第275話 56
地底に続く暗黒の断崖から〈混沌の尖兵〉のものと思われる不気味な鳴き声が聞こえてくると、見回りをしていた呪術師は立ち止まり、その音に耳を傾ける。そしてすぐに焚き火の近くに戻ると、〈ヒスロス〉で酩酊状態になっていた戦士たちに声を掛ける。アリエルは呪術師の意識がそれたことを確認すると、一際大きな天幕に向かって移動する。
その天幕の中に人がいることは、すでに〈気配察知〉によって感じ取れていたが、ボロ布の隙間からそっと覗き込んで内部の様子を確認する。半裸の女性が毛皮に包まって横たわっているのが見える。黒衣を身につけていることから、襲撃者のひとりであることは間違いないようだ。
そうであるなら、遠慮する必要はない。アリエルは天幕に忍び込むと、眠っている女性に近づく。そして口元を押さえながら、
女性を始末すると、彼女が脱ぎ捨てていた衣類を首に当て血液を吸わせ、素早く毛皮を被せる。血の臭いが気になるが、すぐに入り口の死角になる場所まで移動して身を隠す。数分もしないうちに呪術師が近づいてくるのが感じられた。
アリエル息を整えながら気持ちを落ち着かせていく。そして呪術師が天幕に入ってきた瞬間に動けるように準備を整える。嫌な緊張感と静寂のなか、近づいてくる足音だけが聞こえた。
呪術師は天幕に入るなり、女性に何か言葉をかけたが、訛りが強く、青年には理解できなかった。でもとにかく、すぐに呪術師の背後に忍び寄ると、その首元に無言で短刀を突き刺した。呪術師は驚愕の表情を浮かべながら杖を取り落とし、すぐに腕を引き剥がそうとするが、青年は力を込めて刃を
呪術師の身体から力が抜けると、背後から抱くようにして身体を支え、すばやく周囲の状況を確認する。まだ敵は襲撃に気づいていないようだ。呪術師の死体を女性のとなりに横たえると、そのまま毛皮で覆い隠す。
そのさい、総帥の力を封じ込めていた〝手枷〟を外すための小さな鍵も手に入れる。手枷をどうするか考えていなかったので、鍵を入手できたことにホッとする。それから足元に視線を向けると、呪術師が取り落としていた杖が目に入った。
人骨を加工して形作られた柄の先には、淡い光を帯びた結晶石の丸玉が嵌め込まれているのが見えた。高濃度の
しかし貴重な結晶石は無視できない。アリエルは結晶石の核を傷つけないよう慎重に丸玉を取り外し、毛皮の〈収納空間〉に保管した。杖にはこれといった効果は見られなかったので、回収せずに放置することにした。それが終わると、外の様子を確認しにいく。
敵はまだアリエルの存在に気づいていないようだったが、何か異変が起きているのか、焚き火を囲んでいた戦士たちが動き出すのが遠目に見えた。戦士たちは明らかに警戒していて、周囲を見回しながら何事かを
聞き取りにくい共通語だったが、どうやら〈混沌の尖兵〉の群れに見つかったようだ。戦士たちは小さな怪物に対処するため、戦闘の準備を整えていく。天幕で休んでいた戦士たちも次々と姿を見せていく。やはり襲撃者たちは合流していたのだろう、黒衣を身につけた蛮族の戦士たちの姿も多く見られた。
焚き火の炎が揺らめくなか、アリエルは敵の動きを観察し、つぎの行動に備える。戦士たちの動きはまだ鈍く、〈ヒスロス〉の影響が見られるが、完全に無防備というわけでもない。敵が完全に警戒態勢に入る前に冷静に状況を見極めて、最も効果的な攻撃を行わなければいけない。そしてソレを行うには、素早く行動する必要がある。
アリエルは足元に〈無音〉の呪術をかけ直すと、〈気配察知〉を使い敵の位置を把握していく。すでに敵の呪術師は倒していたので、こちらの呪素が気取られる心配はないので、躊躇うことなく呪術を利用していくことにした。
準備が整うと、焚き火がつくり出す影のなかに入り、音を立てずに最も近くにいた戦士の背後に立つ。そして一気に喉笛を引き裂く。膝から崩れ落ちていく戦士の手から手斧を取り上げると、そのまま近くに立っていた別の戦士の後頭部に投げつけた。鈍い刃が頭蓋骨を割り、頭部に食い込んだことを確認すると、すぐに別の戦士を標的にする。
