第311話 08
重厚な扉の隙間から外に出ると、冷たい風が頬を撫でていくのを感じた。鍛冶場を支配する熱気とは対照的な冷たい空気が、アリエルを心地よく包み込んでいく。それに気を良くしたのか、青年は足元の石畳を軽く蹴るようにして歩き出すと、守人の詰め所として利用されていた塔に向かう。
砦の中央にある広場に面していて、本館からも見える場所に立っていた。総帥の塔に比べれば低い塔だったが、堅牢な石造りの建築物で倒壊する心配はない。長年の風雨に耐えてきた外壁は苔や枯れたツル植物に覆われていて、どこか荒廃感すら漂っていたが、その存在は揺るぎないものだった。
塔の周囲では武装した守人たちの姿が見られた。幾度かの襲撃を戦い抜いてきたからなのか、どこか殺気立っているようにも感じられた。詰め所として使われるこの塔には、つねに数人の守人が待機していて、緊急時には即座に対応できるよう準備していたが、彼らは多くの時間を火鉢や暖炉の前で無為に過ごしていた。
木製の大扉から漏れ出る暖かい光と、薪がパチパチと爆ぜる音が微かに聞こえ、青年の鼻には焚き火と鉄の混ざり合ったニオイが感じられた。扉を押し開けると、数人の守人が火鉢を囲んでいるのが見えた。黒狼の毛皮と黒衣を身につけ、腰に刀を差しているが、あまり緊張しているようには見えなかった。
襲撃が落ち着いている
詰め所の天井は低く、暗く、それでいて寒々しい。煤で黒ずんだ石壁に沿って階段が螺旋状に続いていて、アリエルは足音をできるだけ立てないように階段を上がっていく。
上階は守人たちの仮眠や休息のために使われていて、寝台や調度品が置かれている。予備の刀剣や鎧、それに槍や弓矢といった武具も用意されていて、必要に応じて持ち出せるようになっていた。
それからアリエルは、崩れた階段を横目に見ながら一旦外に出る。すると塔の外壁に設けられた木製の外階段が見えた。長い年月を経て風雨にさらされ、木材の一部は黒ずみ、手すりは朽ちかけているが、それでもまだ人の体重を支えるだけの力は残っている。その足場が軋む音を聞きながら上階に向かう。
そこからは高く
遠く木々の間から細く立ち昇る煙を見ながら古びた外階段を上り、最上階にたどり着いた。重々しい大扉を押し開けると、つめたい風が入り込んで、塔の中の澱んだ空気が少し揺れ動いたように感じられた。
扉の向こうは薄暗い部屋になっていて、その先にルズィが立っているのが見えた。彼は重厚な扉の格子窓から中を覗き込んでいて、壁に掛けられた古びた
「ちょうどいい時にきたな、エル」
ルズィは小声でそう言いながら手招きしてみせた。ふたりは手短に挨拶を済ませると、早速〝頼み事〟について話し合うことにした。
塔の最上階にあるこの部屋は、ただの物置や監視のための空間ではなく、牢獄として利用されているのだという。なぜ地下の牢獄ではなく、塔の最上階に囚人を連れてきたのか気になったが、すぐにその理由は判明する。
塔の最上階という位置に加え、階下の詰め所には守人たちが待機している。囚人が脱走しようとするならば、必然的に階下の詰め所を通り抜けなければならないので、そこで脱走が発覚することになる。塔の入り口にも見張りがいるため、裏切り者が侵入することも困難だ。逃げることも侵入することもほぼ不可能な場所、それがこの牢獄だった。
「襲撃者のひとりを捕らえて、そこに監禁している」
ルズィはそう言いながら扉を軽く叩いた。厚みのある木製の扉は時間の経過とともにくすみ、所々に凹みや傷が見られた。鉄で補強されていて、重々しい鎖が絡んでいる。格子の小窓からは薄暗い部屋の内部が見えていたが、囚人の姿は確認できない。
ちなみに、部屋の四隅に
「それで――」と、アリエルは眉を寄せる。
「俺は何をすればいいんだ?」
ルズィはニヤリと笑みを浮かべる。
