第274話 55〈蝶花〉
暗黒に支配された地底世界では、〈混沌の尖兵〉と呼ばれる怪物の群れが
アリエルは裏切り者たちを追跡する過程で、その小さな怪物たちに見つかることを避ける必要があった。その
怪物たちによって踏み荒らされなかった足跡を見つけるのに、泥濘の中を一時間ほど歩き回る必要があった。疲労と絶望感が入り混じり、追跡の成果が出ないことに苛立ちを感じていた。
それでもアリエルは諦めずに足跡を追い続けた。途中で何度も怪物たちの群れと遭遇し、そのたびに戦闘を避けるために隠れる必要があったが、やっとのことで地面に残された足跡を見つけることができた。その足跡はまだ新しく、裏切り者たちがこの場所を通ってから、それほど時間が経っていないことを示唆していた。
その足跡を追って、さらに一時間ほどかけて移動することになった。もはや裏切り者たちを見つけるのは難しいと思うようになったころ、遠くに焚き火のぼんやりとした明かりを目にする。炎が揺らめき、微かな温もりが地底の冷たい空気を暖めている。
アリエルは息を潜め、焚き火に向かって慎重に歩いていく。どうやら裏切り者たちは、守人が任務のさいに利用する野営地で休んでいるようだ。岩壁に囲まれた狭い空間に数人の人影が見えた。焚き火の揺らめく炎が彼らの顔を赤く照らし出しているが、奇妙なことに疲労している様子は見られない。
かれらは葉巻をくゆらせながら、焚き火の周りに座り込んでいた。つめたい風にのって漂ってくるその特有の香りは、蝶花でも知られていた幻覚作用のある〈ヒスロス〉の葉を使ったものだと分かった。
古くは部族の呪術師や族長のみが神々と対話するために用いてきたモノだったが、いつしか狩人や戦士たちの間で常用されるようになった植物由来の薬物でもあった。葉巻によって得られる多幸感や幻覚作用で、恐怖と疲労をごまかしているのだろう。
濃い紫色の煙で肺を満たす裏切り者たちは、焚き火のそばでうっとりとした表情を浮かべていた。彼らの会話は途切れがちで、その視線は虚空を彷徨っていた。〈ヒスロス〉の影響で彼らの警戒心は完全に麻痺しているようだった。これほど危険な場所で、どうしてそこまで無防備になれるのか青年には理解できなかったし、理解するつもりもなかった。
アリエルは岩陰に身を潜めながら、その光景をじっと観察していた。裏切り者たちが油断している今こそ、奇襲をかける絶好の機会だった。しかし敵の数や正確な戦力は依然として不明であり、軽率な行動は自分の身を危うくするかもしれない。
彼は静かに息を整え、耳を澄ませた。焚き火の薪がぱちぱちと爆ぜる音、風にのって漂う葉巻のニオイ、そして微かに聞こえる裏切り者たちの囁き声。そのすべてが異様な静寂の中で混じり合っていく。
敵の動きを観察し、攻撃に最も適した機会を見計らうことが重要だった。アリエルは身動きすることなく、自分が取るべき行動を思案していた。深い闇の中で感覚が研ぎ澄まされ、微かな気配さえも逃さないほど集中していた。
時間がゆっくりと流れるなか、裏切り者たちのひとりがスッと立ち上がり、焚き火から離れていくのを目にした。足元はふらついていて〈ヒスロス〉の影響が見られた。アリエルは闇の中で静かに前進し、敵に近づいていく。
黒衣を身につけた男性はふらふらと歩き、岩壁の間を抜けて、底の見えない断崖の縁に立った。どうやら小便をするつもりのようだ。裏切り者は無防備に陰茎を露出し、眼下に広がる暗闇をぼんやりと見つめていた。
アリエルはその瞬間を見逃さなかった。短刀を手にすると、音を立てずに背後から接近する。そして男の口元を手で押さえながら、一気に喉を横に引き裂いた。鋭い刃が肉を切り裂き、大量の血液が噴き出す。
痛みに反応して男の身体は反射的にのけぞるが、そのまま崖下に向かって蹴り落とされてしまう。名の知れない襲撃者は悲鳴を上げることなく、深い酩酊の中で果てた。断崖の縁に立って見下ろすと、闇の中に男の姿が消えていくのが見えた。
アリエルは生温かい血液に濡れた手を拭くと、深呼吸して心を落ち着けた。そして身を屈め、闇の中で慎重に動いた。焚き火の周囲では裏切り者たちの影が揺れ動いていたが、青年の動きに気がついている様子は見られなかった。
さらに近づくと、野営地に張られた無数の天幕が見えてきた。青年は闇に紛れ、息を殺しながら慎重に天幕の様子を確認する。ボロ布の向こうから微かな声が聞こえるが、それが誰の声かまでは分からない。裏切り者たちと合流した呪術師たちの声だろうか。
その天幕の周りでは数人の戦士が見張りに立っていたが、〈ヒスロス〉の葉巻の影響か、どこか気の抜けた様子だった。天幕の中で動く人影に目を凝らすと、総帥と思われる人物の姿が確認できた。
