第276話 57〈罠〉


 襲撃者たちは追手が掛かることを想定し、守人を罠に嵌める用意をしてきたのだろう。そうとは知らず――あるいは想像すらしていなかったのか、アリエルは敵の罠に掛かってしまう。


 総帥の顔は、まるで蝋燭ろうそくが溶けていくように皮膚が崩れていき、その下に鮮血に濡れた若い女性の顔があらわれる。〈幻影〉の類を見せる高度な呪術を使っていたのだろう。女性の手首に嵌められていた手枷は、抵抗する能力を奪うためのモノではなく、彼女の気配を偽装するために利用されていたのだろう。


「ハッ、赤眼だ。とうとう赤眼を見つけたぞ!」

 本当の姿を見せた直後、女性は嬉々とした声を上げながら襲い掛かってきた。彼女の目には狂気の光が宿っていた。アリエルに対して何かしらの因縁を持っているようだったが、青年には見当もつかなかった。


 暗がりから鋭い刃の切っ先が近づいてくるのが見えた。その瞬間、アリエルは身を引いて紙一重のところで攻撃をかわす。小刀を隠し持っていたのだろう。彼女の動きは俊敏で、容赦がない。


 アリエルはすぐに後方に飛び退いたが、彼女は身を低くし、猛然と接近してきた。次から次に繰り出される攻撃は、すべて致命傷になりかねないものだった。青年は身体能力を強化していたおかげで、何とかその猛攻を避けることができていたが、薄暗く狭い天幕の中での戦いは圧倒的に不利だった。


 すぐに決断し天幕の外に飛び出す。地底から吹く冷たい風が肌を刺し、野営地の焚き火の明かりがぼんやりと見えるなか、血にまみれた女性が襲いかかってくる。


 そこで改めて敵の姿を確認する。彼女は若く、整った顔立ちをしていたが、その肌には辺境の部族特有の刺青が刻まれていた。透かし模様の入った赤い生地のローブを身につけていたが、それは肌が透けるほど薄く、彼女の肌に彫りこまれた刺青を詳細に見ることができた。


 絡み合う植物の模様が両肩の付け根から指先まで彫りこまれていて、へそから太腿にかけても刺青が見られた。ソレは生きているかのように震え、彼女の呪力や動きに合わせて波打っているようにも見えた。顔を含め、全身が血にまみれていたが、それ以外にも赤土が肌に塗り込まれているようだった。


 血液は恐らく、呪術の効果を高めるために使用されていたのだろう。人や獣の体内で循環する呪素は血液を介して全身に行き渡るため、新鮮な血液には呪素が多く含まれていて、呪術の媒介として用いられてきた。しかし血液に対する、ある種の〝けがれ〟の意識や、未知の病気に感染することを恐れ、多くの部族では利用されなくなっていた。


 古来、血液は強い力が宿ると信じられ、神々の血を色濃く受け継ぐ者たちが信仰の対象とされてきた時代もあった。血液は特別なものだったが、いつしか忌避されるようになり、辺境の部族や特定の呪術結社のみが利用するようになっていた。彼女の姿を見ただけで、その出自が推測できたのは、彼女が血液に濡れていた所為だったのかもしれない。


「いずれにせよ……」

 アリエルは気を取り直す。今は戦いに集中しなければいけなかった。


 青年は狂気をはらんだ表情で迫りくる女性の攻撃を避けながら、注意深く反撃の機会をうかがっていた。呪術師とは思えないほど彼女の動きは鋭く、隙を見せることはほとんどなかった。しかしここで彼女を排除することは、それほど難しいことではないかもしれない。だが彼女が総帥につながる最後の手掛かりだということも事実だった。


 なんとかして殺さずに無力化しなければいけない。アリエルは決断すると、手にしていた重たいだけの手斧を毛皮の〈収納空間〉に放り込み、足元に転がっていた原始的な槍を拾い上げる。それは小さな怪物たちが使用していた粗末な石器だったが、今はそれで充分だった。


 彼女が襲いかかってくる瞬間、アリエルは槍の穂先を地面に叩きつけた。穂先が鋭い音を立てて砕け散ると、短槍ほどの長さの柄だけが手に残った。


「ハッ、たかが棒っきれひとつで、一体どうするつもりなんだ!」

 女性は両手に小刀を構えながら不敵な笑みを浮かべ、ふたたび襲いかかってきた。


 アリエルは柄を素早く右に左に振り回しながら彼女の攻撃を防いだ。接近戦での彼女の素早さと技量には圧倒されたが、冷静さを保ちながら対処した。数回の攻防のあと、ヌメリのある足場で彼女が一瞬だけ姿勢を崩すのが見えた。青年はその瞬間を見逃さなかった。


