第310話 07


「その〈ダレンゴズ〉というのは?」

 石に近きものはアリエルの問いに反応し、手にしていた面頬を作業台にのせ、口から煙をゆっくりと吐き出した。その煙が空気中に広がり、煤に染まった鍛冶場の薄暗い天井に漂っていく。


『〈ダレンゴズ〉は――〈終わりなき湖〉、あるいは〈果てなき湖〉と呼ばれる広大な湖の底にあると信じられている古の都市のことだ。魚人どもは、その暗く冷たい水底からやってきたと語り伝えられている』


 クルフィンは低くしわがれた声で古の都市について語る。その言葉は岩のように重々しく響き、鍛冶場を覆う闇そのものが息を潜めて聞き入っているかのようだった。


 アリエルの脳裏には、凍てつくように冷たい湖底に沈む都市の心像が浮かび上がる。暗闇のなかで燐光を帯びる石造りの壮麗な都市は、しかし深淵にうごめく邪悪な意思に支配され、世界そのものに悪意を振り撒いていた。その邪悪な意思は青年の意識を引きずり込もうとしているかのような錯覚を抱かせ、背筋に冷たいものが走り鳥肌が立つ。


 重苦しい沈黙のなか、冷たい水が頬を撫でるような感覚に襲われた。そこでふと、南部地方で遭遇した忌まわしい魚人たちのことが頭によぎる。〈黒の魚人〉は獲物の干し首を腰に吊るし、獰猛な笑みを浮かべながら湿原を徘徊していた。彼らもまた、古代からの邪神を崇拝し、生け贄と狂気に満ちた儀式を行っていた。


 もしかしたら、〈ダレンゴズの魚人〉との間に何らかの繋がりがあるのかもしれない。南部には争いを好まず、我々と友好な関係を築くことのできた魚人たちもいた。以前、アリエルは彼女たちと協力し、〈黒の魚人〉を撃退したこともあった。彼女たちなら〈ダレンゴズ〉やその邪神にまつわる真実を知っているのではないか――そんな考えが頭をよぎった。


 その時、不意にクルフィンの鋭い視線がアリエルに向けられる。まるで思考を見透かされたかのように、彼は明滅する四つの眼を細め、口を引き結んだまま質問する。


『ところで――』頭のなかで聞こえる声は低く、さらに険しいものに変わる。

『この面頬をどうするつもりだ……まさか、身につけるつもりなのか?』


 その問いかけは意味深な響きを帯びていた。それは単なる武具としての使用を問いたものではなく、その裏にある〝代償〟や〝危険性〟をも指摘しているように感じられた。


 しばらくの間、アリエルは無言で面頬を見つめる。黒を基調に、濃紅こいくれないで染められた面頬の牙は鋭く、炉の炎を受けて鈍い輝きを放っていた。神々の時代の強力な遺物なので、これ以上のモノを見つけるのは難しいだろう。


 しかし、それ以上の何かが――もっと禍々しい力が――この遺物には宿っている。実際のところ、今も奇妙なささやき声が聞こえていた。それは絶えず青年を誘惑し、魅了しようとしているかのように感じられた。


 それでも、アリエルは石に近きものの問いにうなずいた。力を得るには、つねに代償が伴う――その覚悟ができているという意思表示だった。クルフィンは反応せず、口の隙間から煙を立ち昇らせながら一言も発さなかった。


 面頬は、強力な遺物であることに間違いなかった。けれどそれを使用するには、まず遺物との間にある邪神との繋がりを断つ必要があった。その繋がりがどのようなモノであれ、それを断つことができなければ、狂気に蝕まれ、死ぬまで戦うことをやめられなくなると、石に近きものは言う。


 面頬を装着することで空間認識能力が強化されるだけでなく、反射神経の工場により戦闘の技量そのものが増すと言われているが、残虐さも際限なく増幅してしまう。暗黒に満ちた見えざる世界、あるいは、〝幽界〟とのつながりができてしまうためだとも言われていたが、たしかな記録が残されていないため真実を知る者はいない。


『――だが、邪神とのつながりを断ち切れば、遺物そのものの力も失われてしまう』クルフィンはそう言うと、炎のように揺らめきながら明滅する瞳でアリエルを睨んだ。彼の声は重々しく、これまでもこの問題に向き合ってきたことがうかがえた。『邪神の力と遺物の力は表裏一体だ。片方を断ち切れば、もう片方も消えてしまう』


