第287話 68〈聖女の干し首〉


 燭台の薄暗い光がぼんやりと周囲を照らしている。戦士長の天幕は広く、いくつかの木箱が無造作に積み上げられている。それぞれの木箱には食糧や日用品が詰め込まれているようだった。カビの生えた餅の塊や塩漬け肉が隙間から覗いているが、それ以外のモノは鮮度に欠け、かすかに腐臭が漂っていた。


 女性たちが横たわる干し草の寝床には毛皮が敷き詰められていたが、それは戦士長にだけ許された特権なのかもしれない。天幕の端に並べられた棚には粗末な刃物が乱雑に立てかけられている。手斧や戦闘に使える長剣の類は見当たらない。しかし蓄えられている物資の量からみても、戦士長の物置として使われていたことが分かる。


 腐敗していない食糧、それに護符や矢といった消耗品を手当たりしだい回収していく。ザザの毛皮と腕輪の〈収納空間〉には余裕があったので、砦にいる兄弟たちの助けになる物資は遠慮せずに奪っていく。シェンメイは収納できる物資の量に驚いているようだったが、彼女も使えそうな物資を探してくれた。


 水がめも見つけたが、清潔な水は呪術で確保できたので、真新しい竹水筒だけ水で満たして頂戴することにした。


 と、その時だった。アリエルの目が何か奇妙なものに引き付けられる。棚の一角に手のひらほどの大きさの〝干し首〟が置かれている。それは驚くほど丁寧に加工されていて、髪の毛も残されていた。まるで生前の姿をそのまま封じ込めたかのような頭部は、何とも言えない神聖さを漂わせている。


 アリエルはすぐにソレが何であるかを理解した。砦の古い書物で読んだことがあった。それは〈聖女の干し首〉と呼ばれるモノだ。部族の儀式で使用されるこの干し首には、強大な呪力が宿っていると伝えられている。これこそ、都市遺跡に結界を張るために使用されている道具に違いないと確信した。


 シェンメイの言葉通り、戦士長が結界を張っていたのだろう。視線を再び干し首に戻すと、その頭部が静かにアリエルを見返しているように感じられた。


 聖女の干し首は細部まで驚くほど精巧に作られていた。手のひらにすっぽりと収まる大きさでありながら、その存在感は異様に強い。まず目に入るのは、縫われた状態で閉じていた目や鼻だった。瞼は慎重に縫い合わされ、長いまつ毛は永遠の眠りと静けさを漂わせている。唇もまた同じく縫われていたが、美しさが損なわれない厳粛さが感じられた。


 その縫い目は丁寧で、製作者が敬意を持って作業したことが窺えた。干し首という不気味な存在にもかかわらず、〈聖女の干し首〉からは何とも言えない神秘的な気配が感じられた。


 とくに目を引くのは金色の長髪だった。長い時間が経過しているにもかかわらず、その髪は今も艶やかで、微かな光を浴びて輝いていた。髪質は滑らかで、どこか触れるのがはばかられるほどの神聖さが宿っている。その髪が顔の一部を覆っていて表情を隠しているが、隙間から覗く顔立ちは整っていて、かつての聖女の美しさが窺い知ることができた。


 しかし他の干し首に見られるような、萎縮による歪みは見られず、まるで生きていたときのまま干し首になったような奇妙な違和感を抱く。皮膚が乾燥せずに黒く変色せず、そのままの状態で干し首にされていたことも関係しているのかもしれない。


 紐で吊るされた干し首を手に取って観察すると、呪術器に見られるような神々の言葉や呪文の類がどこにも見当たらなかった。通常ならば、大気中から呪素じゅそを取り込むための言葉が刻まれているものだが、この干し首にはそのような言葉は一切見られない。


 むしろ、これは呪術器というより、強力な呪具の類に見える。単なる便利な道具ではなく、何かしらの儀式的意味合いをもって作られ、強力なまじないが込められているように感じられた。不気味さのなかにある美しさと、その背後に隠された力に触れると、自然と冷ややかな戦慄を覚えた。干し首が持つ力は計り知れず、慎重に扱わなければならなかった。


 アリエルは幽鬼や邪悪な存在から身を隠すことのできる角灯ランタンを所持していたが、その角灯よりも優れた能力を持っているように思えた。角灯は現在、悪意を持つ者たちから龍の幼生を隠すために拠点で使われていたが、この干し首があれば、今よりも大きな効果が期待できるかもしれない。


「結界を解除するの?」

 シェンメイが覗き込むように干し首を見つめる。


「そのつもりだ。結界がなくなれば襲撃者たちは〈古墳地帯〉の脅威に晒されることになる。そうなれば砦に攻め込む余裕なんてなくなるだろうし、その混乱に乗じて総帥を救出することもできるかもしれない」


「なら、私が結界を解いてあげる」

 青年は言われるまま、紐で吊るされた干し首を差し出す。するとシェンメイは吊るされた干し首をそっと下から支えるようにして持ち上げると、まるで壊れやすいものを扱うかのような繊細な操作で呪素を流し込んでいく。呪素が干し首に浸透していくと、聖女の象徴でもあった神聖さが失われていくのが見て取れた。