 槍の柄を彼女の足元に滑り込ませるようにして、一気に足を払った。彼女が尻餅をつくようにして地面に倒れ込むと、すかさずその上に覆いかぶさり、槍の柄で彼女の両腕と首を押さえつけた。


「これで終わりだ」

 青年の言葉に彼女は舌打ちしてみせたあと、必死にもがくが、首を押さえつけられた状態では逃れることはできなかった。彼女の目には憎悪と痛みが入り混じっていたが、アリエルは冷静に見つめ返していた。


「総帥はどこだ?」

 彼女が答えずに唇をかみしめると、アリエルは柄に体重をかける。彼女は苦しげに息を吐き出し、顔をしかめて見せた。


「どこともしれない地底の底で無様に死にたくないだろう。いいから、さっさと総帥が何処にいるのか吐け」


 アリエルの言葉に彼女は怒りに満ちた表情をみせたが、それは一瞬のことだった。その瞳に狂気が宿ると、青年は危険を察知した。


 突然、泥や小石が浮かび上がったかと思うと、それは瞬く間に硬化し、親指大の鋭い〈つぶて〉に変形していくのが見えた。アリエルは後方に飛び退くと、地面に手をつけ〈石の壁〉を形成する。その直後、無数の〈礫〉が〈射出〉の呪術によって撃ち込まれ、壁に衝突し粉々に砕け散っていく。


「これで終わりだって!?」

 女性の憎悪と狂気が入り混じる笑い声が聞こえてきた。

「終わるのは貴様だ、赤眼の化け物!」


 アリエルは集中し次から次に放たれる〈礫〉を防いでいく。壁の形成が間に合わなくなると、今度は地面を転がるようにして攻撃を躱していく。


 泥濘の中、地面を転がるたびに泥が毛皮や衣服にまとわりついて動きを鈍らせていく。その間も彼女の攻撃は激しさを増し、〈礫〉が形成される速度と威力も上がっていく。やはり殺せるときに殺すべきだったのかもしれない。青年は巧みに攻撃を回避していたが、とうとう攻撃を受けるようになってしまう。


 幸いなことに〈矢避けの護符〉は効果を発揮してくれていたが、その効果も徐々に弱まり、すでに幾つかの〈礫〉は風による障壁を貫通し、青年の身体のあちこちに傷をつけていた。


「これはなぁ! 姉さんたちの恨みなんだよ!」

 女性は叫びながら、さらに膨大な呪力を練り上げていく。より強力な呪術を使用するつもりなのだろう。アリエルは危険をかえりみず、一気に距離を詰めた。


 彼女が驚きに目を見開いたときには、アリエルが手にした棒は彼女の喉元に届きそうになっていた。しかしそこで青年は異変に気がつく。極限まで研ぎ澄まされた精神と、呪術で強化された身体能力がなければ、彼女の攻撃を防ぐことはできなかったのかもしれない。


 彼女は全身に付着していた血液を空中の一点にかき集めると、氷柱つららめいた血液の刃を形成する。それは凄まじい速度で撃ち込まれ、すんでのところで青年の額を貫きそうになる。何とか避けることができたが、血が凍るような冷気が頬を掠めていくのを感じた。


 やはり卓越した能力者なのだろう。アリエルに踏み込まれた瞬間、彼女は瞬時に刃を形成して己の身を守ってみせたのだ。致命傷になりかねない攻撃に青年は嫌な汗をかくが、すぐに槍を振るい、眼前に迫る無数の〈礫〉をはじいていく。彼が手にした棒の動きは滑らかで、攻撃を完璧に防ぎつつ反撃の瞬間を待っていた。


 彼女は執拗に攻撃を続けるが、青年は身体を捻ると同時に手元の棒を回転させ、あらゆる方角からの攻撃を防いでいく。槍とは本来、突くだけの武器ではないのだ。敵を斬り、攻撃を払い、長さで威圧することもあれば投擲武器としても使われる。


 青年は訓練で身につけた動きを思い出しながら棒を振るっていく。そして攻撃の隙を見つけると、一気に踏み込んで鋭い突きを繰り出した。


 彼女は攻撃を避けようとするが、アリエルの突きは正確だった。棒の先が肩に食い込むと、彼女は苦痛に顔を歪めた。まだ抵抗しようとするが、痛みによって集中力が途切れてしまったのか、空中に浮かんでいた〈礫〉が塵に変化しながら落下していくのが見えた。その瞬間を青年は見逃さなかった。


 足払いを掛けると、彼女はストンと地面に倒れ込んだ。そのまま首元に棒の先を突きつけると、冷徹な目で彼女を見下ろしながら質問した。


「つぎはない。答えろ、総帥はどこだ?」

 彼女は黙り込んでいたが、やがて涙を浮かべながら口を開いた。

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