「この馬鹿げた襲撃を終わらせるため、こちらから打って出るつもりだ。それには敵本隊に関する情報が必要だ。だが、普通のやり方じゃ情報は手に入らない。下手に拷問で痛めつけても、やつは口を割らないだろう。それで……考えたんだ。エルが連れてきた〈赤の姉妹〉なら、呪術で姿を変えて、囚人から有利な情報を引き出せるんじゃないのかって」
塔の最上階にある牢獄は冷たく、陰湿な場所だった。物理的に閉ざされた空間というだけではなく、圧倒的な孤独と恐怖が支配する場所でもあった。囚人はその場所に何日も、あるいは何週間も閉じ込められ、精神を蝕まれ続けていくことになる。いずれ我々が必要としている情報を提供してくれるかもしれないが、今は悠長に構えていられない。
アリエルは状況を理解すると、つめたい石壁にもたれながら、呪術を用いてどのように敵を欺くのか考えていく。囚人の心理にどのように働きかけ、情報を引き出すのか――それが重要だった。
シェンメイの能力を思い浮かべる。彼女には特殊な能力が備わっていた。それは、ある種の変身能力でもあり、本物そっくりに姿を変えることができた。もし囚人の仲間に姿を変えることができれば、彼と同じように捕らえられたと偽って近づくことができる。仲間がいることに安心した囚人は、あるいは簡単に口を割るかもしれない。
しかし彼女が能力を使うには、姿を変える対象の血液が必要だった。問題は、それが死体の血液であったとしても使えるかどうかだった。襲撃者の死体なら簡単に手に入るかもしれないが、死後数時間が経過した血液でも同様の効果が得られるのか分からなかった。
シェンメイの能力について、そのすべてを知っているわけでない。しかし血液に含まれる呪素が変身に関係していることは間違いない。呪素から得られる個人情報のおかげで、本物と見紛うばかりに姿を変えることができる。その呪素が抜けてしまった血液は、もしかしたら役に立たないのかもしれない。
それでも、試してみる価値はあるかもしれない。「けれど――」青年は更に深く思考していく。もっと確実な方法があるのではないか――そこでアリエルは、ひょんなことでネズミの亜人から譲り受けていた貴重な〈呪術器〉のことを思い出した。
深呼吸して息を整えたあと、〈収納空間〉から遺物を取り出した。それは美しい細工が施された小さな箱で、微かに青白い光を発していた。箱そのものは精巧な美術品のように作られていたが、それを手にした瞬間、何か得体の知れない力を宿していることに気がつく。
それは〈偽りの吐息〉で知られた〈呪術器〉で、小箱に付与された能力を使うことで、使用者の姿を変えることができた。ただし、それは完全な変身ではない。霧状の幻影が使用者の顔や身体を包み込み、他者に偽りの姿を見せるという効果だった。近くで見れば怪しまれるだろうが、遠目や、暗がりであればほぼ別人のように見せることができる。
その効果がどれほど持続するのかは分からなかったが、それでも一時的に囚人を欺くことはできるだろう。幸いなことに裏切り者であるザイドの死は知られていない。彼の幻影をまとい、仲間のフリをして囚人に接触すれば、情報を引き出すことができるかもしれない。
幻影の効果が解けてしまう前に素早く目的を達成する必要があるが、それでもアリエルには、これが最も確実な方法だと思えた。さっそくルズィと考えを共有することにした。彼は眉を上げ、考え込むような表情を見せた。
「声や立ち居振る舞いはどうする?」
たしかに幻影で姿を変えることはできるが、囚人がザイドのことを知っているのであれば、些細な仕草や話し方ひとつで疑念を抱かれるかもしれない。
「……だが、試してみる価値はある」と、ルズィは言う。
「囚人に会う前に、そいつの効果を確認しなければいけないが」
「それなら、さっそくこの箱の能力を確かめてみよう」
アリエルの言葉にルズィは真剣な面持ちでうなずいた。
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