第291話 72


 廃墟が連なる暗がりに目を凝らしても人影は見えず、あの不気味な泣き声だけが耳元に響いてきていた。どうやら聖女の呪いとやらが進行しているようだ。徐々に近づいてきている泣き声と、忌まわしい気配に思わず背筋に冷たいものが走る。


 そこに鋭い音が聞こえたかと思うと、すぐ近くに立て掛けてあった置楯に矢が突き刺さる鈍い音が聞こえた。弓を手にしていた死人を処理する必要があったが、弱くなっていた矢避けの効果を高めるため、数枚の〈矢避けの護符〉を取り出し、胸元にしっかりと押し当てながら使用する。


 質の悪い薄茶色のふだが燃え尽きて灰に変わると、ほんのわずかな安心感を得るが、襲撃者たちから入手していた護符だったので、矢避けの効果を過信しないほうがいいだろう。いずれにせよ、効果がなくなる前に射手に対処しなければいけない。


 ちらりとシェンメイの方を見やると、彼女も置楯の陰から飛び出す準備をしているのが見えた。彼女の鋭い視線がこちらに向けられると、ふたりは目を合わせて無言で意思を確認する。


 そして互いに目配せを交わし、息を合わせて一気に飛び出す。すでにアリエルの標的は決まっていた。手斧を振りかざすと、弓を構えていた死人の頭部に向かって投げつけた。


 ほぼ同時に放たれた矢の軌道はそらされるが、手斧は空を切る音を立てながら飛び、死人の頭蓋に鋭く突き刺さる。生気のない目は大きく見開かれ、射手の身体はその場でぐらりと揺れて片膝をついた。しかし、あの〝干からびた手首〟は死人の頭部ではなく、大きく裂けた腹部に張りついていた。


 だからなのだろう、射手は頭部に手斧が突き刺さったまま立ち上がる。まるで操り人形のようにぎこちない動きだが、その不気味さに背筋に冷たいものが走る。


 そこにシェンメイが〈土槍〉を撃ち込むのが見えた。鋭い岩の塊は真直ぐ死人の腹部に突き刺さり、あの忌まわしい手首ごと身体を貫くのが見えた。腹部からは大量の黒い体液が噴き出し、吐き気を催す腐臭が立ち込める。死人の動きは急に止まり、そのまま力なく崩れる。


 干からびた手首が破壊されたことで、戦士長との間に形成されていた呪素じゅそのつながりも断たれたのだろう。あわれな戦士はその場に倒れ、その身体は二度と起き上がらなかった。


 けれど勝利の余韻に浸っている余裕はなかった。瘴気に満ちた呪素の気配に、ゾクリと首筋に鳥肌が立つ。アリエルが背後を振り返ると、戦士長の術によって蘇った数人の戦士が迫ってくるのが見えた。死人の黒い瞳は虚ろながらも、生者の気配を感じ取っているのか鋭い殺意を漂わせていた。


 すると、シェンメイが豹人の死体に突き立てられていた両刃の斧を引き抜くのが見えた。その刃からは黒く染まった体液が糸を引きながら滴り、篝火の光を反射して不気味な輝きを放っていた。彼女はその重たい戦斧を軽々と構え、迫りくる戦士と対峙した。身体強化の呪術を使っているのだろう、斧の重さをものともせず、しっかりと構えてみせた。


「あの忌々しい死人の相手は私にまかせて」

 シェンメイの言葉にアリエルはうなずくと、ザザの毛皮から鋸歯状の刀身を持つ剣を取り出す。その剣は見た目からして異様で、邪悪な意志が宿っているようでもあった。青年は長剣の柄を握りしめると、呼吸を整えながら呪素を流し込んでいく。


 すると鋸歯状の刃から薄っすらと赤黒い瘴気が立ち昇り、まるで生きているかのように――あるいは、血を求めるかのように手の中で震えるのを感じた。刃は微かに振動し、鋭く高い金属音で大気を震わせる。


 アリエルと対峙していた戦士長は、しかしその光景を見ても冷静さを崩さなかった。邪悪な気配に慣れているのか、それとも恐怖を感じないほど頭がイカれているのか、それは分からなかったが、つねに気味の悪い薄笑いを浮かべていた。


 けれど戦士長の額には汗が滲み、息遣いがやや荒い。死人を蘇らせる忌まわしい術の影響で体力と精神力を消耗しているのは明らかだった。それでも傲慢な戦士長は、まだ守人と戦えると本気で信じているのだろう。彼は人を小馬鹿にするような、厭らしい顔つきでアリエルを睨みつける。


「たしかに嫌な野郎だ……」

 アリエルはシェンメイの言葉を思い出しながら鼻を鳴らすと、戦士長に向かって駆けていく。その瞬間、戦場の空気が一変するのが分かった。シェンメイと戦う死人の呻き声や、遠くの廃墟から響く奇妙な泣き声は聞こえなくなり、極限まで高められた集中力は戦士長との一騎打ちに集約され、世界がその瞬間に向かって収束していく感覚に囚われる。


