第273話 54


 アリエルは地底に続く大扉の前に立ち、篝火によって照らされる暗黒の世界を見つめていた。冷たい岩壁に囲まれたこの場所は、かつて〝旧支配者〟たちによって築かれた壮麗な地下都市へと続いている。そこには〈混沌の領域〉につながる〝無限階段〟があり、今も守人たちによって厳格に監視されていた。


 詰め所に震動が伝わり天井から塵やホコリが降ってくるのが見えると、アリエルは〈念話〉を使い、地上で襲撃者たちと交戦していたルズィと連絡を取ることにした。戦闘は激しさを増していて、呪術による破壊音や震動が地下まで伝わってきていた。


『大規模な攻撃が仕掛けられている!』と、ルズィは声を張り上げる。『砦に侵入した連中はひとり残らず排除したから、かろうじて敵の侵攻を食い止めることができているが、厄介な状況に変わりない!』


「助けは必要か?」

『いや――その必要はない! それより、そっちに行けそうにない』


「こっちは大丈夫だ」と、アリエルは溜息をつく。状況は厳しいが、自分にできることをするしかない。「裏切り者たち見つけたら、また連絡する」


 会話を終えて大扉に手をかけると、重い扉が軋みながら動く。地の底から冷たい風が吹きつけ、篝火の炎が揺れる。洞窟の入り口は狭く、深い闇が何処までも続いているように見えた。しばらくの間、大扉の前に立って篝火に照らされる暗黒の世界を見つめていたが、そこでふと思い直して引き返すことにした。


 壁に掛けられていた古い楯を見つけると、蜘蛛の巣を払いながら手に取る。木製の楯は重く、表面に張られた金属板は錆びついていたが、敵の攻撃を防ぐのに充分な厚みがあった。腕を固定する革帯はダメになっていたので、適当な布を拾ってきて腕を固定するように巻き付けて、それから持ち手を握りながら楯を動かして支障がないか確認する。


 それから毛皮の〈収納空間〉に手を入れ、蛮族の戦士から奪っていた片刃の手斧を取り出す。その斧を右手で持ち、左手に楯を構えながら感覚を確かめていく。動きは鈍くなるが、戦闘に影響が出るほどではなかった。


 準備を整えると、任務に赴く守人のために用意されていた角灯ランタンを手に取り、足元を確認しながら大扉の向こうに慎重に足を踏み出す。暗黒が支配する暗闇のなか、あちこちに淡い燐光を帯びた苔が見られ、岩壁は冷たい水に濡れていた。足元はヌメリがあり滑りやすく、注意深く進む必要があった。


 しばらく進み背後を振り返ると、砦につづく大扉から漏れる小さな明かりが見えた。そこで立ち止まって耳を澄ますと、遠くから微かな水音が聞こえてくることに気がつく。地底に流れる川の音だろう。アリエルは古参の守人すら恐れるこの場所にひとりで足を踏み入れることに一抹の不安を感じていたが、今さら引き返すわけにはいかなかった。


 やがて狭い通路を抜け、広大な空間に出る。洞窟の冷気が肌に撫で、吐き出す息が白くなっていることに気がつく。アリエルは楯と手斧の重みを確かめるように腕を持ち上げたあと、〈気配察知〉の呪術を使い敵の痕跡を探し始めた。


 暗闇の中で不気味な影が揺れ動き、岩壁に生えた苔が妖しく発光し、得体の知れない視線を感じる。しかし青年は冷静さを保ちながら、そのすべてを無視することに決めた。果てしない暗闇は、ときに恐ろしいモノを見せる。しかし多くの場合、それは恐怖が見せる幻影であり、存在しないモノだと知っていた。青年は敵の索敵に集中する。


 獣のように身をかがめ、注意深く泥濘ぬかるみを調べていく。その眼は深紅に明滅し、その場に残された呪素じゅその揺らぎと、わずかな呪力の残滓を露わにしていく。そうしてほとんど目に見えない痕跡が暗闇のなかに浮かび上がる。


「ここだ……」アリエルは小さな声でつぶやく。

 泥濘のなか、人の足跡が赤い光を帯びながら浮かび上がるのが見えた。それは裏切り者たちがこの道を利用した証拠でもあった。さらに進むと、地面に小石が散らばっているのが見えた。足跡を残さないために岩棚を利用したのかもしれない。