総帥は呪力の流れを阻害する特殊な合金でつくられた手枷をはめられているのか、呪力を封じられていて、気配が感じられないようになっていた。どうりで総帥の痕跡を見つけられなかったわけだ。その手枷からは、つねに嫌悪感を抱かせる嫌な気配が放出されていて、遠くにいるのに顔をしかめてしまう。
すぐに気を取り直すと、周囲の状況を観察しながら、総帥を救出する方法を考えた。時間は限られている。敵が酩酊状態になっている今こそ、行動を起こす絶好の機会だった。しかし計画を誤れば自分だけでなく総帥にも危険が及ぶかもしれない。
闇の中で瞬きする間も惜しむように、アリエルは思案する。まずは天幕の周囲にいる見張りをひとりずつ静かに片付けることが必要だった。青年は血に濡れた短刀を握りしめ、野営地の暗がりに溶け込んでいく。
そして近くに立っていた見張りに接近し、音を立てずに襲い掛かる。短刀が閃いて喉を引き裂く。見張りは声を上げる間もなく地面に崩れ落ちそうになるが、音を立てないように身体を支え、すぐに暗がりに連れ込む。他の見張りは気づくことなく、同じ場所にとどまっていた。
瀕死の状態の戦士を暗がりに放置すると、ふらふらと歩いていた見張りに近づく。敵の数は多く油断はできないが、慎重にひとりずつ片付けていけば問題ないだろう。
見張りを倒したところでアリエルは不都合な事実に気づいた。これまで処理してきた敵の多くは暗部に所属する手練れ戦士だと思っていたが、その見張りの顔には特徴的な刺青が彫られていて、蛮族の戦士だと分かった。彼らは粗暴で危険な戦士だったが、計画的な行動が苦手なはずだった。
どうして蛮族がここに? 青年は心の中で自らに問いかけるが、その答えを見つける余裕はなかった。裏切り者たちを指揮していたザイドの姿が見当たらないことに嫌な予感を覚えた。しかし思考に浸る時間はなく、すぐに現実に引き戻された。
天幕の中から呪術師が出てくるのが見えた。どうやら幻覚作用のある〈ヒスロス〉の煙を吸っていないようだ。呪術師の意識はハッキリしていて、〈気配察知〉の呪術を使い、周囲の動きを警戒するように見回していた。見張りに立っていた戦士たちが少なくなっていることに気がついたのかもしれない。
厄介なことになった。アリエルは岩陰に身を潜め、白い息を吐き出しながら呪術師の動きを注視した。黒衣を身につけた呪術師は焚き火の明かりに照らされ、首から下げた小さな頭蓋骨を揺らしながら歩いていた。彼の手には人骨で形作られた杖が握られていて、その先端に嵌め込まれた結晶石が淡い光が帯びているのが見えた。
どうやって接近するか考えるが、呪術師の鋭い感覚と警戒心を前に、すぐに行動に移せない。アリエルは深呼吸して心を落ち着かせていく。焦りは禁物だった。身にまとう
□
〈ヒスロスの葉巻〉
ヒスロスの葉巻は、
かつては部族の呪術師や族長のみが神々と対話し、未来を予言するために用いてきた神聖な薬草だったが、時代が進むにつれて、狩人や戦士たちの間でも使われるようになっていく。死の恐怖を克服し、戦場での勇敢さを示すために〈ヒスロスの葉巻〉を使用する者もいれば、狩人が疲れや恐怖を忘れるために使用することもあった。
部族間の紛争が激化するなか、葉巻によって得られる多幸感と幻覚作用は戦士たちの間で重宝されていく。恐怖心をなくすだけでなく、集中力を高め空腹感や痛み、そして睡眠の必要性すらなくなるため、紛争のさいには非常に望ましいものだとされた。
多くの部族では、その強力な作用と〝依存性〟から〈ヒスロスの葉巻〉の使用を厳しく制限していた。しかしそれが
蝶花としても知られていた特別な植物は、夜になると青紫色の薄い霧を放ちながら空中を飛び交う花々であり、古い言葉で〝ヒス〟は霧を、〝ロス〟は花を意味し、その名の通り霧の中に咲く幻想的な植物だった。
部族の伝承によれば、〈ヒスロス〉は〝夜の神〟の落とし子たち、〈夢神〉が地上に残した足跡から誕生したとされている。その神秘的な幻覚体験と相まって、ヒスロスの煙には神々との対話に必要不可欠なモノだと信じられていた。
ちなみに〈ヒスロス〉の葉は、夜明け前の森が最も静かな時間帯にのみ収穫される。そして特別な乾燥工程を経て、葉巻に加工される。この工程には、部族に伝わる秘儀が用いられ、幻覚作用を最大限に引き出されることになる。
その効果は使用者に深い多幸感を与え、現実の精神的圧力や恐怖から解放するだけでなく、鮮やかな幻覚を見せ、過去の記憶や未来の予見、あるいは神々や精霊との対話を体験させるが、それが本物の〝神々との対話〟なのかは、実際のところ誰にも分からない。
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