第279話 60


 枝葉の間から微かな月明りが射し込むなか、ふたりは暗い森を慎重に進んでいた。森は身を凍らせる冷気と静寂に包まれ、木々が揺れるたびに奇怪な影を作り出されていた。樹木の間から零れる月光は弱々しく、足元には暗黒が立ち込めていた。


 森に吹く風は冷たく、肌に触れるたびに震えるような寒気が走るのを感じた。薄霧が漂い、視界を曇らせていく。遠くからは低いうめき声や、風に揺れる木々のざわめきが聞こえてくる。これらの音は、〈獣の森〉そのものが生きているかのように感じさせた。それでも生命に満ちた森は暗い地の底よりもずっと良い場所に思えた。


 時折、聞こえるか聞こえないほどの微かなささやき声を耳にした。おそらく小妖精たちの声なのだろう。耳元で密やかに囁かれる声は、森での方向感覚を狂わせていく。優しく誘うような声に心が惑わされそうになる。けれどシェンメイは声に惑わされることなく、まっすぐ木々の間を進んでいた。彼女の足取りには何の迷いも感じられなかった。


 アリエルは襲撃者たちの足跡がないか確かめようとしたが、小雨が降っていたのか地面は泥濘に変わっていて、足跡らしきモノは消え去っていた。青年は不安を感じながら、彼女の背中を見つめていた。


 森の闇はさらに深まり、月明りもほとんど届かない場所に差し掛かる。青年は霧の向こうから聞こえてくる小妖精たちの囁き声に耳を澄ませ、彼女たちがどこに導こうとしているのかを感じ取ろうとしたが、すぐに考えを改める。そもそも、その囁き声の正体が本当に小妖精のモノなのかも分かっていなかったのだ。


 それからアリエルはシェンメイの背中を見つめながら、彼女の手足に彫りこまれていた刺青が月明りを受けて淡い輝きを放つ光景を眺めていた。その刺青から放たれる微かな光は、彼女の内に渦巻く呪力が具現化しているかのように見えた。その輝きを見つめていると、彼女に対する疑念が頭をよぎる。


 シェンメイのことを本当に信頼していいのか分からなかったのだ。彼女の態度や行動からは、裏切りの兆候は見られなかったが、総帥がいる場所に連れて行ってくれるのか確信が持てなかった。それにシェンメイに襲われたとき、彼女は「姉さんたちの恨み」と言い放ちながら攻撃してきていた。その言葉が今も耳に残っていた。


 アリエルはこれまで数々の戦闘に参加してきた。多くの敵と戦い、その過程で敵対する部族から恨まれることも少なくないと感じていた。しかし、彼女の種族に関しては具体的な記憶が思い浮かばなかった。彼女の言う〝姉さんたち〟が誰なのか、何故そんなに恨みを持っているのか、その真意が掴めずにいた。


 心の中で複雑な感情が渦巻くなか、青年はその疑念を払拭するため彼女に直接質問することにした。


「なぁ、シェンメイ。〝姉さんたちの恨み〟っていうのは、どういうことなんだ?」

 彼女は立ち止まると、振り返ってアリエルを睨みつけた。彼女の瞳に宿る怒りに呼応するように、刺青が淡い光を放ちながら明滅するのが見えた。


「本当に何もしらないのね。それとも、人を喰い物にする赤眼の吸血鬼は、他の部族に興味がない?」彼女は淡々と言ったが、その声には冷ややかな感情が――あざけりにも似た気持ちが込められていた。


「姉さんたちは長い間、他の部族によって虐げられ、命を奪われてきた。私はその恨みを晴らすためにここにいるの。正直、辺境の砦を占拠する蛮族に興味なんてなかった。でも、その蛮族の中に赤眼の化け物がいるって聞いて――」


「辺境の砦を占拠している蛮族っていうのは、俺たち守人のことか?」

 彼女は眉をよせると、不快そうな表情で言った。

「お前は他の部族のことを蛮族だとか蛮人だとか見下しているけれど、私たちからすれば、辺境に籠っている守人とかいう怪しげな組織のほうが、よっぽど野蛮な連中に見える」


 境界の守人と呼ばれていた戦士たちの名誉が失われ、とうの昔に組織としての機能が失われ、衰退の一途をたどっていたことは分かっていた。しかしまさか辺境の蛮族だとののしられていたとは思ってもみなかった。


 そのことに関して、青年は怒りにも似た感情を抱いた。今も混沌の脅威と戦い、命を危険に晒してまで森を守っていたのは自分たちだけだと自負していたし、それが正しことであり、すべての部族にとっても良いことだと信じていた。しかし実際には、守人は軽蔑され、侮蔑の対象になっていたのだ。そのことに対して言い知れない怒りを感じたのだ。


