第292話 73


 足元に転がる長剣を見つけると、戦士長は迷わずそれを手に取った。アリエルの剣を手にした彼の表情には、この戦いにおける圧倒的な優位性を示すような、どこか自信に満ちた笑みが浮かぶ。しかし残念なことに、その表情は長続きしなかった。


 鋸歯状の刀身が震え甲高い金属音を響かせたかと思うと、赤黒い瘴気が立ち込めて刃を包み込んでいくのが見えた。つぎの瞬間、牙を思わせる無数の鋭い骨が〝剣の柄〟から飛び出すのが見えた。その鋭利な牙は戦士長の手に突き刺さり、深く食い込んでいく。彼は痛みに顔を歪め、すぐに剣を手放そうとするが牙はさらに深く食い込でいく。


「クソっ」

 戦士長は呻き声を上げ、もう片方の手で剣を引き剥がそうと試みた。そこで別の変化が生じる。剣の柄から気色悪い触手が――まるで菌糸のように伸び、生物のようにうごめくのが見えた。その血管めいた触手は戦士長の腕に容赦なく絡みついていく。ヌメヌメとした湿り気を帯びた触手は体内に侵入しようとしているのか、彼の腕を傷つけていく。


「なんだ、これは一体なんなんだ!」

 戦士長の声には痛みと恐怖が入り混じっていた。その間にも、彼の腕に絡みついた触手はどんどん増殖し、彼の腕を包み込んでいくかのように伸びていく。赤黒い刀身を持つ長剣は意思を持っているかのように戦士長を拒絶し、無遠慮に触れた者を傷つけようとしていた。


 ――混沌の瘴気を帯びた長剣は、最早ただの武器ではなかった。〈災いの獣〉との戦いで禍々しい体液を浴びたことで変質していたソレは、今や獣の力の一端を宿したアリエルでなければ扱えない代物と化していた。混沌そのものと混ざり合い変質した金属は、邪悪な意思を宿し、自ら使い手を選別していた。


 そうとは知らず、禍々しい長剣を手にした戦士長の顔は青ざめ、苦痛に歪んでいた。腕から流れ出る血が触手に吸い込まれていくかのように消えていき、触手がさらに勢いを増して絡みつく。彼は必死に抵抗するが、恐怖と痛みに圧倒され、しだいに抵抗する力そのものを失っていく。あるいは、自らの傲慢さの代償を払っていたのかもしれない。


 アリエルは戦士長が狼狽している瞬間を見逃さなかった。彼の苦痛に満ちた表情を見た途端、青年は一瞬の迷いを見せることなく駆け出した。砕かれた顎は焼けつくような熱を帯び、激しい痛みに気が狂いそうになる。けれどアリエルは痛みを気にも留めず、無我夢中で戦士長に向かって突進した。


 そしてザザの毛皮から〈蛇刀〉を取り出す。蛇のようにうねる黒い刀身を持つ短刀は、手の中で冷たく、確かな重みを感じさせた。戦士長は未だ禍々しい剣に囚われ、触手から逃れようとしてもがいていた。アリエルはその隙を一瞬たりとも無駄にしなかった。


 激痛に顔を歪めながらも地を蹴り、戦士長の脇腹に〈蛇刀〉を突き刺した。その一撃は、まるで凍てつく荒野に吹き荒ぶ風のように冷たく、正確に彼の脇腹を貫いた。


 戦士長は鋭い痛みと、身が凍えるような寒さが全身に広がっていくのを感じた。その冷たさのなかに、彼は微かな異変を感じ取る。身体の内側から呪力が吸い取られていく。体内に流れていた呪素じゅそが、まるで大地に零れる水滴のように消えていくのが分かる。


「まさか、俺の力を奪っているのか……?」

 脇腹に突き刺さった黒い刀身を見た瞬間、戦士長は呪素が奪われていることを確信した。その瞬間、かつての傲慢さや自信は跡形もなく消え失せた。代わりに全身を震わせるほどの恐怖と、どうしようもない絶望感に襲われる。彼の表情は、これまでの余裕に満ちた微笑みから、恐怖に歪んだ醜い顔に変わっていた。


「やめろ……やめろぉ! お願いだ、やめてくれ!」

 戦士長は狂ったように叫び声を上げた。その声には以前までの自信に満ちた態度は感じられなかった。彼の体内から失われる呪素は、生命そのものが削り取られるかのように彼を弱らせ、無力化していく。


 戦士長の肥大化していた筋肉は、〈蛇刀〉によって呪力を奪われた瞬間から徐々に萎えていった。見る者を圧倒していた強靭な筋肉は、今や枯れ枝のように力を失い、痩せ細っていた。気がつくと、彼の身体は二回りも小さくなっていた。


 その顔もまた、驚くほど変わり果てていた。蛮族の狂戦士を彷彿とさせる無骨で逞しい面持ちだったが、今や老人のように衰え、皺が深く刻まれた顔からは精力が失われ、ただ恐怖に見開かれた大きな目だけが印象に残った。その瞳には他者を威圧する迫力もなければ、身がすくむような冷酷さもなく、ただ死に向かう者の恐怖が映っているだけだった。