 そのときだった。戦士長の口元が動いて、ささやくような声で呪文が唱えられているのが分かった。アリエルは呪素に反応して顔をしかめる。最後まで呪文を唱えさせるつもりはなかった。一気に間合いを詰めて剣を振り下ろす。鋸歯状の刃は空気を裂き、邪悪な瘴気を放ちながら戦士長に迫る。


 あと少しで戦士長に刃がとどくかと思われたその瞬間、アリエルの足元に異変が起きた。泥濘ぬかるみの中に足首まで深く埋まったかと思うと、瞬時に周囲の泥が固まって足が抜けなくなる。無理に引き抜こうと力を入れるが、まるで鉄の枷に拘束されたかのように身動きが取れなくなる。


 一瞬だけだったが、アリエルは無防備な状態になってしまう。そして戦士長がその隙を見逃すはずがなかった。彼は準備していた呪力を解き放つと、呪術によって身体能力を一気に強化する。全身の筋肉が盛り上がり、皮膚を通して強靭な筋肉の動きが見えた。全身に力がみなぎり、かれの身体は一瞬でひと回りほど大きくなる。


 つぎの瞬間、戦士長は地面を強く蹴り、一気にアリエルとの間合いを詰めた。目にもとまらぬ速度で前に踏み込んだあと、その手のひらを突き上げるようにして青年の顎を狙った掌底打ちを繰り出す。戦士長の動きは極めて速く、アリエルに攻撃を防ぐ術はなかった。


 その掌底打ちは、手のひらの手首に近い肉厚の部分で打ち込まれるため、単純な打撃でありながら衝撃力は凄まじかった。打ち込まれる箇所によっては、拳そのもので殴りつけるよりも威力が出る打撃でもあった。


 その掌底が顎に直撃すると、アリエルは雷に打たれたかのように全身が痺れ、足元を拘束していた泥ごと後方に吹き飛ばされた。衝撃は凄まじく、身体が宙を舞い、意識が一瞬途切れるほどだった。


 つぎに気がついたとき、アリエルは仰向けに倒れていた。廃墟から突き出る樹木の枝が視界に広がり、篝火によって浮かび上がる枝の影が踊るように揺れ動いているのが見えた。けれどそれは、ぐるぐると回っていた視界の所為せいなのだろう。


 激しい痛みが走り、目を閉じても身体が揺れているような感覚に襲われる。シェンメイが戦う音が聞こえてくるが、どこか遠くの世界から聞こえてくるような、まるで現実感のない音だった。このまま何もせずに横たわっていたい気持ちになるが、まだ戦いは終わっていない。すぐに立ち上がらなければならないと、青年は何度も自分に言い聞かせる。


 意識がハッキリしてくると、全身に痛みが押し寄せてくる。とくに顎のあたりが焼けるように痛んだ。喉の奥からこみ上げるものを堪えきれず、無意識に身体を横に向ける。直後、血液と一緒に胃の中のモノを吐き出す。顎の骨が砕けたのかもしれない。強烈な打撃を受けた箇所に触れると、激痛が全身に走り、目の前がパチパチと白くなる。


 朦朧もうろうとした意識のなか、アリエルは〈治癒の護符〉を取り出すと、震える手でそれを顎にそっと押し当てた。護符から微かな光が漏れると、心地よい感覚が広がっていく。少しでも痛みが和らぐよう、治癒の力を引き出そうと集中したが、嗜虐的しぎゃくてきな傾向がある戦士長がそんな時間を与えてくれるはずがない。


 顔をあげると、戦士長が真直ぐ歩いてくるのが見えた。肥大化した筋肉が彼の身体を包み込み、その姿はもはや土鬼どきのようでもあった。


 強靭な脚で一歩ごとに地面を踏みしめ、顔には冷酷な表情を浮かべ、他者に対する感情の欠片も感じられない。そこにはただ、つぎの攻撃で確実に標的を仕留めようとする殺意だけが浮かんでいる。


 護符の力によって徐々に痛みが和らぎ、ようやく顎の骨が少しずつ再生していくのを感じた。顎を安定させるために、素早く首巻を口元に巻き付けて固定する。そのさい、あまりの痛みに気を失いそうになるが、なんとか堪えながら立ち上がる。


 そこでふと剣を失くしていたことに気がつく。戦士長の一撃で吹き飛ばされたさい、剣が手元から離れてしまっていたのだろう。焦りから目を泳がせると、視界の端に赤黒い瘴気を放つ剣が転がっているのが見えた。すると戦士長もアリエルの目線を追い、すぐ近くに剣が転がっているのを見つけ、ニヤリと厭らしい笑みを浮かべた。

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