第312話 09〈偽りの吐息〉


 アリエルは手元に視線を落とすと、〈偽りの吐息〉と呼ばれていた小さな箱を見つめる。それは手のひらに収まる程度の小箱だったが、そこに施された装飾は息を呑むほどに精緻で美しい。


 その箱の表面には、失われた古代の言語が――〈神々の言葉〉が彫り込まれている。〈石に近きもの〉によって刻まれたと思われる文字は、目にするだけで呪術的な力を宿していることが分かる。


 螺旋状の模様や複雑に交差する幾何学模様が、なにか重大な秘密を覆い隠すかのように箱を飾り立てる。その装飾は、神々の時代に使われていた〈呪紋〉を思わせたが、それらの模様の多くは、部族の語り手や書物でしか語られていないモノなので、詳細については分からなかった。


 アリエルは箱の表面に指を滑らせ、ゆっくりと呪力を注ぎ込んでいく。すると白銀の細工が微かに震える。それは徐々に生き物のように動き始め、模様が流れるように変化し、やわらかな光を帯びながら螺旋を描いていく。まるで箱に秘められた古代の力を呼び覚まそうとしているかのようだった。


 青年は意を決し、小箱の蓋に手をかけた。奇妙な緊張が全身を駆け抜ける。しかし小箱を開けると――中身は空っぽだった。アリエルは戸惑ったが、冷静さを保ち、深呼吸しながら蓋を閉じる。〈呪術器〉として正しく発動するには条件があるはずだ。


 小箱の力を解放するため、今度は裏切り者でもあるザイドの姿を明確に思い浮かべながら、呪力を注ぎ込むようにして小箱を開いた。


 すると、空っぽだった箱が漆黒の闇で満たされているのが見えた。その闇は、まるで深淵を覗き込んでいるかのように濃く、底知れぬ恐怖を感じさせる。そこから一筋の薄い霧が立ち昇り、ゆっくりと箱の外に広がっていく。それは生物のようにアリエルの姿を覆い隠していく。


 霧は静かに――まるで森の吐息を浴びせられたかのように、しだいに濃くなりながらアリエルの身体を包み込んでいく。やがて幻影めいた霧は、顔から手足の先まで、全身にわたって包み込みながら徐々に形を変えていく。


 全身が作り変えられていくような奇妙な感覚に襲われながら、形を変えていく手を見つめていた。肉体が直接変容するわけではなく、霧が作り出す幻影が身体を包み、あたかも姿が変わったように見せているだけだった。そのことは頭で理解しているつもりだったが、それが衝撃的な光景に変わりない。


 アリエルの手は裏切り者であるザイドの手に変わっていく。指が短く、太くなり、少し粗雑でザイドの野暮ったさがそのまま再現されているように見えた。霧の幻影によって形成された姿は、ザイドの特徴を捉えていて、身につけている衣服も本物のように見えた。


 しかしこの〈呪術器〉がもたらす変化は、やはり幻影にすぎず、顔や身体の表面を霧で覆っているだけだった。錆びついた鎖帷子に手をあてると、鋼線の輪で編まれた金属の冷たさは感じられず、〈幻翅百足げんしむかで〉のゴツゴツした外殻の感触がした。それでも遠目なら充分に人を欺くことができる――不安要素は残るものの、これで問題ないように思えた。


 霧の幻影によって〝表面上〟は間違いなく、裏切り者のザイドに見えていた。しかし細かいところに注意を向けてみると、その再現性に不安が残る。


 霧に包み込まれながら姿を変えていくアリエルを見て、ルズィは目を見開くようにして大袈裟に驚いて見せた。しかし違和感を覚えたのだろう、すぐに目を細め、その金色の瞳でアリエルのことをじっと見つめる。


 体格から全身の輪郭、そして薄汚れた黒衣までザイドそのものだった。泥や血にまみれた姿は、アリエル自身の心像が強く影響しているのだろう、実際の戦場で見たザイドのように汚物にまみれていた。しかしそれでもルズィは違和感を抱く。たしかにザイドの姿にそっくりだったが、どこか歪んでいるのだ。


