第290話 71〈愚者の手首〉


 戦士長は眼孔鋭く睨みを利かせながら、腰に吊るしていた〝干からびた手首〟を、乱暴に紐から引き千切るようにして手に取った。彼の唇が微かに動き、小声で呪文を唱えると、周囲の空気がひりつくように変わるのが分かった。その言葉のひとつひとつに、恐ろしげで不気味な響きが宿っているように感じられた。


 その不吉な呪文が唱えられていくにつれて、邪悪な瘴気を含んだ呪素(じゅそ)が手首に込められていくのが分かった。その力は尋常ではなく、膨大な呪力を必要とするため負担が大きいのか、戦士長の額にじわりと汗が滲むのが見て取れた。


 やがて戦士長は無雑作にその手首を地面に向かって投げつけた。ソレは泥濘(ぬかるみ)のなかで転がったあと、骨ばった五本の指を使い、まるで自我を持つかのようにスクっと立ち上がってみせた。その異様な光景に、周囲の空気が一層重苦しくなる。その赤墨色の手首は、地面を這(は)うようにして豹人の死骸にカタカタと近づいていく。


 豹人の頭頂部は斧の一撃で砕かれ陥没していたが、その惨たらしい傷口に手首が張り付くのが見えた。手首が黒く乾燥した切断面を傷口に押し当てると、腐敗しきっていた肉と骨がまるで生き物のように蠢(うごめ)き、鮮血が滴る傷口にじわじわと癒着し、そして完全に結合していく様子が見えた。


 間を置かず、絶命していたはずの豹人がゆっくりと立ち上がるのが見えた。頭部は粉砕されたままで、肩や太腿からは血液が流れ出ていたが、もはや痛みすら感じていないのかもしれない。そしてその姿は、決して生者のものではなかった。豹人の頭頂部からは、あの〝干からびた手首〟が突き出ていて、五本の指を動かしているのが見えた。


 陥没した頭頂部からは血液と脳漿が滴り落ち、灰色の体毛を汚していた。豹人の眼は虚ろで、何か邪悪な力によって操られているかのようだった。


 戦士長に視線を向けると、その表情に不気味な満足感と自信が浮かんでいるのが見えた。彼が使った術は、明らかに禁じられた死霊術――死者を操る力であった。彼はその強大な力を制御する術を心得ていたが、その代償として膨大な呪素を消費したようだった。


 アリエルの視線に気がついたのか、戦士長は冷酷な笑みを浮かべ、死してもなお立ち上がった豹人に指示を出すかのように腕を持ち上げる。禁忌の術によって蘇った豹人は、忠実な下僕のように主の命令に従い、頭頂部に張り付いた不気味な手首を揺らしながら近づいてくる。


 黒く変色した眼が見えたかと思うと、豹人は無表情のままアリエルに向かって突進する。その動きはぎこちなく、生命を失ったことにすら気づいていないかのようだった。


 アリエルは身体の内側で疼く奇妙な力に冷や汗を感じながら、両刃の斧をしっかりと構えた。死した豹人を動かしている邪悪な力に、アリエルの血が反応しているのかもしれない。だが考えている余裕はない。青年は、これまでも幾度も敵の血を吸わせてきた斧を握りしめながら死人と対峙する。それは経験したことのない異様な恐怖を感じさせた。


 そこに氷柱(つらら)めいた血の結晶が勢いよく飛んでいくのが見えた。シェンメイが身体に付着していた残りの血液を使い、空中に形成していた血の結晶を撃ち込んだのだろう。その狙いは正確無比で、鋭い風切り音を立てながら豹人に直撃すると、かれが身にまとっていた革鎧を貫通して胸部に深々と食い込むのが見えた。


 しかし豹人は胸を貫かれたことに気づいていないのか、立ち止まることなく青年に向かって駆ける。やはり痛覚は存在しないのだろう。もしかしたら、幽鬼や骸骨兵に近い存在なのかもしれない。


「それなら」

 アリエルは〈浄化の護符〉を使い、両刃の斧に〝祓い〟の呪術効果を付与すると、両足に力を込めて前方に踏み込んだ。相手が死人であることは明らかだったが、恐怖に飲まれるわけにはいかない。戦場では一瞬のためらいが命取りとなる。彼は全身の筋肉を使い、重たい斧を力の限り振り下ろした。


