第278話 59〈赤の姉妹・シェンメイ〉


 アリエルは縄梯子の前に立つと、天井に開いた縦穴を見上げた。思った以上に高さがあり、縦穴の周囲は暗闇のなかに沈み込んでいた。


「梯子を登る準備ができたら、この手枷を外して」彼女は青年を見つめながら言う。

 アリエルは困惑した表情で彼女を見つめたが、たしかに手枷を外さなければ不安定な縄梯子を登ることはできないだろう。だが、彼女から攻撃されないという保証もないので戸惑ってしまう。


「大丈夫、お前のことはまだ殺さないって決めたんだ。だから襲ったりしないから、無駄に警戒したり怖がらなくてもいい」


 青年は不機嫌そうな表情を見せる。

「あんたほどの能力者がその気になれば、周囲に悟られることなく呪術を準備することなんて簡単にできる。だから信用できない」


 アリエルの言葉に彼女は眉をよせる。

「ならどうするの、この場所に私を置いて行くつもりなの? それとも、私を背負って梯子を登ってくれるの? ねぇ、教えてよ」


 ちらりと縦穴に視線を向けるが、縄梯子はどこまでも続いていて、簡単に地上に出られるようには見えなかった。それに、地上の出入り口がどうなっているのかも分からない状況だった。もしも襲撃者たちに待ち伏せされていたら、彼女を背負ったままでは、まともに動くこともできないだろう。


「わかった。手枷を外すよ。でも、もしも裏切ったら――」

「殺すんでしょ? 分かったから、さっさとこの手枷を外してよ」


 自分の選択が間違っていないことを信じながら、〈収納空間〉から鍵を取り出す。冷たい金属の感触と手枷から漂う嫌な気配に顔をしかめながら、錠前に鍵を差し込み、ゆっくりと回す。


 カチリと音がして手枷が外れると、彼女は解放された手首を見つめ、静かにその感触を確かめていた。指を伸ばしたり、手首を撫でたり、軽く揉んだりする。彼女の瞳には安堵と警戒心が入り乱れていた。それから彼女は体内の呪素じゅそを全身にめぐらせていく。


 青年の視線に気がつくと、彼女は不満そうに頬をふくらませる。

「身体の調子を確かめてるだけなんだから、そんな怖い目で睨まなくてもいいでしょ」


 部族の人間は――その種族にかかわらず、生まれながらにして体内に呪素を宿している。血液とともに体内で循環する呪素の量には個人差があるが、それでも誰もが大気中に漂う呪素の恩恵にあずかりながら生きている。だから呪素との繋がりを断たれることの意味を知っていたし、彼女がどれだけ不安だったのかも分かっていた。


 しかしそれでも、目の前に立っている女性が敵対的な呪術師であることに変わりなかった。彼女が体内で呪素を練り上げる行動は信頼できなかったし、信頼するつもりもなかった。青年の手は自然と腰に差した短刀の柄に伸び、いつでも攻撃できるようにそっと握り締めていた。


 その視線に気づくと、彼女は軽く肩をすくめてみせた。

「本当に私のことを信じてないのね」


 そして溜息をついたあと、そっと縄梯子に手をかける。

「私はお前の言葉を信じて、この場所まで案内した。なら、私のことも少しくらい信じてもいいんじゃない?」


 アリエルに冷ややかな一瞥をくれたあと、彼女は縄梯子を登り始めた。

「それから、私には〝シェンメイ〟って名前があるの。あんたって呼ばないで」


 青年は彼女が縄梯子を登っていくのを眺めていたが、意を決し、梯子に手をかけて登っていく。これが罠の可能性もあったが、この縦穴が地上につながっているのも確かだった。綱渡りのような状態だったが、総帥を見つけだすには、ある程度の危険を冒す必要があるのだと考えた。


 彼女の線の細い身体が縄梯子に沿ってしなやかに動き、形のいいお尻が左右に揺れるのを眺めながら登りつづけた。彼女は薄着だったので、ひどく寒そうに見えたが、ほとんど認識できないほどの薄い結界を纏っていて身体を保護しているからなのか、もう寒さに震えている様子は見られなかった。呪素の操作は達人の域に達しているのかもしれない。


