第289話 70
アリエルたちは襲撃に警戒し、細心の注意を払いながら戦士長が潜んでいるであろう廃墟に近づく。黒く焼け焦げた石壁は朽ち果て、崩れた
緊張しているのか、シェンメイの呼吸音が耳元に聞こえてくる。暗闇は押し寄せるように重くのしかかり、必要以上に不安にさせた。
突然、耳をつんざくような悲鳴が暗闇の中から響き渡ったかと思うと、暗がりから女性の泣き声が聞こえてきた。か細く、悲痛な声は、まるで魂が引き裂かれるかのような悲しみを与える。廃墟に巣食う怨霊の所為なのか、それともこの地で命を散らした亡霊が悲しみを訴えているのだろうか。
アリエルはシェンメイの顔を見つめたあと、
「泣き声が聞こえるか?」
彼女は戸惑いの表情を浮かべながら眉を寄せたあと、すぐに周囲を見回した。けれど何も聞こえないのか、無言で頭を横に振る。その反応がさらに不安を募らせ、アリエルは自分自身の耳を疑う。幻聴なのか、それとも何かが本当に潜んでいるのか。疑念が胸に広がっていくが、すぐにそれを振り払い、冷静さを取り戻そうとする。
ふと泣き声がピタリと途切れる。まるで気づかれたことを悟ったかのように、恐ろしげな気配は完全に消え去ってしまう。耳をすませても、もはや何も聞こえてこない。
静寂が戻ると、耳に届くのは自分の鼓動だけだった。もはや遠くから聞こえていた戦士たちの悲鳴も聞こえない。本当に幻聴だったのかもしれない、と青年は思う。けれどこの呪われた都市にいる限り、何が現実で何が幻なのか、もはや区別するのは難しい。
冷や汗が背中を伝うなか、青年は深呼吸して気を取り直すと、ふたたび足を進めた。廃墟が目の前に迫り、その陰影がさらに不気味さを増していく。倒壊した石柱と崩れかけた石門の下を通り抜け、戦士長が潜む場所に近づく。
そのときだった。廃墟の暗がりから戦士長がゆっくりと姿をあらわした。かれは筋骨隆々の大男で、何か異様な呪力を身に纏っていた。厚い筋肉が浮き出た身体は鉄のように鍛えられていて、全身が野生的な力に満ちている。その肌は太陽に何年も晒されたことで赤茶色に焼けていて、肉食動物の毛皮を纏ったその姿は典型的な蛮族の戦士だった。
しかし戦士長の腰には干からびた人間の手首が無数に吊るされていた。腐敗臭が微かに漂う手首は、すでに皮膚が黒ずんでいて骨ばっている。その奇妙な遺物は、彼がただの戦士ではないことを示していた。おそらく手首は呪術の触媒として利用されているのだろう。
戦士長はアリエルたちを睨みつける。その視線は獲物を捉えた猛獣のようだった。
「どうした?」彼は低い声で言った。「門を修復する建設隊は派遣したのか?」
アリエルたちのことを、自らの部隊の一員だと勘違いしているようだった。その無骨な顔に不満げな表情を浮かべ、目の前に立つふたりをまじまじと見つめる。まずシェンメイに視線を送り、じっくり観察したあと、ゆっくりとアリエルに視線を移す。
「辺境の赤い魔女と、黒衣の戦士……首長の飼い犬か」戦士長の声には侮蔑が混じり、その唇がわずかに歪む。「奇妙な組み合わせだな。貴様ら、どこの部隊だ?」
たしかに首長の飼い犬だったのかもしれない、とアリエルは思った。首長の命令で汚い仕事をこなしてきたのは事実だ。だが、戦士長がこちらを暗部の関係者だとすぐに決めつけたのは、彼自身が暗部と深い関わりを持っていたからに違いなかった。であるなら、首長に近い人間だ。
アリエルが口を開きかけたとき、戦士長は遮るように言った。
「そうか、この騒ぎを起こしたのは貴様らだな」
彼の視線は、アリエルの腰に吊るされた〈聖女の干し首〉に鋭く注がれていた。
「馬鹿な野郎だ。苦労して聖女の力を封じてきたっていうのに、考えなしに封印を解きやがって」
戦士長の言葉には苛立ちと軽蔑が含まれていた。彼が口にした「封印」という言葉には、干し首の力を抑えるために何らかの儀式が行われてきたことを示唆しているようでもあった。どうやら戦士長は、その干し首に込められた力について何か知っているようだ。