 狙いは頭部だった。首を切り落とせば、この異様な存在を完全に葬ることができるかもしれない。だが、豹人はその動きを察知したかのように、咄嗟に腕を前に突き出して攻撃を防ごうとする。重い刃は獣めいた強靭な筋肉に包まれた太い腕に深々と食い込み、肉を切り裂きながら骨に直撃し、その勢いのままに豹人の腕を切断してみせた。


 黒く変色した血液が飛び散ると、それは腐敗した臭気を放ちながら地面に滴り落ちた。鼻を突く腐臭が辺りに漂い、吐き気を催すほどだった。切り落とされた腕からは、ドロッとした血液が溢れ出していて、それは腐った泥水のような粘り気を帯びていた。


 豹人の身体から溢れ出すこの忌まわしい液体は、死者を蘇らせたあの奇妙な手首に由来するモノなのだろう。


 だが、それでも豹人は倒れなかった。片腕を失ったにも拘(かか)わらず、その異様な眼はアリエルを真直ぐ捉え、歪んだ口元から低い唸り声が漏れていた。豹人の身体は操り人形のように、ぎくしゃくとした動きで前進し続ける。


 青年は後方に飛び退くと、腰を落として死人の攻撃に備えた。敵が完全に倒れるまで、決して気を緩めてはならない。あらためて斧を握り直し、迫りくる豹人を睨みつけた。どうやら〈浄化の護符〉には効果がなかったようだ。やはり死体を動かしている手首を切り離さなければいけないのかもしれない。


「それとも――」

 アリエルは豹人の背後に立っている戦士長に視線を向ける。あの忌まわしい死霊術を操る戦士長を殺すことが、この場での最良の手段かもしれない。死せる者がどれほど強力であろうとも、それを操る戦士長を討ち取れば、この異常な戦いを終わらせることができるはずだ。


 そこで戦士長の手に握られているモノが目についた。それは別の〝干からびた手首〟だった。戦士長は絶対的な自信があるのか、その表情には余裕があり、呪文を唱える口元には薄笑いが浮かんでいる。


 すると、先ほどのものとは比べ物にならないほどの瘴気と呪素が立ち込めていくのが分かった。瘴気は周囲の空気を重くし、その濃密な呪素の波動は遠くからでも感じ取れるほどだった。


「また死体を操ろうとしてるんだ」シェンメイが忌々しそうに言う。


 戦士長の意図は明白だ。彼は手首を使い別の死体を操ろうとしている。不運なことに、怨霊の襲撃によって廃墟に埋もれた都市には〝新鮮な死体〟がいくらでも転がっていた。血まみれの戦士たち、目を見開いたまま息絶えた者たち――それらの死体が、あの忌まわしい手首によって立ち上がり、この戦いに新たな恐怖を撒き散らすことになる。


 戦士長が握るその手首には、ただならぬ呪力が込められていくのが分かった。悪夢のように邪悪な気配に満ちた瘴気が周囲の空間を歪ませ、荒廃した都市の空気をさらに不気味なものに変えていく。戦士長がこのまま死者を蘇らせていけば、今度こそアリエルたちは窮地に立たされるかもしれない。


 アリエルは心の中に渦巻く嫌な考えを振り払う。恐怖に呑まれてはいけない――それが何よりも危険だ。恐怖こそが、目の前の敵よりも遥かに手強い相手なのだ。そう自分に言い聞かせると、青年は深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出した。心を落ち着かせ、冷静さを取り戻す。今は恐怖に囚われている暇などない。


 気を取り直すと、突進してくる豹人の無機質な黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。死人は意思を持たない人形のように、考えなしに組み付こうとする。生前の俊敏さは失われているものの、膂力(りょりょく)は健在で、依然として脅威だった。


 しかしアリエルは冷静だった。一旦後方に飛び退いて攻撃を避けると、素早く前に踏み込みながら豹人の懐に飛び込む。そしてくるりと身体を回転させると、斧の重さと回転による遠心力を活かしながら全力で斧を振り下ろした。目標は奇妙な指が動いている頭頂部――あの忌まわしい手首だった。


