていくなか、暗闇の奥から微かに聞こえる程度の声が聞こえてきた。

「やはり来てくれたか、息子よ」


 それは聞き慣れた声だったが、アリエルは声の正体を確かめるべく建物の中に足を踏み入れる。蝋燭ろうそくの薄明りに淡く照らし出される壁にはひび割れが走り、天井の一部は崩れ落ちて瓦礫がれきが積み上がっている。古くなった木材が発する独特のえた臭いと、何かが焦げた臭いが鼻にまとわりつく。建物全体が過去の悪夢を引きずっているかのようだ。


 その蝋燭の薄明りの奥にヤシマ総帥の姿が見えた。土鬼どきの特徴でもある大きな身体を寒さに縮こませていたが、守人の総帥としての威厳は失っていないように見えた。しかしそれでも、その表情には疲労と憔悴の色が濃くあらわれている。


「ご無事でしたか、閣下」

 アリエルは安堵の息つきながら、しかし警戒を怠ることなく周囲を見回す。裏切り者のザイドの姿は見当たらない。ヤシマ総帥と一緒にいると思っていたが、どうやらこの場所にはいないようだ。


「ああ、わたしは無事だ。人質は生きていてこそ意味があるのだからな」

 低い声で応えたあと、ヤシマ総帥は薄明りの中で目を細めた。彼の両手は、呪力を封じる特殊な金属で造られた手枷によって拘束されていた。その重厚感のある黒鉄は、蝋燭の弱々しい光を反射して鈍い輝きを放っている。


 それでも安心できなかったのか、襲撃者たちは総帥の動きを完全に封じ込めるため、同様の効果を持つ牢に収監していた。鉄格子の向こうに見える総帥の足元にはいくつもの鎖が絡みつき、その重さで総帥の身体は沈み込み、身動きが取れない状態だった。


「連中は――」と、ヤシマ総帥が言う。「人質としてどこかに連れて行こうとしていたが、〈転移門〉とやらが使えなくなったことを知り、今度は砦に立てこもる守人と交渉するために利用するつもりだった」


 その声には苛立ちと憤りが混在していた。信頼していた者に裏切られたことが、相当堪えているようだった。


 アリエルはヤシマ総帥の言葉にうなずいたあと、そばに立っていた女性に視線を向ける。

「総帥の捜索に協力してくれたシェンメイです」

 それから手早く現在の状況を説明する。


 ヤシマ総帥は考え込むような表情で彼女を見つめたあと、眉を寄せながら口を開く。

「その妖しげな格好には見覚えがある……たしか、〈赤の姉妹〉と呼ばれる娘たちだな」


 シェンメイの種族について何か知っているのだろう。総帥の言葉には、どこか懐かしむような感情が含まれていた。


 彼女は一瞬、険しい表情を見せたが、すぐに微笑を浮かべて答えた。

余所者よそものは妬みと侮蔑の気持ちを込めて、私たちのことを〈赤の姉妹〉と呼んでいる」

 彼女の言葉にはトゲがあり、張り詰めた空気の中に小さな火花が散るようだった。


 けれどアリエルはそれを無視して、用心深く周囲を見回しながら言った。

「牢から出すには鍵が必要だ」


 総帥が捕らえられている牢獄には頑丈な錠が取り付けられている。どうにかしてその錠を外さなければならないが、それに必要な鍵は見当たらない。青年は部屋の隅々まで調べ、半ば腐った調度品の陰や崩れた棚の上、床に散らばる瓦礫に至るまで探したが、それらしき鍵はどこにも見当たらない。


「もしかしたら、あのいけ好かない呪術師が鍵を持ってるのかも」

 シェンメイが建物を出ていこうとしたときだった。


 部屋の隅で何かがモゾモゾと動くのが見えた。不自然に積み上げられた毛皮が揺れたかと思うと、ズルリと無数の毛皮が地面に落ちていく。アリエルとシェンメイは同時に身構え、即座に武器を手に取る。その毛皮の山からヌッと顔を覗かせたのは、蜥蜴人らしき亜人種だった。


 艶のある鱗は深い緑色で、眼は縦に細長い瞳孔を持ち、まるで陽の光に目を細めるようにして周囲を見回していた。その態度はどこか呑気で、その身に危険を感じているという素振りは見られなかった。彼、あるいは彼女は欠伸あくびをして、尖った歯をみせた。