 けれど、その怒りを吐き出すように白い息をついて冷静さを取り戻した。

「それで、姉さんたちっていうのは?」


 シェンメイは殺気を含んだ視線で青年を睨みつけたが、すぐに気持ちを切り替える。

「私たちは〝邪神を崇める忌まわしい部族〟と呼ばれ、他の部族から恐れられていた。けれど多くの神々がそうであるように、私たちの神さまも悪神なんかじゃなかった。ずっと昔から人々に愛される善神だった。けれど他部族の神々が力を持つようになると、私たちの神さまは脅威と見なされ、悪神として排除の対象にされていった」


 シェンメイの言葉にアリエルは深い悲しみと怒りを感じ取った。しかし呪術師としての彼女の卓越した能力を知っているからなのか、どうして人々から迫害されたのか分かるような気がした。人々は得体の知れない存在を恐れ、排除しようとする傾向がある。それは人々から虐げられてきた過去を持つ青年にも理解できることだった。


「私たちは辺境に追いやられ、生きることさえ困難な土地で貧しく生活することを余儀なくされた。でも、だからって信仰心を失うことはできない。……だってそうでしょ、神さまに血肉を与えられた子なんだ。この魂に――血に宿る力を捨て去ることはできない」


 彼女の声には抑えきれない怒りと悲しみが含まれていた。その瞳のなかに過去の痛みと他の部族に対する恨みが見えるようだった。シェンメイの感情に反応するように、刺青が動くのが見えた。


「他の部族の戦闘に参加しているのは、部族のために資金を得ることが目的なのか?」

 アリエルの問いに彼女は深くうなずいた。


「そう、私たちは生き延びるために戦っている。でもそれだけじゃない。私は、私たちの神さまの名誉を取り戻すために戦っていた。それなのに、貴様は――!」


 ついに感情が抑えられなくなったのか、彼女の刺青から呪力が滲み出し、彼女の瞳は燃えるような憤怒で明滅していた。肌に刻まれた刺青は一層鮮やかに輝き、周囲の空気が張り詰めていく。彼女の黒髪からは無数の細い枝が伸び、赤みを帯びた葉が生えていくのが見えた。彼女は純粋な人間ではなく、人に限りなく近い種族だったようだ。


「悪いけど心当たりはないし、赤い瞳だからって俺をかたきと決めつけるのは早計だ」

「赤眼の守人はお前だけだ!」彼女の声が鋭く響き渡る。


「違う。砦はひとつだけじゃないし、守人には多くの種族が所属している。そこにはシェンメイの言う吸血鬼がいるかもしれない」


 アリエルは何とか彼女を説得しようと試みた。総帥の救出が目前に迫っている今、ここで無駄な争いを起こすわけにはいかなかった。


 彼女の怒りを鎮めるために必死に言葉を探しながら、青年の脳裏には過去の記憶がちらついていた。首長の戦に加担したとき、聖地〈霞山かすみやま〉で赤い薄布を身につけた強力な呪術師と戦った記憶があった。ラファを救出したときにも、血濡れの女性を見た気がした。しかし、ソレが彼女の言う〝姉さんたち〟と関係があるのかは分からなかった。


 彼女の怒りが限界に達しようとしていることを感じながらも、アリエルはあくまで冷静に対応しようと努めた。彼女が発する膨大な呪素じゅそが大気を震わせると、小妖精たちの囁き声がピタリと聞こえなくなる。シェンメイの呪力に怯えているのかもしれない。


「聞いてくれ、ここで戦うわけにはいかないんだ」アリエルは落ち着いた声で言う。「総帥を助け出したあと、シェンメイの仇を一緒に探すこともできる。だから感情を抑えてくれ、近くに呪術師がいれば、その膨大な呪素で俺たちの居場所が特定されるかもしれない」


「お前たちがどうなろうと、私の知ったことじゃない!」

「かもしれない。でも協力し合うことはできる。守人のことを知り尽くした総帥がいれば、シェンメイの仇を見つけることも難しくないはずだ」


 アリエルはそう口にしながら、体内の呪素を練り上げていく。いざとなれば殺してでも彼女の口を塞がなければいけない。結局のところ、青年には部族の仇なんてどうでも良かったのかもしれない。


 シェンメイは青年の言葉に反応するように眉をよせると、深呼吸しながら呪力の放出を抑え込んでいく。彼女にもアリエルが復讐の相手なのか、確信が持てなかったのかもしれない。

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