第288話 69


 都市遺跡に巣食う怨霊は消え去ったが、天幕内には血が凍るような冷気が残されていた。アリエルは白い息を吐き出しながら〈聖女の干し首〉を腰に吊るすと、そっと天幕の外の様子をうかがった。シェンメイも干し首によって形成される結界の範囲内から出ないように、青年にぴったりと身体を寄せる。彼女の肌は冷たく、緊張感が伝わってくるようだった。


 天幕の外では屈強な戦士たちが怯えた表情で無抵抗のまま、色彩を欠いた白黒の怨霊たちに襲われていた。暗がりから姿を見せる怨霊は凍えるような冷気を伴い、ゆっくりと地面を滑るようにして戦士たちに近づいていく。その怨霊の姿は霧の中に溶け込むかのように透けていて、存在感は希薄で今にも消えてしまいそうだった。


 戦士は怯えて後退あとずさるが、すでに怨霊の一体が彼の背後に立っていた。その顔は黒々とした血液に染まっていて、瞳はくり抜かれていた。それでも戦士に組み付くと、まるで生命力を吸い取るかのように、じわじわと戦士の力を奪っていく。


 蛮族の屈強な戦士の身体は徐々に萎び、力が抜けていくのが見て取れた。恐怖と絶望が広がるなか、次々と怨霊たちが戦士に襲いかかり、彼らの命をむさぼっていく様子が見られた。


 暗闇に佇む怨霊は、いつの間にか姿をあらわしていて、気がつくと戦士たちに襲い掛かっていた。いつくばるかのようにして動くモノもいれば、足を動かさずに地面を滑る奇妙な動きで戦士たちに近づき、無言で生命力を奪うモノもいる。アリエルはその光景に戦慄を覚えると同時に、干し首の結界に守られていることにわずかな安堵を感じた。


 戦士たちに襲い掛かる怨霊たちは、悪夢から抜け出してきたかのような恐ろしい姿をしていた。怨霊の多くは、色を失い白と黒に染まっているが、惨殺されたときのままの姿であらわれていた。怨霊の一体は片腕が根元から失われ、もう一方の腕も不自然にねじれていた。血の痕跡はなく、ただ黒い肉片が垂れ下がっている。


 別の怨霊は顔の半分がえぐり取られ、頭蓋骨がむき出しになっている。腹部からは黒い艶々とした内臓が飛び出していて、怨霊が動くたびにちゃぷちゃぷと水気を含んだ不快な音を立てた。その臓器の多くは腐敗していたが、嫌な臭いは感じられない。なぜ、かれらが死後の姿を維持しているのかも分からない。


 いずれにせよ、それら怨霊の身体はすべて色が抜け落ちたようにせていて、幽鬼のように大気の中で揺らめいていた。しかしそれでも、見る者に計り知れない恐怖を与えるほどに気色悪くて不気味な存在だった。


 その怨霊たちの顔はかろうじて原形をとどめていたが、その目は虚ろで、表情は苦しみや怒りに歪んでいる。その姿を目にしているだけで、精神を蝕まれるような恐怖を感じた。


 ある戦士は、その恐怖に耐えきれず顔を青ざめたまま、急造の見張りやぐらに駆け上がった。彼の目は怨霊の姿を捉えた瞬間に狂気に染まり、理性を失ったようだった。怨霊がゆっくりと櫓に向かって近づいてくるのを見たその瞬間、彼は咄嗟に何かを叫び、怨霊に捕らえられる前に櫓の頂上から飛び降りることを選んだ。


 彼の身体は宙で回転し、地面に叩きつけられると同時にグシャリと不快な音を立てて潰れた。骨が砕け、真っ赤な血液が地面に広がる。それでも彼にとって、怨霊に捕らえられることよりもマシな死に方だったのかもしれない。怨霊は無言のまま戦士を見下ろしたあと、他の戦士たちに向かって移動していく、その無表情な顔に冷酷な殺意を漂わせながら。


 アリエルは天幕の中からその光景を観察しながら、胸の中に冷たい恐怖が広がるのを感じた。干し首の力に守られていなければ、彼自身も同じ運命を辿たどることになったかもしれない。結界を解いたことで、たしかに前哨基地にいる戦士たちを混乱のなかにおとしいれることができたが、想像していたよりも厄介なモノたちを呼び覚ましたのかもしれない。


 干し首の結界は怨霊からアリエルたちを守っていたが、戦士たちの狂気に対しては無力だった。蛮族の戦士は目の前で繰り広げられる恐怖に正気を失い、発狂する者が次々とあらわれていた。ふたりは予期せぬ争いに巻き込まれないように、緊張感を漂わせながら天幕の外に出る。


 狂乱した戦士たちに警戒しながら、一瞬の油断も許されない状況で、慎重に歩を進める。天幕の外では無秩序に走り回る戦士たちの叫び声が響き渡り、彼らが怨霊の手にかかって絶命していく様子が確認できたが、ふたりはそれらを無視して、戦士長のあとを追うように神殿の廃墟から離れていく。