 アリエルは短刀を引き抜くさい、残った力を振り絞るようにして戦士長を蹴り飛ばした。彼は抵抗することなく泥濘ぬかるみのなかに倒れ込んだ。かつての威厳をなくし、汚泥の中で無様にのたうつ姿は、弱者を甚振いたぶっていたときの面影さえ感じさせないほど哀れなものだった。


 戦士長は地面に倒れこむさい、手にしていた長剣を取り落としていた。偶然にも石畳の上に落下した長剣は甲高い金属音を鳴らした。そこには、先ほどまでの気色悪い触手や鋭い牙は見られなかった。はじめからすべてが幻覚だったかのように、長剣は冷たい金属の塊として、静かにそこに横たわっていた。


 アリエルは痛みに耐えながら長剣を拾い上げる。砕かれた顎からは、脈打つようなズキズキとした激しい痛みが広がっていた。そのあまりの痛みに気を失いそうになる。けれど戦いの最中に倒れるわけにはいかなかった。震える手で〈治療の護符〉を取り出すと、戦士長から奪い取った呪力を注ぎ込みながら、そっと顎に押し当てた。


 市場に出回っている質の悪いふだなら、膨大な呪素に耐え切れず破れてしまうところだったが、この護符は特別だった。それは豹人の姉妹の手で丁寧につくられたものであり、呪力を最大限に引き出すために工夫されていた。その護符が呪力を帯びると、淡い光が浮かび上がり、砕かれた顎の痛みが徐々に和らぎ、青年は徐々に冷静さを取り戻していく。


 深呼吸して息を整えたあと、顎の治療が行われるのを静かに待った。砕かれた顎はしだい元の形を取り戻していく。断続的な痛みが続いていたが、最初のソレと比べれば、ずっとマシになっていた。


 それから青年は手にしていた〈蛇刀〉に視線を向ける。その刃には血の一滴も付着していなかった。血液すらも自らの力に変えたのかもしれない。青年はそっと息をつくと、短刀を〈収納空間〉に放り込んだ。その動作は淡々としていて、なんの感情も込められていないように見えた。


 長剣をしっかりと握り直すと、アリエルは泥濘に倒れ込んでいた戦士長のもとに歩み寄った。ビチャビチャと水気を含んだ足音が聞こえるたびに、戦士長の恐怖は増していった。彼は汚泥の中で必死に身体を引き摺り、なんとかして逃れようとする。彼の口からは恐怖に歪んだ情けない声が漏れ出ていたが、彼を救おうとする者はどこにもいなかった。


 その姿を見つめるアリエルの目は冷え切っていた。かつて戦士長が見せた残忍さを思い起こし、無辜むこの人々をその手にかけた男の最期が、あまりにも無様であることに彼はある種の皮肉を感じていた。戦士長に同情する理由など何処にもなかった。その感情が、アリエルの冷徹な視線からハッキリと読み取れるようでもあった。


 この男の無様な最期は、彼が自ら招いたものであり、それに相応しい結末を迎えられたのだと考えていた。青年は戦士長の背中を踏みつけるようにして押さえつけた。戦士長は苦しげに呻き声を上げ、必死にもがいて逃げようとするが、その力はすでに失われていた。


 アリエルが手にする刃は冷たく、そして邪悪な瘴気を帯びて不気味に震えていた。彼がその刃を高々と振り上げると、まるで歓喜するように甲高い金属音が鳴り響いた。


 そして何の躊躇いもなく、戦士長の首は斬り落とされた。肉が裂け、骨が切断される微かな音が夜の冷たい空気に響き渡る。戦士長の首は滑るように泥濘の中に転がり落ちた。その顔は恐怖に歪み、目は虚ろに見開かれていた。


 血液が泥に染み込むさまを、青年は無言で見下ろしていた。しかしまだ終わりではなかった。アリエルはゆっくり瞼を閉じると、自らの血に宿る力を解放し、戦士長の魂とも呼べるモノの残滓を捕えるべく、その意識を集中させた。


 忌まわしい力が青年の中で渦巻き、やがてそれは戦士長の魂を捕らえ、暗く淀んだ暗黒の世界に引きずり込んでいく。そうして戦士長は〈死者の影〉のひとりとして、冷たく暗い石棺の中で永遠に苦しむことになる。絶望的な暗闇の中で、死の間際の苦しみを何度も何度も繰り返しながら、最期の瞬間が来るのを待ち続けることになる。


 すべてが終わると、アリエルはそっと視線を伏せた。そして自分の行いを恥じているかのような暗い表情を浮かべる。そこに勝利の喜びはなく、何故あれほどまでに戦士長を苦しめることに固執していたのかも分からなかった。自分の行いは、ひょっとしたら戦士長のソレと何も変わらないのではないのだろうか。


 青年はその胸の内に後悔と、暗く淀んだ感情が満ちていくのを感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る