第277話 58


「他の連中が地上に連れて行った」と、彼女は悔しそうな声で言った。

 その言葉にアリエルは眉をひそめたが、槍を突きつけたまま、一瞬の油断も許さずに動きを見守る。彼女の目には抑えきれない戦意が宿っていた。


「地上に連れて行った……?」

 やはり裏切り者たちの手引きがあったのだろう。襲撃者たちは、守人のなかでも限られた者しか知らない隠し通路を使い〈奈落の底〉に侵入していたのだろう。


「それで、お前たちはここで何をしていたんだ?」

 アリエルの問いに彼女は鼻で笑ってみせた。


「はぁ? 見れば分かるだろ。これはな、追っ手を誘い出すための罠だったんだ」彼女はあざけるように言った。「あのバカな連中が真面目に見張りに立っていれば、こんなことにはならなかった」


「俺たちを殺すために、総帥を囮に使ったのか?」

 ほとんど無意識だったが、アリエルの声には怒りが含まれていた。


「そうさ、お前たち守人を砦から引きずり出すための最高の餌だったんだ。残念なことに、まんまと引っかかった愚か者はお前ひとりだけだった」


 彼女が冷笑を浮かべると、アリエルは槍の穂先を喉元に近づけた。刃はついていなかったが、それでも突き殺すことはできた。その冷たい感触に、彼女の表情が一瞬だけ硬くなるのが見えた。


「総帥の居場所を話せ。でなければ、もっとひどいことになる」

 彼女はしばらくの間、黙ったままアリエルのことを睨みつけていたが、やがて諦めたように溜息をついた。


「ああ、分かった。話すよ。どのみち、お前たち守人は終わりだからな。ここで私に殺されなかったことを後悔するんだな」


「心配するな。俺たち守人は戦い慣れしている。この状況も切り抜けられる」

 青年の言葉に彼女は鼻で笑いながら言った。

「お前が探している男は、〈獣の森〉と古墳地帯の境目にある廃墟に連れて行かれた。そこに前哨基地があるんだ。知らなかっただろ?」


 地の底から長く尾を引く化け物の鳴き声が聞こえてきたのは、ちょうどそのときだった。濃い瘴気に反応して大気が震え、闇の中に潜む恐怖が確かな現実味を帯びて迫ってきた。アリエルはその鳴き声に一瞬背筋が凍るが、すぐに気を取り直し、目の前の女性に意識を集中させる。


「立て」

 冷たい声で命じると、彼女は憎悪に満ちた目で青年を睨み返すが、仕方なく立ち上がる。すぐに抵抗できないように背後から彼女を拘束すると、天幕のそばまで引きずるようにして連れて行く。身体にまとわりつく泥はつめたく、彼女は寒さに震えていた。


 天幕に入ると、総帥に化けていた彼女の気配を隠すために使用されていた手枷を拾い上げる。その手枷には呪力を封じ込める合金が使用されていて、触れているだけでも嫌悪感を覚える。呪力を身にまとって生まれてくる〈神々の子供〉たちを憎んでいるかのように冷たく、手にした瞬間から指先が痺れるような感覚に襲われる。


「けど他に手段はない」

 青年は自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、彼女の手首に手枷を嵌める。彼女は必死に抵抗するが、手枷が嵌ると同時に、その動きは鈍くなり、ついに腕の力が抜けてだらりと垂れ下がる。


「呪力を封じ込める手枷か……さすが人の血肉を啜って生きる化け物だな。無抵抗の人間を甚振いたぶりながら殺すのが楽しみで仕方ないんだろう。ほんとに悪趣味な吸血鬼だ」

 彼女は嘲笑混じりに言ったが、その目には不安の色が浮かんでいた。アリエルのことを恐れているのだろう。


「俺は吸血鬼でもなければ、無抵抗の人間を甚振る趣味もない。情報をき出すまで大人しくしてもらうために使っているだけだ」


 実際のところ、血の臭いに誘き寄せられた地底の化け物たちが、いつ襲い掛かってきても不思議じゃない状況だった。すぐに襲撃者たちが利用した隠し通路を見つけ出し、総帥の所在を突き止めなければいけない。


 手枷がしっかりと嵌められていることを確認すると、鍵を〈収納空間〉に放り込んで、それから彼女を連れて天幕を出た。彼女は強力な呪術師だったが、この手枷があれば攻撃される心配はないだろう。