「この首のおかげで――」と、アリエルが冷静に言い放つ。
「お前たちの陣地を潰して、襲撃の計画を台無しにすることができた」
戦士長は鼻で笑ったあと、肩をすくめてみせた。
「そうか……貴様は守人だったのか」
そして芝居がかった仕草で笑ってみせた。
「俺が怨霊のことを気にするとでも思っているのか? あんなもの怖くもなんともない」
その言葉には一切の迷いがなかった。どうやら戦士長は身を守る結界を張ることができるようだ。そしてその能力で怨霊の襲撃を防いでいるのだろう。
「俺が気にしているのは、その首の呪いだよ」戦士長は低く不気味な声で続ける。「あの女の声が聞こえないのか、今にも彼女はお前を殺しに来るぞ」
「なにを言っているんだ?」アリエルは困惑し、そう問い返した。ふたたびあの奇妙な泣き声が耳に聞こえてきたのは、ちょうどそのときだった。今度はさらに近く、まるで背後に立つかのように、恐ろしいまでの現実感を伴っていた。
戦士長は目を細め、目に見えないモノを見ているかのように視線を動かす。
「聞こえているんだな。あの女が、お前を殺しにきたんだ。首を持ち歩くお前を生かしておくわけがない。綺麗な泣き声だろう、俺はもう聞き飽きたがな」
泣き声が徐々に大きく、切迫感を増して聞こえてくる。怨霊の呪いなのか、あるいは封印されていた何かが目覚めたのか、アリエルの胸には冷たい恐怖が広がっていく。戦士長の言葉が脳裏を支配し、どうするべきかを判断する余裕すら奪っていく。
「聖女だがなんだか知らないが、そいつは部族のために生け贄にされた哀れな女の首でしかない。だが、その哀れな女は神に身を捧げることで強大な力を手にした。もはや干からびた首でしかないが、その怨念は健在だ。さぁ、来るぞ、今にも貴様を殺しに来るぞ!」
なるほど。大いなる力には、それ相応の代償が伴うようだ。戦士長の言葉がアリエルの心に冷たい恐怖を植え付けた瞬間だった。背筋に悪寒が走るのを感じると、暗がりから何かが恐ろしい速度で飛び出してきた。黒い影、それは豹人の傭兵だった。彼の動きは驚くほど素早く、鋭い眼光は獲物を狙う捕食者そのものだった。
アリエルはほぼ無意識のうちに後方に飛び退いたが、すでに太刀の切っ先が眼前に迫っていた。篝火の光を反射する刃が見えると、咄嗟に腕を持ち上げて顔を庇う。つぎの瞬間、金属が激しくぶつかり合う音が響き、前腕に凄まじい衝撃が走った。
幸運にも籠手のおかげで致命傷を避け、腕が切断されることも防げたが、太刀による強力な一撃に思わず後退る。
豹人の傭兵はその隙を逃すことなく、ふたたび攻撃を仕掛けてきた。アリエルは即座に反撃の態勢を整え、それまで準備していた
しかし豹人は奇襲に驚きながらも、人間離れした反射神経と並外れた運動能力で次々と杭を
わずかな隙もなく、猛獣がその鋭い爪で獲物を引き裂くように、豹人は勢いよく太刀を振り下ろす。豹人の獣めいた冷酷な表情と、迫りくる死がその場の空気を支配し、時間が止まったかのような緊迫した瞬間が訪れた。
その一瞬の静寂を破るかのように、シェンメイが放った赤い
豹人は踏ん張りがきかず、よろめいて足踏みをする。肩に食い込んだ赤い氷柱が彼の動きを阻んでいた。そのわずかな隙をアリエルは見逃さなかった。瞬時に動き出し、ザザの毛皮の〈収納空間〉から両刃の斧を取り出すと、間髪を入れずに振り抜いた。重い刃が空を切り裂き、豹人に迫る。
傭兵は斧の一撃を避けようとしたが、あらたに放たれた血の氷柱が太腿に突き刺さって動きが鈍る。その直後、斧は彼の横腹を薙ぎ、鋭い痛みに反応する間もなく切り裂いてみせた。腹部からは内臓が飛び出し、血液が溢れ出た。痛みに顔をしかめると、豹人は思わず膝をついた。
アリエルは
「所詮、はぐれ者の毛玉野郎だったか……」
戦士長は舌打ちをすると、腰に吊るしていた手首にそっと手を添えた。
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