 狭い路地に入ると、暗がりの中で怨霊たちの姿が浮かび上がる。薄暗い路地の隅には首を切断された女性が全裸のまま目的もなく歩いている。その歩みは鈍く、下半身から血を滴らせ、腹部から垂れ下がった内臓が揺れている。それにもかかわらず、怨霊は非現実的なほど静かだった。


 そのすぐとなりでは、鉄の鎧を身にまとった古代の戦士が狂ったように大剣を振り回しながら路地を駆け抜けていく。その剣はどこにも当たらず、ただ無意味に振り回されるだけで、まるで永遠に終わらない戦いに囚われているかのように見えた。


 この都市は狂っている。すべてが呪われている。アリエルは背筋に寒気が走るのを感じた。襲撃者たちはこの都市遺跡に足を踏み入れるべきではなかったのだ。この場所では、すでに死んでしまった者たちが怨念に囚われ続け、終わることのない苦しみを抱えたまま彷徨いつづけている。そして部族民の存在は、この状況をより厄介なモノにしていた。


 暗い路地を進むと、無数の檻が置かれた通りに出た。その鉄の檻の中には、〈古墳地帯〉で捕まえてきたであろう骸骨兵や屍食鬼グールが押し込められている。その姿はおぞましく、ただ立っているだけでも嫌な寒気を感じる。


 骸骨兵は微かに動いているものの、鎖に繋がれた手足の所為で檻から脱出することはできそうになかった。屍食鬼たちも檻の中で唸り声を上げ、腐った肉を咀嚼しているだけで、その場から逃げ出せそうになかった。


 一体、何のために化け物を捕えているのだろうか? アリエルは脳裏に浮かぶ疑問を押し殺しながら、さらに歩を進める。まさかとは思っていたが、ここまで狂気に満ちた光景を見るとは予想していなかった。何が普通で、何が異常なのか、その境界線がどんどん曖昧になっていく。


 この呪われた都市に巣食う脅威は怨霊だけでなく、人々の心をも蝕む狂気そのものなのかもしれない。あるいは、〈赤頭巾〉のような機関が研究目的で混沌に由来する化け物を調達しようとしているのかもしれない。かつて守人も混沌の化け物を解剖し、脅威に対処する方法を研究していたので、それほど間違った行動でもないのかもしれない。


 この都市遺跡は戦場になったのだろう。焼け焦げた石畳は、かつての激しい戦闘の痕跡を物語っていた。崩れ落ちた建物の瓦礫がれきや、錆びついて朽ちた武器が散乱していた。周囲は不気味な静けさに包まれ、アリエルとシェンメイの足音だけが微かに響いていた。


 やがて鼻を突く悪臭が漂い始めた。鼻孔を刺激する強烈な臭いに顔をしかめながら周囲を見回すと、すぐにその原因を見つける。路地の一角に設けられた便所が溢れ、その排泄物が地面に広がっていた。そこに無数の蠅が群れ成して飛び交い、不快な羽音が耳障りに響く。腐った糞尿の臭いに、ますます気分が悪くなった。


 その少し先では篝火が燃えていて、炎の周囲には無数の蛾が集まっていた。蛾たちは炎の光に魅せられたかのように飛び回り、炎に照らされてその羽が赤々ときらめいている。


 突然、前方から悲鳴が聞こえてきた。それは怯えきった戦士たちの叫び声だった。怨霊に襲われているに違いない。アリエルは咄嗟に身を隠し、音のする方角に歩を進める。恐る恐る現場に近づくと、拷問の場所として利用されていたと思われる陰鬱な広場にたどり着いた。


 裏切り者たちに想像を絶する痛みや苦しみを与えたであろうその場所で、今度は拷問していた者たちが怨霊の標的になっている。焼け焦げた黒々とした廃墟の壁には飛び散った鮮血のあとが残り、血に濡れて錆びついた拷問器具が放置されている。


 その近くで、戦士たちは恐怖に震えながら必死に怨霊から逃れようとしていたが、それは許されなかった。広場を囲むように聳える塔の廃墟から、次々と怨霊が姿をあらわす。


 壁際に追い詰められた戦士たちは、狂ったように怨霊の手から逃れようとしたが、怨霊は彼らに容赦なく襲いかかり、その生命力を奪っていく。怨霊の冷たく痩せた手が身体に触れると、かれらは悲鳴を上げながら倒れていく。恐怖のあまり、ある戦士は組み付かれる前に自ら命を絶つことを選んでいた。


 だがしばらくすると、その悲鳴も聞こえなくなった。殺すべき相手がいなくなったのだろう。怨霊たちの姿も見られなくなった。が、廃墟の中からは今も人の気配が感じられた。結界を得意とする戦士長が潜んでいるのかもしれない。アリエルとシェンメイは慎重に廃墟に近づいていく。

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