「化け物どもの餌にはなりたくなかったら、総帥のところまで案内してくれ」

 アリエルの言葉に彼女は疑わしそうに目を細めたが、すぐに顔をそむけた。


「黙っていると、本当に地の底に置いてきぼりにする。それとも、化け物どもに生きたまま喰い殺されたいのか?」


 青年は脅すように言いながら、彼女の瞳を見つめる。緊迫した空気が流れるなか、暗闇に沈み込む断崖の底から化け物の鳴き声が聞こえてくる。野営地に近づいてきていることは明白だった。


 しばらくの間、彼女はむすっとした表情で沈黙していたが、暗闇に潜む脅威が頭をよぎると諦めたように溜息をついた。


「分かった、地上まで案内する。でも気を抜くなよ。あの化け物どもは私たちが想像するよりもずっと狡猾で残忍だ」


「俺は守人だ。そのことは誰よりも知っているつもりだ」

 手枷につながれた荒縄を手に持つと、彼女に先導させる形で歩き出した。隠し通路につながる道は、野営地のすぐ近くにある岩棚の間に隠されていた。彼女がその場所を示すと、青年は慎重に岩肌を調べ、ひとひとりがやっと通れるほどの隙間を見つける。


「ここから入るのか」

 アリエルの質問に、彼女は小さくうなずいてみせた。

「そう。とても迷いやすくなってるから、絶対に私のそばから離れないで」


 暗い横穴の先からは、絶えずつめたい風が吹き込んできていた。そこでは淡い群青色の燐光を帯びた苔が群生し、どこからともなく腐敗臭が漂ってきていた。ふたりは慎重に足を進め、通路の奥深くへと進んでいく。道は険しく、いたるところに底の見えない縦穴があった。時折、その穴の底から不気味な光が漏れ出しているのが見えた。


「ここは一体何なんだ?」

「さぁ。守人のあんたが知らないのに、私が知ってるわけないでしょ」


 彼女も〈奈落の底〉でひとりになることの意味を理解しているのだろう。青年に対して怒りや不満を抱いているようだったが、地上に出られるまでは、無駄な抵抗をするつもりはないようだった。


 ふたりは暗黒が支配する深い横穴を進んでいく。通路は複雑になり、いくつかの道に枝分かれしていくが、彼女は迷うことなく歩き続けた。時折、岩壁に手を触れ、瞼を閉じながら何かを感じ取るような仕草を見せる。呪術を使い、彼女だけに分かる道標を残したのかもしれない。そのことを質問すると、彼女は青年を小馬鹿にしたように声で言った。


「私だってバカじゃないし、あいつらのことはこれっぽっちも信用してなかった。いつでも地上に戻れるように、準備くらいしておくさ」


 実際のところ、彼女の選択は正しかったのだろう。〈奈落の底〉で気を抜いていた者たちは全滅したが、彼女だけはまだ息をしていた。


「あの連中は、あんたの仲間じゃなかったのか?」

 その質問に彼女は少し苛立ちを見せながら答えた。

「あんな野蛮な連中が仲間のわけないでしょ。それに〝あんた〟じゃない。私にも名前くらいある」


「さっきまで殺し合いをしていた人間の名前なんて知るわけがない。それとも、あんたは俺と友達にでもなるつもりなのか?」


「たしかにお前は私の友達じゃないし、仲良くなるつもりもない。というより、吸血鬼と仲良くなりたい人間なんていないんじゃない」


「アリエルだ、吸血鬼じゃない」

「ハッ、呪われた血族が〝神々の子〟の名を口にするな」


 青年は溜息をついて、それから言った。

「ここで言い争いをするつもりはない」


「気取っちゃってさ、バカみたい。なにが言い争いをするつもりがないだ。こっちはすでに殺されそうになってんだよ!」

「それはお互い様だ」


 しばらく重たい沈黙が立ち込めたが、やがて彼女は口を開いた。

「もうすぐ到着する。断崖になってるから、足元に注意して」


 やがて森の匂いを含んだ冷たい風が吹きつけるようになり、ぼんやりとした明かりに照らされた広い空間が見えてきた。天井にある縦穴から降りそそぐ柔らかな光が見えたからなのか、彼女の足取りは軽くなる。


「そこにある縄梯子を登れば地上に出られる」

 アリエルは彼女のあとを追い、目を細めながら縦穴を見上げた。月明りに照らされた穴は、深く暗い洞窟とは対照的に明るく輝いていた。その縦穴からは縄梯子が垂れ下がっていて、地上まで真っ直ぐ続いているようだった。

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