第313話 10〈囚人〉
古い錠が外れる鈍い金属音が響いた。囚人はわずかに身を震わせ、その音にじっと耳を澄ませた。重たい扉が軋みながらゆっくりと開いていくのが視界に入る。脈が早まるのを感じ、背筋が緊張でこわばった。
「またか……」
囚人の脳裏に浮かんだのは、数時間前に行われた拷問の記憶だった。逃れられない痛みと、薄氷の上を歩くような恐怖。いつ殺されてもおかしくない状況だ。囚人は身構えたが、どうやら今回は何か様子が違うようだ。
部屋に入ってきたのは感情の欠片すら持ち合わせていない野蛮な守人ではなく、すでに見慣れていた仲間の顔だった。組織を裏切った男――ザイド。囚人は目を細め、その顔を見つめた。ザイドの顔には乾いた泥と血がこびり付いていて、どことなくやつれたようにも見えるが、間違いなくザイドだ。
総帥を
「だが……」何かがおかしい。
ザイドは部屋に入ったまま、一歩も動こうとしない。囚人は目を凝らし、その挙動に不安を感じた。ザイドは何かを気にしているのか、しきりに周囲を見回している。いつもなら馬鹿げた笑みを浮かべながら嫌味を口にするはずだが、今日はやけに無口だった。
囚人はザイドの動きに注意を払いながら、かれの視線を追う。すると壁に埋め込まれた黒い物体に気がついた。それは鉄球のようにしか見えないが、見るだけで全身に鳥肌が立つような不快感を覚えた。
そこで囚人はすぐに理解した。〈念話〉を使って仲間と連絡を取れなくなったのは、きっとあの鉄球の所為なのだと。そしてザイドも、あの〈呪術器〉を気にしている――いや、恐れているのかもしれない。だが、それも仕方のないことだ。俺たちは呪素とともに生きてきた。それを奪われることほど恐ろしいことはない。
徐々に冷静さを取り戻した囚人は、現在の状況を見極めようとする。ザイドがここにいるということは、自分にも何かしらの機会が――あるいは好機が訪れたのかもしれない。囚人は口元を引き締め、静かに息を整えた。の馬鹿な男を利用すれば、この場所から出られるかもしれない。
「ザイドか……てっきり、もう死んじまったかと思っていたよ」
囚人はできるだけ自然に、軽い調子で話しかけた。
外で誰かが話を聞いている心配はない。ザイドのような薄汚い裏切り者は、他人を信用することはしない。やつは自分の利益のためなら平然と嘘をつき、仲間を裏切り、狡猾に立ち回る。そんな人間が他人と協力することなどありえない。であるなら、この状況を利用できるかもしれない。囚人はそう考えた。
「それで?」ザイドの目を見つめた。探るような視線を隠し、言葉に挑発的な響きを含ませながら続けた。「何しに来たんだ? まさか、俺を笑いに来たんじゃないだろうな」
ザイドは少し間を置き、気取った態度で笑ってみせた。
「情けない野郎だな。敵に捕まるなんて」彼の口角がわずかに上がり、汚い歯を見せながら作り笑いを浮かべる。その表情には、どこか奇妙なぎこちなさが感じられたが、囚人は気づかないフリをした。ザイドも緊張しているのだろう、と。
「たしかに、情けない話だ」
囚人は肩をすくめ、手首に
「けど、お前がわざわざここに来たってことは、上の連中が俺を必要としているってことだよな?」
その言葉には少しの期待を込めて、あえて自分を卑下するような響きを持たせた。囚人はザイドの反応を探りながら、慎重に駒を進めるつもりだった。
「かもしれないな」ザイドは冷静な口調で答えた。
「実は、お前に
ザイドの目が冷たく光り、目の前の囚人を鋭く見据えた。囚人は一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに笑顔を作り直した。
「ここでは誰も彼も俺から話を聞きたがる。けど、そうだな……お前は仲間だ。そうだろう? 仲間の質問には答える。それが仲間ってモノだ。それで、何が知りたいんだ?」
囚人はザイドを見つめながら――まるで暗示をかけるように、〝仲間〟という単語を繰り返し聞かせた。友好的な間柄だと意識させるための行動だった。馬鹿なザイドが相手なら、このやり取りの主導権を握り、上手く騙し通せるだろうという確信があった。
「その〝お仲間〟の前哨基地が攻撃された。しかも、お前が捕まった直後に」ザイドは、まるで脅すような口調で言葉を続けた。「こいつは偶然なのか? それとも――」
その質問に空気が冷たく張り詰めていくのが分かった。囚人は無意識に背筋を伸ばしたが、すぐに自分を落ち着かる。「ああ、偶然だ」努めて冷静に、しかし語気を強めながら言う。「俺は仲間を売るようなことはしない。実際、ひどい拷問だったが、俺は口を割らなかった。そうだろう?」
無実だと信じ込ませるように力を込めて言ったが、内心では焦燥感が押し寄せていた。ザイドの視線は依然として鋭く、囚人の言葉を一切信じていないようだった。
「残念ながら、お前の言葉が本当なのかどうか確かめる術がない。分かるな、お前の言葉を信じる理由がひとつもないんだ」ザイドの声は冷たく、何かを見透かしているかのようだった。