 アリエルの胸に重苦しい感情が広がっていく。あらたな力を得るため狂気を受け入れるか、狂気を避けるために貴重な武具を諦めるか――そのふたつの選択肢はどちらも犠牲を伴うもので、簡単に決断できるものではなかった。


 しばらく黙考していたクルフィンが、ふと何かを思いついたかのように身体を動かす。彼の四つの眼に閃きが宿り、煙を吐き出しながら口を開く。その視線は背後の棚に向けられ、何かを探すように長い腕を伸ばした。


 そして古びたガラス瓶を手に取り、それを無造作に作業台に置いた。瓶の中は微かな光を放つ不思議な液体が満たされていた。


 その液体は神秘的な輝きを発しながら、ゆっくりと色を変えていた。深い青から紫へ、緑から赤へと変化していく。どこか引き込まれるような美しさを放っていて、アリエルはその光に心を奪われ、心地よい幻を見ているかのような感覚におちいった。しかしクルフィンが瓶を手に取ると、青年は目の前の現実に引き戻された。


 それは、素材を得るために〈幻翅百足げんしむかで〉の死骸から外骨格を回収していたときに、ついでに入手していた体液だった。


『〈幻翅百足げんしむかで〉の体内でつくられる特殊な粘液は、薄い翅を保護するだけでなく、狩りのさいに獲物を魅了し、ある種の穏やかな気持ちになる幻を見せる効果を持つと言われている。しかし、もちろんそれだけではない。この体液には翅そのものを獲物の意識からそらし、隠蔽するための効果も備わっている。貴重な器官を攻撃されないため、進化の過程で手に入れた能力なのだろう』


 アリエルは〈幻翅百足〉と対峙したときのことを思い出す。森の深淵に潜む混沌に由来した化け物であり、滅多に遭遇することのない生物でもあった。あるいは、その特殊な体液のおかげで、守人の目から逃れてきたのかもしれない。クルフィンは、この稀少な体液に邪神との繋がりを回避する力があると考えているようだった。


『この体液を使うことで、面頬を介してこちらを監視している邪神の眼を欺けるかもしれない。完全に邪神とのつながりを断ち切ることはできないが、こちら側との接触を曖昧にして、遺物の力を維持しながら狂気に引きずり込まれることを防ぐ』


 瓶の中で次々と色を変えていく液体を見ながら、アリエルは思考する。果たして、この液体で神に連なる存在を欺くことができるのだろうか、と。神々の力は計り知れない。しかしクルフィンが試みるのは、完全に繋がりを断つことではなく、あくまでも欺くことだった――そしてそれは試してみる価値のあるものだった。


『だが、注意しろ。どんな策を講じたところで、邪神との繋がりを完全に断ち切ることはできん。こいつを身につけるたびに、少しずつ精神が蝕まれていくだろう。しかし……まぁ、その時が来たら、また別の対処方法を考えればいい』


 アリエルは息をつくと、目の前で虹色の輝きを放っていた瓶からそっと視線を外した。クルフィンの無骨な顔が、冷静な眼差しで青年を見つめ返している。ここでの判断が、これからの戦いの行方を左右するかもしれない。そう思うと、すぐに決心することができなかった。


 アリエルは面頬を手に取り、そのいびつな造形をじっと見つめる。薄暗い鍛冶場の中で面頬は鈍い光を反射し、仄かに不吉な気配を漂わせていた。やがてアリエルはその面頬をクルフィンに託すことを決意した。武具に関して言えば、彼の右に出る者はいないし、彼ほど信頼できる相手もいない。


 石に近きものに面頬を手渡そうとした瞬間、〈念話〉を介してルズィの声が内耳に聞こえた。どうやら急ぎの仕事を頼みたいようだ。アリエルは一瞬だけ返事に迷ったが、すぐに了解の意思を伝える。


 それから軽く胸に手をあて頭を下げると、クルフィンに面頬の加工をお願いした。石に近きものは煙を吐き出しながら『任せてくれ』と答えると、作業に没頭するかのように作業台に視線を落とした。アリエルは面頬から離れることを躊躇しながらも、背を向けて鍛冶場をあとにした。

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