 鋼の刃は豹人の頭蓋に深々と食い込み、手首もろとも縦に引き裂いていく。黒い体液が噴き出し、腐臭が一層濃くなる。それは生き物の血液とは思えない異様な色と臭いを放っていた。


 すぐに斧を引き抜こうとするが、何かに引っかかっていて抜けない。鈍い刃が骨に引っかかっているのだろうか。すぐに斧を諦めると、豹人を蹴り飛ばしながら距離を取る。その前蹴りで死人は大きく仰け反り、そのまま仰向けに倒れた。アリエルすかさずザザの毛皮から別の手斧を取り出す。


 そして倒れた豹人を見下ろしたあと、頭部から不気味に伸びていた手首に斧を叩きつけた。手首がグシャリと潰れると、死人は今度こそ完全に動かなくなった。黒い体液がじわりと泥濘の中に広がり、腐敗した臭いがさらにきつくなる。


「危ない!」

 シェンメイの声が鋭く響いて青年の耳に届いた。


 その声には切迫した緊張感が含まれていて、アリエルの身体は無意識のうちに反応する。振り返ると、暗がりに弓を構えた死人が立っているのが見えた。その黒く変色した瞳には恐ろしい殺意が宿っていた。


 アリエルは反射的に地面を蹴り、近くに立て掛けられていた置楯に向かって飛び込んだ。その直後、空気を切り裂くような鋭い音と共に矢が放たれる。置楯の陰に身を隠すと、乾いた衝撃音が聞こえた。矢が硬い木材の表面に突き刺さった音だ。深々と食い込んだ鏃(やじり)の先端が見えていた。楯がなければ致命傷になっていたかもしれない


 安心する間もなく、次々と矢が撃ち込まれていく。シェンメイも標的にされていたが、彼女も置楯の陰に身を隠していた。そこにあの泣き声が聞こえてくる。聖女の呪いとやらも、まだ続いているようだ。



〈愚者の手首〉

 古の呪術師たちの手首として知られた邪悪な呪物であり、その外見は赤墨色に染まった干からびた手首とされている。微かな腐敗臭を放ち、近くにいる者に不吉な気配を感じさせる。この手首は死者に寄生し、ソレを蘇らせる恐ろしい力を持つと伝えられていた。


 その歴史は古く、かつて部族から追放された忌まわしい死霊術の組織に由来する遺物だとされている。〈落日の呪術師・灰被りのトゥダイン〉が率いた死霊術師の組織は、死者を操り、混沌の力を引き出す邪悪な儀式を行っていたため神々の怒りに触れてしまったという。最終的に〈神々の血を受け継ぐ子供たち〉により、組織に所属していた死霊術師たちは虐殺されたと伝えられている。


 彼らの遺体は、名も忘れられた〈忌まわしき墓所〉に埋葬されたが、二度と死体に触れられないように、手首だけが遺体から切断された。それは別の場所に埋葬されることになっていたが、何者かに持ち去られ、いつしか闇市で取り引きされるようになったという。死を司る神々の悪戯か、それとも密教の信者による犯行なのか、それは誰にも分からない。


 手首は血のように濃い赤墨色に染まっていて、その乾燥した肌には古代の呪文が刻まれている。微かな腐敗臭が漂い、手首がかつて生者のものであることを思い出させる。あるいは、死霊術の邪悪な力の名残なのかもしれない。


 手首は死体に寄生し、魂亡き身体を蘇らせる力を持っていると信じられている。蘇った死者は術者と手首の支配下におかれ、意思を失い、ただ呪術師の命令に従う人形に変わり果てる。


 呪物としても危険な代物で、手首に触れた者はトゥダインの思考に囚われ発狂することになる。その者の精神は徐々に侵され、やがて手首の力に屈服し、死者の仲間入りをする運命にあるとも。


 手首にまつわる伝承として、〈落日の呪術師・灰被りのトゥダイン〉が神々と対峙したさいに〈死と復讐を司る神・ムルシリ〉に捕らえられ、永遠に苦しみ続けるように、その魂は引き裂かれ、無数の手首に封じ込められたという。この呪いは、トゥダインの復讐心が消えるまで解けることはないとされていた。


 呪われた手首は貴重な遺物だったが、死霊術を研究する機関が度々手放してしまうため、現在でも価値を知らない者たちによって市場で取り引きされている。

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