囚人は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、必死に冷静を装った。このままではザイドの雰囲気に呑まれてしまうかもしれない。心臓の鼓動が速くなり、嫌な汗をかく。ここで口を誤れば、自分が生き残れる可能性はなくなるだろう。
ザイドの目的は明らかだった。彼は何かを探っている。俺から情報を引き出し、こちらの弱みを握ろうとしているのだ。囚人はそう考えた。
「お前が知っている陣地の場所を示せ」
ザイドは冷たく言い放つと同時に、古びた羊皮紙の地図を囚人の足元に放り投げた。地図は床で広げられ、乾いた音が静かな部屋に響く。
「お前が守人に口を割っているなら、すでに仲間たちの居場所が知られているかもしれない。だから、そこにいる連中に俺は警告しなければいけないんだ。もちろん、それは忠誠を示すための行動だ。俺は裏切り者だからな、連中に信じてもらうために、やらなければいけないことなんだ」
囚人は地図を睨みつけながら、喉の奥で軽く唸った。地図に描かれていたのは、砦周辺の詳細な地形に加え、守人と敵対する勢力の野営地や陣地、それに物資を調達するための〈転移門〉の正確な位置まで記されていた。それを見た囚人は、胸の奥に激しい怒りが込み上げるのを感じた。卑怯者が、仲間すらも信用せず、こうして自分で調べてきたのか。
ザイドは自分の保身のためだけに逃げ道を確保していたのだろう。なにかあったときに――たとえば、裏切りが発覚したさい、俺たちの情報を守人に差し出すつもりだったのだろう。囚人はザイドを罵ろうとしたが、すぐにその言葉を飲み込んだ。ザイドが疑いの目でこちらを見つめ、俺の返事を待っている。
そこで囚人はあることに気がついた。地図に記された陣地の場所は正確だったが、重要な一点――本隊の位置だけは書き込まれていなかった。ザイドが本陣だと思っていた場所は、補給の拠点でしかない。
つまり、ザイドは本陣の正確な位置を知らないのだ。ならばそれを利用できるかもしれない。ザイドは情報を欲している。この状況をうまく利用すれば、俺が自由を手に入れることも不可能ではない。
囚人は心の中で計画を練り始めた。本隊の位置を提供する代わりに、この牢獄から逃がしてもらう。それが成功すれば――本陣にいる仲間たちを失うことになるかもしれないが、所詮、俺たちは寄せ集めの傭兵でしかない。仲間に未練なんてものはない。もちろん、すぐに信じてもらえる保証はないが、今はそれしか方法がなかった。
「わかったよ、ザイド」
囚人は、あえて冷静な口調で答えた。
「俺が知ってることは教えてやる。だが、それにはひとつ条件がある」
彼は薄笑いを浮かべながら、ザイドの目を見据えた。
「俺をここから出してくれ。あんたの裏切りに協力するつもりはないが、このまま死ぬのはごめんだ。俺が本陣の位置を教えれば、お前は切り札を手に入れることになるし、俺も自由を手に入れられる。それでどうだ?」
ザイドの顔に一瞬、迷いの色が浮かんだ。囚人はその微かな表情の変化を見逃さなかった。これは勝機だ。
囚人は口の端をゆっくりと持ち上げ、冷たい笑みを浮かべた。心臓は鼓動を速めていたが、その不安を覆い隠すように、声を低く、気持ちを落ち着かせながら言った。
「どうだ。悪い条件じゃないだろ?」
しかしザイドは腕を組み、軽く鼻を鳴らしながら言い返す。
「俺は仲間たちに警告したいだけだ。本陣にいる連中がどうなろうと、俺の知ったことじゃない」
その言葉に囚人の笑みはさらに深まった。冷や汗をかいていたが、今こそ勝機を感じた。ザイドの目には揺らぎがあった。やつは嘘をついている。そもそも、ザイドが仲間のことを本当に気にしているはずがない。付け入る隙はここだ――囚人はその確信を胸に口を開いた。
「なぁ、ザイド――俺に嘘をつく必要はないさ」
囚人の声には自信がにじみ出ていた。
「お前が仲間たちのことを、これっぽっちも気にしちゃいないことくらい、俺にも分かっている。だからさ、取引をしよう。お前は俺をここから出す。代わりに俺は本陣の正確な位置を教えてやる。それでどうだ? お前の裏切りが疑われるようなことがあったら、その場所を守人たちに教えてやればいい。そこで守人に対する忠誠心を示すことも、身の潔白を証明することもできる」
その言葉で空気が変わるのが分かった。ザイドの表情がゆっくりと崩れ、しだいに嫌らしい笑みが浮かんでくる。あの卑劣な笑みだ――囚人は、これで賭けに勝ったことを悟った。ザイドは条件に乗った。それは疑いようのない事実だった。
「いいだろう」ザイドは冷たい声で言い放つ。「お前をここから生きて出してやる。けど、分かっているな。もしも嘘をついていたら、お前の命はそこで終わりだ」
その言葉に囚人の顔に安堵の表情が浮かんだ。鉄の枷が擦れる音が聞こえる中、彼はその言葉に応える。
「仲間に嘘をつくものか」
胸の奥で湧き上がる喜びを必死に抑えつつ、もう少しで手にできる自由を思い描いた。そしてその自由に対する思いが、自然と彼の口元に笑みを浮かべさせた。
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