第272話 53〈悪夢〉
襲撃者の自爆に巻き込まれたアリエルの意識は薄れていき、つめたい暗闇の中で漂い続けていた。しだいに青年の意識は現実とも虚構ともつかない仄暗い混濁の中に引きずり込まれていった。
■
白い外衣を身にまとった〝顔の見えない女性〟が扉を閉じて、つめたい廊下の先に消えてしまうと、重々しい鉄の鎧を身につけた兵士たちが駆けていく微かな足音が聞こえた。しばらく耳を澄ませていたけれど、聞こえたのはそれだけだった。やがて石造りの薄暗い部屋は静寂の中に沈み込んでいく。
扉の前に立ち尽くしたまま、不安そうに扉を見つめていると背後から声が聞こえる。
『大丈夫だよ』と。
その声は奇妙な響きを持っていた。ソレは少年の声であると同時に女性の声であり、低い男性の声であり、老婆のしゃがれ声でもあった。
『大丈夫』と、その声は繰り返す。
『不安になる必要はない』
背後を振り返ると、
奇妙な子どもが人形の頭部を撫でるたびに、艶のある羽根がゆらりと地面に落ちていくのが見えた。その光景に奇妙な違和感を覚え、子どもの手を注意深く見つめた。
その手は人間のそれと同じ形をしているが、驚いたことに厚い鱗に覆われていた。指先まで細かく揃った鱗模様が、手の甲を包み込んでいる。不安を抱きながら視線を上げると、絡み合う樹木の根が刺繍された白い亜麻布の胴衣を着ているのが分かった。赤いウールのマントも羽織っていたが、その頭部は人間のものではなかった。
子どもは亜人だった。見たことのない種族で鋭いくちばしを持ち、それは蝋燭の光に照らされて艶やかに輝いている。眼は不自然なまでに大きく、黒い瞳がじっとこちらを見つめている。その瞳には底知れぬ闇が広がっているように感じられた。
長い羽に覆われた異形の頭部を持つ存在は、カチカチとくちばしを鳴らす。蝋燭の火が不気味に揺れて黒い影が壁で踊るなか、その音は不自然に耳元で木霊する。
『城は包囲されてしまった。塔は崩壊し、壁は崩れ、勇猛な戦士たちは虐殺されてしまった。おそらく城内にも敵兵が侵入してきているだろう……』
その冷たくも悲しげな声を聞いて、今にも泣き出しそうな顔で異形の生物を見つめる。すると子どもは悲しそうな声で続ける。
『君の父上も母上も捕まってしまったのかもしれない。きっと君のお姉さんも今ごろ――』
頭の中で絶望が渦巻き、喉が詰まるような感覚に襲われる。異形の子どもは言葉を切ると、しばらく黙り込んだままこちらを見つめていた。その瞳の中には深い悲しみと哀れみが宿っている。
『僕はね、生まれてからずっと大切なモノを失い続けてきたんだ。そして僕は今、君を失おうとしている。でも、僕らを取り巻く運命は決してそれを許さないだろう』
その言葉に反応しようとしたが、声が詰まって何も言えなかった。恐怖と不安が心を支配し、身体は硬直して動かない。異形の頭部を持つ子どもは、人形を撫でる手を止め、じっとこちらを見つめる、まるで魂の奥底を覗き込むかのように。
『ある詩人が地獄で最も重い罪は〝裏切り〟だと口にしていたけれど、その意味が分かったような気がする』
それから異形の子どもは立ち上がると、ゆっくりと近づいてきた。蝋燭の灯りがその姿を闇のなかに浮かび上がらせると、蠅の頭部を持つ恐ろしい怪物の姿が見えたような気がした。しかしソレは一瞬のことで、すぐに元の姿に戻ってしまう。
恐怖と不安で凍りつきながらも、その奇妙な存在を見つめ続けた。何か言おうとしたが、声が出せなかった。子どもはすぐ目の前で立ち止まると、カチカチとくちばしを鳴らした。
『僕たちは同じ運命のなかにいるんだ。失うことに対する恐怖と、失われたものに対する執着、それは僕たちの心を縛り続けている。何かの呪いのように……。そしていつか神々は僕らの魂を捕らえ、かれらの膝下に
蝋燭の火が弱々しく揺れ、子どもの――あるいは怪物の姿が曖昧になっていく。蝋燭の灯りによって作り出された影が触手のように揺れ動くのが見えた。子どもの輪郭は徐々にぼやけていき、闇の中に溶け込むようにして消えていく。
すると背後で扉を激しく叩く音が聞こえてきた。驚いて振り返るが、そこには真っ暗な空間しか存在しなかった。何も見えず足元の感覚も次第に消えていく。トンっと背中を押されたのは、ちょうどそのときだった。
気がつくと底のない暗黒の中に落下していた。暗闇がすべての感覚を包み込んでいき、周囲の音も消え去る。不気味な静寂のなかで、恐怖と絶望が心を締めつけていく。すると何処からともなく異形の子どもの声が聞こえた。
『すぐに君を迎えに行くから、心配しないで』と。
□
瞼を開くと、扉の先から這い寄る闇と床が見えた。身体を起こそうとするが、激しい痛みに襲われる。とにかく身体の節々が痛い。そこでアリエルは地下牢の冷たい床に倒れ込んでいたことに気づく。どうやら悪夢を見ていたようだ。夢の内容は曖昧で思い出せなかったが、夢で感じた恐怖と不安が心に深く刻み込まれているようだった。
深呼吸を繰り返したあと、痛みに耐えながら身体を起こす。
「すぐに裏切り者たちのあとを追わなければ……」
自分に言い聞かせるようにつぶやいたあと、ゆっくり立ち上がる。
自爆の衝撃でダメになっていた革鎧を外して足元に捨てる。〈
手早く応急処置を終えると、周囲を見回して手放していた剣を探し始めた。そのさい、敵が所持していたと思われる
戦斧を毛皮に収納したあと、天井や壁に張り付いた肉片を見ながら周囲を探し続けた。しばらくすると破壊された扉の破片の間に、赤黒い刀身を持つ剣を見つけた。剣を手に取ると、慣れ親しんだ重さに安心感を覚える。
用意を整えると地下に続く通路に足を踏み入れた。冷たい石壁が両側に立ち並び、通路は暗く、白い息を吐き出すほどの冷気に満ちていた。燭台の薄明かりに照らされた道を進むと、前方に詰め所の入り口が見えてきた。分厚い木の扉が半開きになっていて、内部から微かな光が漏れていた。
気絶していたのは、ほんの五分にも満たない時間だったのだろう。相変わらず上階からは戦闘音が途切れることなく聞こえていて、微かな振動が壁や床を通じて感じられた。その通路を慎重に進みながら、詰め所の入り口に立つ。扉の向こうからは明るい光が漏れ、内部の様子を窺わせた。青年は罠に注意しながら、ゆっくり扉を押し開けた。
詰め所でも激しい戦闘が行われたのか、ひどく散らかっていた。倒れた守人たちの姿があちこちで見られ、血の臭いが鼻を突いた。壁には剣や楯が掛けられていたが、その多くは使用されることなく無惨に放置されていた。誰が味方で誰が裏切り者なのか、もはや見分けがつかなかった。
アリエルの視線は詰め所の奥に向けられる。普段は固く閉じられている地底につづく大扉が開放されているのが見えた。敵は守人と交戦したあと、扉を開放し、暗黒が支配する地底世界に向かったようだ。
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