地底の暗闇に潜む小さな怪物の群れに対処するため、戦士たちは野営地の近くで戦っていた。原始的な石斧や尖頭器で武装した怪物は敏捷で、狡猾な動きを見せながら戦士たちに襲いかかっていた。その混乱に乗じて、アリエルは順調に敵の数を減らしていく。野営地に残っていた敵の多くを処理すると、怪物の群れと戦う戦士たちを次の標的に定めた。
アリエルは体内で呪素を練り上げ、足元の泥濘に呪力を織り交ぜるようにして、
攻撃の準備が整うと、〈射出〉の呪術を使い百を優に超える礫を一気に撃ち放った。鋭利な鏃は空気を切り裂きながら凄まじい速度で飛び、乱戦のなかにあった戦士や小さな怪物をまとめて射抜いていく。
それは攻撃を予期していなかった戦士たちの革鎧を貫いて身体に食い込み、次々と無力化していく。小さな怪物たちの乳白色で半透明の身体にも礫は食い込み、そのまま内臓を破壊しながら貫いてく。かれらは金切り声を上げながら倒れることになった。
アリエルはその膨大な呪素を活かしながら、次々と礫を形成し、ひとりも逃すことなく攻撃を行っていく。避けることすらできない圧倒的な礫の数に、敵は為す術もなく壊滅していった。
地底に静けさが戻ると、アリエルは無力化していた戦士たちに止めを刺しながら、かれらの顔を確認していく。しかしザイドの姿が見当たらない。どこかに隠れているのか、あるいは逃げ出したのか、すぐに確かめる必要があった。〈収納空間〉から両刃の斧を取り出すと、両手に握り締める。
そして野営地に戻りながら、生き残っていた敵の顔を確認していく。倒れた敵の中にはまだ息のある者もいたが、もはや戦う意思は失われていた。だが躊躇う必要はない。守人と敵対した時点で彼らは許されない罪を犯したのだ。青年は両刃の斧を振るい、容赦なく止めを刺していく。
すべての敵を処理したあと、アリエルは天幕に視線を向けた。〈気配察知〉では人の気配を確認できなかったが、呪術を使って身を隠しているかもしれない。慎重に天幕に近づくと、布の隙間から内部の様子を確かめていく。
裏切り者の姿が確認できないことに不安と苛立ちが募っていく。禍根を残さないためにも、どうしても裏切り者を始末する必要があると考えていた。もしかしたら、どこかで足跡を見逃していたのかもしれない。敵が二手に分かれてしまったことに気づかずに、ここまで来てしまった可能性もある。
けれど、どうすることもできない問題にいつまでも執着していられなかった。それよりも今は、襲撃者たちに捕らえられていた総帥を助け出すことが先決だ。
アリエルは気を取り直すと、総帥が捕らえられていた天幕に向かう。すでに敵がいないことは確認していたが、足音を殺しながら、闇に溶け込むようにして進む。天幕の入り口に到達すると、布の隙間から内部の様子を
薄暗い天幕のなか、総帥は呪力の流れを阻害する手枷を嵌められていたが、以前と変わった様子は見られない。黒い戦闘装束は泥に汚れていたが、鋭い目には闘志が宿っているようだった。捕らわれの身でありながらも、守人としての矜持を失っていないのだろう。
アリエルは音を立てず、幽鬼のように天幕の中に足を踏み入れた。その瞬間、総帥から殺気が放たれるのを感じたが、それは一瞬のことだった。
「ヤシマ総帥、今助けます」
青年の言葉に総帥は眉を寄せるが、すぐに状況を理解して軽くうなずいてみせた。
呪術師の死体から入手していた鍵を使って手枷を外したときだった。首筋に鳥肌が立つのを感じた。それと同時に、敵に捕らわれていたラファを助け出したときのことを思い出す。ちらりと総帥に視線を向けると、その顔に不敵な笑みが浮かんでいるのが見えた。
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