「ねぇ、私のお尻を見て変なこと考えてないよね?」

 シェンメイの冷たい声が聞こえると、アリエルは「やれやれ」と溜息をつく。


「それにしても、奇妙な場所だ」青年はつぶやきながら周囲を見回す。

 地上から降りそそぐ月明りに照らされる岩肌は、淡い銀色の光を放っていて一見すると神秘的で美しかったが、その光景はどこか不自然で違和感を抱く。


 縦穴の壁は粗く削られた岩肌がむき出しになっていて、所々に発光する苔や植物が見られた。月明りに照らされていた場所は岩肌が銀色に輝いていて、微細な鉱物の結晶がきらめいているのが分かった。アリエルは周囲の様子を確認しながら、手が滑らないように慎重に揺れる縄梯子を登っていく。


 つねに濡れていてヌメリのある岩肌には、無数の昆虫が張りついていた。コオロギにも似たその小さな昆虫は、黒光りする甲殻を持ち、細長い脚を広げて岩にしがみついていた。最初は一匹、二匹と数える程度だったが、目を凝らして見ると、それが数千を優に超える数になっていることに気がついた。


 そこで違和感の正体に気がつく。昆虫たちは岩肌でうごめき、ひとつの生きた絨毯のように岩壁を覆っていた。しかし鳴き声が聞こえてこないのだ。縦穴のなかは恐ろしく静かで、つめたい風が吹き込む音だけが聞こえてきていた。青年は無意識に喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。いやな寒気が背筋を駆け抜け、額に冷たい汗が滲む。


 岩肌に張りつく昆虫からは、徐々に精神をむしばむような気配が感じられた。無言のまま登り続ける青年の心に不安と恐怖が渦巻いた。何かが彼を見つめているような錯覚に囚われ、胸の鼓動が一層早まっていくのが感じられた。何かが地中に潜んでいるのだ。守人すら知らない脅威が、すぐそこに潜んでいる。


 手を滑らせただけで深い穴の底に落下してしまうという重圧がかかるなか、青年は慎重に縄梯子を登り続けた。岩肌を見ないように意識しながらも、暗闇のなかで静止する昆虫たちの存在が脳裏から離れなかった。黒光りする群れは悪夢のように感じられた。


 呼吸が乱れ、心臓の鼓動が激しくなる。彼はただ無心で上を目指し、足元を確認しながら登り続けた。精神的な疲労と緊張が心を蝕むなか、シェンメイが立ち止まって、青年に振り返って何か言葉をかける。が、それも聞こえなかった。


 アリエルには理由が分からなかったが、夢で見た幼い子どものことが突然脳裏をよぎった。それまで夢のことなんて気にもとめていなかったのに。


 幼い子どもが蝋燭ろうそくの弱々しい光の中で話しかけてくる不思議な光景が見えたかと思うと、ふと年老いた神さまと取引をした薬師の話が頭に浮かんだ。その薬師は、多くの部族に名を知られるほど優秀な〈治療師〉だったが、自分の娘の病気だけはどうしても治すことができなかった。ある日、彼は霧深い湿原で名も忘れられた神に出会い、そこで彼は――


 突然、縄梯子が大きく揺れて現実に引き戻された。思わず手が滑り、身体が一瞬宙に浮いた。冷や汗が背中を流れる。落下しそうになったが、何とか踏みとどまれたのは訓練で鍛え上げた反射神経のおかげだったのかもしれない。しがみつくように縄梯子を引き寄せる。


「ねぇ、大丈夫なの?」

 シェンメイが上から見下ろしていた。彼女の声には苛立ちと驚きが混じっていたが、どこか心配するような響きもあった。青年は息を整えたあと「大丈夫」と声をかけた。


 アリエルは慎重に縄梯子の最後の段を登り、地上にい出た。緊張のあまり、身体が固くなっているのを感じる。茂みの中から敵が飛び出してくるのではないかという警戒心から、自然と警戒態勢に入っていた。


 白い息を吐き出し、冷たい空気を肺に入れる。地上は冷え込み、月明かりが薄らと周囲を照らしていた。青年はゆっくりと周囲を見回したが、敵の気配は感じられなかった。静寂が広がり、枝葉を揺らす風の音だけが耳に届く。


「ついて来て」シェンメイは手招きするように言った。

 月明かりのなか、彼女は足早に木々の間を進んでいく。アリエルはその後を追いながら、周囲に目を配った。どこから敵があらわれても対応できるように、警戒は怠らなかった。

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