 楯を背負い、革紐を使って角灯を腰に吊るすと、濡れた岩壁に手をかけて慎重に登っていく。すぐに足跡は見つけられた。それは右へ、左へ、そしてまた右に向かって移動していた。進むべき道を決めあぐねているようにも見えた。


 暗闇のなか、方向感覚もなく動き回っているのは、裏切り者たちも正確な移動経路を把握していないからなのかもしれない。


 身をかがめ、ちっぽけな痕跡を読んでいく。一箇所に集中して残された足跡は、裏切り者たちが立ち止まったことを示唆していた。何かを相談していたようだ。地面に残された足跡の向きや深さから、彼らが何度か立ち止まり、話し合った形跡が見て取れる。


 さらに足跡を追うと、二手に分かれていることが分かった。待ち伏せをする者たちを残していったのかもしれない。泥濘に残る足跡の深さから、敵が痕跡を偽装しようとしていたことも分かる。


「すぐ近くにいるな……」

 じっと暗闇を見つめていると、〈気配察知〉によって敵の輪郭がぼんやりと浮かび上がるのが見えた。青年はすぐに灯りを消し、暗闇の中に立ち尽くす。彼は静かに呼吸を整え、暗闇に目が慣れていくのを待った。洞窟の冷たい空気が肺に染み渡っていく。


 その恐ろしい静寂のなか、青年は微かな物音も聞き逃さなかった。すでに敵はこちらの存在に気づいているだろう。いつ攻撃されてもおかしくない状況で、青年はゆっくりと前に進んでいく。そして岩陰に身を潜め、物音の正体を見定める。


 暗闇の中で確認できるのは、わずかな呪素の揺らぎだけだったが、それだけで充分だった。アリエルは慎重に距離を詰め、斧を握り締め、一気に飛びかかる準備を整える。


 敵の気配が近づいてくる。アリエルは音を立てないよう、足をそっと前に出す。暗闇の中での戦いは、視界ではなく呪素の気配と音が重要になる。彼は息を殺し、敵の動きに耳を澄ませていく。呪素の大きな揺らぎを感じたのは、ちょうどそのときだった。


 前方から凄まじい勢いで呪力の塊が接近してくるのが見えた。おそらく周囲の石や泥で形成した〈つぶて〉、あるいは〈石の矢〉の類を射出したのだろう。アリエルは即座に楯を構え、正面から攻撃を受け止めた。衝撃で後退りし、腕が痺れるが、痛みに耐えながら前方の敵に向かって突進する。


 その間、いくども呪術を撃ち込まれるが、楯で防ぎつつ手斧を構えて接近する。鋭い刃は闇を切り裂き、敵の喉に深く食い込む。呪術師は息を飲む間もなく倒れ込み、漆黒に包まれた闇の中に沈んでいく。


 アリエルは闇に潜む敵の気配を捉え、すかさず楯を構え直す。敵の動きは鋭く、確実で、無駄がなかった。つぎの瞬間、呪術師が放った〈石の矢〉が接近してくる。青年は楯で攻撃を受け流すが、衝撃に耐えられなかったのか、楯は半ば破壊され使用不能になる。


 青年は躊躇ためらうことなく楯を投げ捨てると、敵に向かって全力で駆けた。呪術師は慌てながら呪文を唱えようとするが、もはや手遅れだった。ふたたび手斧が闇を切り裂き、敵の胸に深く突き刺さる。血が飛び散り、敵は吐血しながら倒れ込む。青年は後退り気配を消すように動きを止めると、瞼を閉じ、感覚を研ぎ澄ませながら周囲の気配を探る。


 しばらくして周囲に敵がいなくなったことを確認すると、アリエルは腰に吊るしていた角灯に触れた。暗闇に火が灯り温かな光が周囲を照らしていくと、先ほどまで空気を支配していた緊張感がわずかに和らいでいくのを感じたが、血の臭いを含んだ冷たい空気は依然として肌に染みついていた。


 アリエルは白い息を吐き出すとゆっくりと周囲を見回した。戦力として貴重な呪術師が何人もいることから、敵が用意周到に襲撃を計画していたことが分かる。呪術師たちは――たとえ蛮族の呪術師だとしても、高い知識と技術を持ち、攻撃力も防御力も非常に高い。そのような戦力を投入するということは、敵が本気で総帥を狙っていた証拠でもある。


「さらに警戒する必要があるな……」

 アリエルは自分に言い聞かせるように小さくつぶやいたあと、まだ痺れが残っていた腕の状態を確認して、それから動き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る