 たとえば、ザイドの特徴でもある自信満々の嫌らしい笑みだ。他人をあざけるように口角を歪めたときには、黄ばんで黒くなった前歯が見えるはずだった。しかし今のザイドの笑みは、それとはまったく異なる。確かに憎たらしい顔で笑ってはいるが、その表情はどこか柔らかく、威圧感に欠ける。ザイドのような横暴で自己中心的な雰囲気は感じられない。


 それに、ザイドの唇の端と鼻の付け根にある深い傷痕も見当たらなかった。あれは戦闘で負った傷であり、彼の顔に不快感をもたらす一因だった。清潔感のない無精ひげも、ザイドを知る者にとっては彼を特徴づけるもののひとつだったが、その髭は綺麗に剃られていた。代わりに乾いた泥がこびり付いていたが、それでも印象はだいぶ違う。


 しまいには、その立ち姿だ。ザイドは猫背で、どこか気だるそうにして歩くのが特徴だった。首も少し傾いていて、まるで世界に対して挑発するかのような姿勢をとっている。だが今のアリエルは背筋がピンと伸び、隙の無い立ち姿だった。これは普段から意識している姿勢の良さが、ザイドに姿を変えたあとにも影響しているのだろう。


「やはり違うな……」ルズィはそうつぶやきながら、アリエルの姿をじっと見つめる。「たしかに見た目はザイドで間違いない。けど、あいつを知っている人間を騙すにはちょっと厳しいかもしれないな。……どこか斜に構えた雰囲気も、あいつから感じる印象とは違うような気がする。ザイドは皮肉たっぷりに世界を見ていたが、それはあいつなりの強がりだった」


 ルズィの言葉にアリエルは肩を落とし、壁に掛けられていた楯で自分の姿を確認する。楯に張られた薄い鉄板は歪んでいたが、それでも自身の姿を見ることができた。そこで細部のズレに気づくと、焦りが胸をよぎる。このままでは囚人を欺くことはできない。


 ザイドに対する解像度の低さ――あまりにも無関心で理解が浅かったため、表面的には似ているものの、細部に多くの間違いが見られるのだ。


 シェンメイの能力のように、血液と呪素じゅそから得られる情報で完全に姿を変える能力と異なり、〈偽りの吐息〉は、あくまでも〝変装〟するための道具なのだろう。


 それからしばらくして、アリエルはもとの姿に戻ってしまう。彼の身体を包み込んでいた偽りの霧が拡散していき、幻影が解けていく。〈偽りの吐息〉を使うさいに注いだ呪素が少なかったからなのか、偽りの姿を維持していられる時間が短くなってしまったのかもしれない。


 もとの姿に戻れて青年はホッとしていたが、このままでは囚人を欺いて情報を引き出すことはできない。そのための対策を講じなければならない。


 アリエルは思わず「やれやれ」と溜息をつく。

「ザイドのことを教えてくれ。やつの特徴をもっと詳しく知っておく必要がある」


 ルズィは肩をすくめると、ザイドについて知っていることを話していく。彼の嫌味ったらしい笑いかた、ぎらつく目つき、それに不機嫌な表情や荒っぽい言動など。それ以外にも黒衣の身につけ方や歩き方の癖――わずかに左足を引きずるような歩き方や、不安なときに刀の柄を握る手付きも再現してみせた。


 アリエルは細かな情報を頭に入れ、可能な限りザイドの姿を再現しようとする。再び小箱を手に取ると、ザイドの特徴を思い浮かべながら呪素を注ぎ込んで小箱を開けた。だが、何度試しても霧は箱の中に留まったまま動かず、姿が変わる気配がなかった。


 どうやら〈偽りの吐息〉は一度使ったあと、同じ人間が再度使用するには、ある程度の時間が必要なようだ。


 アリエルはとなりに立つ戦友に視線を向けた。

「ルズィが試してみてくれないか?」


「仕方ないな」

 ルズィは小箱を手に取ると、躊躇ためらうことなく呪素を流し込んでいく。するとアリエルのときよりも速く、霧が全身を包み込んでいき、ザイドの姿を形作っていった。


 そうしてルズィは驚くほどの精度で、瞬く間にザイドの姿に変わる。まるで本人が目の前にあらわれたかのようだった。嫌らしい笑みや目元に浮かぶ根拠のない自信、前屈みの姿勢――そのすべてが完璧に再現されていた。

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