「や、やあ」と、その蜥蜴人は言った。声は低く、どこか擦れたような音が混じっている。アリエルと目が合った瞬間、亜人の表情には何とも言えない奇妙なものに変わる。敵意は感じられないが、その落ち着きようには一種の不気味さが感じられる。


「何者だ?」

 アリエルは剣を構えたまま目を細める。敵意や殺意は感じられないが、警戒を解くわけにはいかなかった。


 蜥蜴人は肩をすくめ、面倒くさそうに首を振った。

「……僕はだだの労働者だよ。どころで、君だちは一体誰なんだい?」

 活舌のハッキリとしない蜥蜴人特有の発音で問いかけてくる。今まで眠っていたのか、どこかのんびりした口調だった。


 それから蜥蜴人は長い舌で唇を舐めたあと、落ち着いた態度で毛皮に包まる。アリエルたちが警戒する様子を見ても、とくに驚きの感情を見せることもない。そもそも戦うという選択肢がないのかもしれない。彼の頭部には、蜥蜴人の戦士たちの特徴でもある見事なツノがないので、戦士階級の蜥蜴人でないのかもしれない。


「待て、アリエル」総帥の声が背後から聞こえる。

「そやつは我々の敵ではない」


 どうやら本当に敵ではないようだ。ヤシマ総帥が言うには、その蜥蜴人は〈建設隊〉の一員で、無理やり〈古墳地帯〉に連れて来られた労働者のひとりだという。


 眼のすぐ下に、横に線を引いたような黄色い鱗がある蜥蜴人は、寒さの所為せいで震えているように見えた。多くの爬虫類系の亜人種がそうであるように、彼も寒さに弱いのだろう。毛皮に隠れるように包まり、身体を暖めていたようだ。そのため、毛皮の山から顔を覗かせたとき、半ば眠りの中にいたような呑気な雰囲気を漂わせていたのだろう。


 その蜥蜴人に牢獄の鍵について知らないかたずねる。

「……なるほど、お前だちはごごから脱出するごとを考えでいるんだね」蜥蜴人独特のしゃがれた声が部屋に響く。彼は目を細めながら蝋燭の火をじっと見つめる。「それなら、僕の仲間の助けを借りるといい。牢のがぎなんで、すぐに開いでぐれるはずだ」


 アリエルは眉をひそめた。現在、都市遺跡には無数の怨霊が徘徊していて、とても〈建設隊〉の人間が生きていける状況だとは思えなかった。とりあえず、なにが起きているのか蜥蜴人に説明することにした。


 すると彼は肩をすくめた。

「心配しなぐでも大丈夫。ぞもぞも建設隊がこの都市に陣地を築いたんだ。亡霊がうろつくながでの危険な作業だったげど、僕だちは仕事をやり遂げだ。亡霊の対処法を心得ているんだ。だがら、そう簡単にはやられだりしない」


 仲間に絶対の信頼を寄せているのだろう。しかしそれでも、すぐに彼の言葉を信じるわけにはいかなかった。兄弟の裏切りによって総帥が拉致されたばかりだったのだ。シェンメイも険しい顔つきで蜥蜴人を見つめていたが、亜人を見慣れていないだけなのかもしれない。


 蜥蜴人はその様子に気づいたのか、顔を歪めるようにして笑顔を浮かべてみせた。

「心配するごどはない。〈建設隊〉は職人集団で、部族のいくさにはががわらない。いつも中立なんだ。僕だちは報酬を貰って仕事をするだけ。だだ建物を建でで、修復しで、安全な場所を確保する。それだげだ」


 アリエルは考え込むように視線を伏せた。彼の言葉が真実であれば、総帥を救出し、ここから無事に脱出するための協力が得られるかもしれない。


「その仲間たちの居場所を知っているのか?」

 質問に対して蜥蜴人は首を縦に振った。


「もちろんさ。ごごから少し北に進んだ場所にいるはずだ。彼らは間違いなく君だちを助けてくれる。げど時間が経つにつれて怨霊の活動も活発になる。早く動いたほうがいい」


 アリエルはうなずいて、それからシェンメイと短い目配せを交わした。蜥蜴人の言葉に嘘がなければ、まだわずかな望みが残されている。そもそも選択肢は限られていたが、一か八かの賭けに出る価値があるかもしれない。

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