 金色に輝いていた長髪は、徐々にその輝きが失われて色褪せていく。その変化は、生命力そのものが失われていくかのように進み、黄金の髪は一瞬のうちに黒みがかった灰色に変わり果てた。そして滑らかな皮膚も腐敗が進んでいくかのように、見る見るうちに鬱血して黒ずんでいく。そして美しかった干し首は、見るに堪えない姿に変貌していった。


 するとすぐに変化があらわれた。都市遺跡の空気が一変し、まるで空間が歪むかのように不気味な瘴気が漂い始めた。首筋に感じるぞわぞわとした寒気に、アリエルは思わず背後を振り返った。


 そこには、いつの間にか幼い子どもが立っていた。しかしその子どもの姿は奇妙だった。まるで世界から色彩が奪われたかのように、子どもの身体だけが白と黒に染まっていた。


 その子どもはゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。足取りは重く、何かを引きずっているかのような動きだ。かれが口を開けると、黒々と染められた血が溢れ出し、そのまま寝床に倒れ込んだ。微かな音と共に子どもの小さな身体が寝床に沈み込む。


 その瞬間、寝床に横たわっていた女性たちが異常な動きをみせ始めた。彼女たちは激しく痙攣し、口から泡を吹き出しながら苦しげにのたうち回る。そして次々と絶命していく。その光景はあまりにも異様で、目の前で起きていることが現実とは思えないほどだった。


 突然の事態に青年は戸惑うが、そこである種の確信を得た。これは都市遺跡にかけられていた呪いが解放された結果だ。〈聖女の干し首〉が生成していた結界が、都市の呪いを封じ込めていたが、今、その結界が解かれたことで封じられていた邪悪な力が解放され、目の前で恐ろしい現象を引き起こしている。


 子どもの存在そのものが消失すると、一瞬の静寂に包まれた。しかしその静けさはすぐに邪悪な気配によって破られる。アリエルとシェンメイは身の毛がよだつ感覚に襲われ、背筋をうような冷たい恐怖に苛まれる。顔をしかめながら周囲を見回すと、すぐ近くに赤子を抱いた女性が立っているのが見えた。


 その女性もまた、身体中のあらゆる色彩を失っていた。彼女の存在自体が白と黒に染め上げられていて、生気がまったく感じられなかった。肌は透けるほどに白く、影のように存在感が薄れていた。彼女が抱く赤子もまた、その姿は異様だった。


 赤子は炎に焼かれたかのように、中途半端に炭化していて、小さな身体が縮みうずくまっていた。女性の空っぽな表情には、死の恐怖が凍りついたように刻まれている。


 彼女の衣類はほとんど剥ぎ取られていて、露わになった下半身は黒々とした血で濡れていた。その血の色は、彼女の周囲の世界と異様な対比をつくりだしていて、そこにあった激しい痛みと苦しみを強調しているようでもあった。


 アリエルには、この女性がどのような目に遭ったのかが痛いほどに伝わってきた。そしておそらく彼女は都市遺跡に巣食う亡霊であり、それも強烈な怨念を抱いたまま死んだ者の魂が形を成したものだと分かった。無念を抱えながら息絶え、今もなおその苦しみと怒りに囚われ続けていることが明らかだった。


 その女性は赤子を抱いたまま、ゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってくる。その歩みは音もなく、まるで空間を滑るかのような奇妙な動きだった。その無言の接近が恐怖を倍増させる。彼女が近づくにつれて、アリエルはまるで冷たい闇に飲み込まれるかのような感覚を抱き、彼女の存在が単なる幻影ではないことを確信する。


 彼女の足元には、どす黒い血溜まりが不気味に広がり、彼女の過去の苦しみがそのまま具現化しているかのようだった。彼女が近づくにつれて、その血がアリエルの足元にも這い寄り、逃れようのない死が押し寄せてくる。


 心臓は激しく鼓動し、足が震えた。亡霊の視線から逃れようと一歩後退しかけたその時、シェンメイがささやくような声で言った。


「動かないで」

 彼女の言葉はまるで呪縛のように響き、アリエルはその場に釘付けにされた。彼女は青年が手にしていた干し首に両手をかざすと、静かに、しかし確実に呪素を流し込んでいく。


 干し首は最初、黒く冷たい気配を放っていたが、徐々にその姿が変わり始めた。目や鼻、口を縫い閉じられたままの顔が、まるで命を取り戻すかのように柔らかさを帯び、髪の毛は金色の艶を取り戻していった。


 干し首は淡い光を放ち、その光が周囲を照らし始める。だが、その輝きは以前のものと微妙に異なっていた。どこか神聖さが欠けていて、美しさを取り戻したとはいえ、何かが足りていないように感じられた。けれどシェンメイは満足そうにうなずく。


「これで私たちの周囲にだけ結界が張られた。亡霊には私たちの姿が見えなくなったから、もう襲われることはない」


 シェンメイの言葉は正しかった。目の前の亡霊は、ふたりの存在を完全に見失ってしまう。女性は無表情のまま、赤子を抱いていたまま周囲を彷徨い始めた。


 彼女の黒々とした目は虚ろで、何かを探すかのように動いていたが、結界の内側にいるアリエルたちには気づかない。やがて亡霊は天幕を出ていく。その直後、戦士たちの悲鳴が聞こえるようになった。どうやら都市遺跡のあちこちに亡霊が出現したようだ。

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