第271話 52


 アリエルは地下牢ダンジョンに続く階段の前で立ち止まる。冷気が立ち込める石造りの階段は、陰鬱な静寂の中に沈み込んでいて、地下に向かったであろう襲撃者たちの足音すら聞こえてこない。しかし微かな呪素じゅその気配が感じられるので、注意深く進む必要があるだろう。


 青年は暗がりに身を潜めながら〈治療の護符〉を取り出し、矢で傷つけられた肩に押しつける。護符は青白い炎に包まれ、瞬く間に灰となって消散する。癒しの効果によって傷口は塞がり出血も止まる。痛みも少し和らいで、腕を動かしても鈍痛を感じることはなくなった。


 それからアリエルは階段の途中で足を止め、ゆっくり息を整えていく。冷たい空気が肺を満たし、戦闘で興奮していた頭を冷静にしてくれた。背後からは微かな戦闘音と振動が感じられる。砦内に侵入していた者たちだけでなく、砦の外からも攻撃が行われているのかもしれない。


 階段を下りていくにつれ、つめたい空気のなかにカビの臭いが漂っていることに気づく。石壁には燭台しょくだいが幾つか取り付けられていて、薄暗い光が頼りなく揺れている。前方に分厚い木製の扉が見えたが、その扉の隙間から呪素の気配が漏れ出ている。裏切り者たちが近くに潜んでいる可能性が高い。


 扉にも何らかの罠が仕掛けられているに違いない。アリエルは呪力を感じ取ると即座に警戒態勢に入った。緊迫感が増していくなか、彼は毛皮の〈収納空間〉から弓を取り出し、音を立てずに矢をつがえた。


 衝撃に反応する罠の可能性があるので、矢を放って反応を確かめることにした。厚い扉に矢が突き刺さる鋭い音が響く。その直後、やじりが突き刺さった箇所を起点に炎が広がっていくのが見えた。アリエルは直感的に身を守る姿勢を取る。次の瞬間、扉が爆散し、無数の木片が四方八方に飛び散る。敵の呪術師が仕掛けた罠が作動したのだろう。


 数百もの鋭い木片が飛び交うなか、アリエルは身をかがめて毛皮のマントで身体を保護する。しかし〈矢避けの護符〉の効果が継続していたので、彼の周囲に突風が発生し飛来する破片の軌道を逸らしてくれる。それからしばらくして、青年は爆風が通り過ぎたあとの焦げ臭い空気を吸い込みながら周囲を確認する。


 燃える扉の残骸から煙が立ち昇り、階段は一瞬にして暗闇に包まれていく。しかし地下から吹きつける風が煙を一掃し、視界が徐々にハッキリしてくる。アリエルは首巻で口元を覆うと、注意深く前進しながら被害の状況を確認していく。


 壁掛け燭台が吹き飛んだせいでほとんど真っ暗だった。床には黒衣を身につけた人間が倒れていたが、その顔は焼けただれていて、誰なのか判別することはできなかった。それが裏切り者の兄弟なのか、それとも襲撃者のひとりなのか、もはや判断する材料がなかった。


 自ら仕掛けた罠に巻き込まれたのだろうか、アリエルは疑問を浮かべながら見回す。それとも、罠を仕掛けた呪術師は仲間にすら警告しなかったのだろうか。その理由は定かではなかったが、他にも罠が仕掛けられているかもしれない。


 床に散らばる木片や血痕を避けながら一歩一歩慎重に進んでいく。暗闇の中で何かが動いた気配を感じ取ると、青年はすかさず身を低くした。次の瞬間、暗がりから人影が飛び出してきた。襲撃者のひとりだろうか、手斧を振りかざしながら突進してくる。


 そのあまりにもいい加減な攻撃は、それまでの襲撃者には見られない行動だった。アリエルは即座に反撃の姿勢を取った。横薙ぎに振るわれた斧をかわし、身体を反転させ足払いをかけた。敵は姿勢を崩すと、そのまま前のめりに倒れ込む。


 アリエルはすぐに立ち上がると、手にしていた矢を敵の頚部けいぶに突き刺した。蛮族と思われる上半身裸の男が動かなくなったことを確認すると、青年はすぐに狭い通路を通って牢が並ぶ薄暗い空間に入っていく。


 数日前に砦を襲撃した蛮族の部隊に生き残りがいたとは考えられないので、襲撃者たちと一緒に侵入してきた戦士だったのかもしれない。いずれにせよ、一刻も早く裏切り者たちを捕らえなければならないが、まだ何処かに敵が潜んでいる可能性があるので警戒を続けながら進む。


 その地下牢の先には深淵に続く深い洞窟がある。しかし総帥を連れて逃げ込むような場所ではない。混沌の化け物が跋扈ばっこしていて、たとえ守人だとしても命の保証ができない危険な地底世界なっていた。けれどもしも裏切り者たちの中に、地上につながる別の出入り口を知っている者がいるのなら、彼らは危険を冒してでも地底に向かうのかもしれない。


 そこでアリエルはふと深淵の底で見た仲間たちの遺体を思い出した。急がなければ厄介なことになるだろう。牢が並ぶ暗い空間に足を踏み入れると、冷たい空気と腐敗臭を放つ苔の匂いが鼻を突く。薄暗い通路の両側には使われていない牢がいくつも並んでいる。その奥に、微かに人の気配を感じ取る。


「誰かいるのか?」

 もちろん返事はない。しかし〈気配察知〉によって敵が潜んでいることは分かっていた。青年は呪力を帯びた瞳を明滅させながら弓を構えると、わざと音を立てながら進む。足音だけが響くなか、嫌な緊張感が高まっていく。次の瞬間、暗がりで人影が動くのが見えた。


 アリエルはすかさず矢を射る。空気を切り裂く音が静寂を破り、狭い通路に鋭い音が響き渡る。


「待て!」男は叫んだ。「おれは敵じゃない――」

 しかし男が言い終わる前に、彼の喉には矢が突き刺さっていた。男は苦悶の表情を浮かべ、傷口から溢れる血を抑えようとして喉元に手を伸ばしたが、それは無駄だった。彼は吐血しながら地面に崩れ落ち、自らの血のなかで溺れていく。


 男の手に手裏剣が握られていたことをアリエルは見逃さなかった。油断させて攻撃するつもりだったのだろう。アリエルは確かな手応えを感じていたが、慎重に近づいて生死を確認する。顔に巻いていた黒衣をめくると、顔に刺青が刻まれているのが見えた。砦に侵入した敵のひとりに違いない。


 錆びついた鉄格子を横目に見ながら進む。地下に続く通路に近づくにつれ、邪悪な気配が濃くなっていく。きっと地底から立ち昇る瘴気の所為だろう。地底に続く入り口の近くに黒衣を身につけた侵入者が立っていて、何かを探すように辺りを見回しているのが見えた。アリエルが足音を殺しながら距離を詰めると、侵入者はふたたび動き出した。


「逃がすか!」

 アリエルは侵入者に向かって棒手裏剣を打つ。敵はさっと振り返ると、手にした短剣で手裏剣をはじいてみせた。火花が飛び散り甲高い金属音が響く。敵は見事に攻撃を防いでみせたが、アリエルは攻撃の隙を見逃さず、敵の胴に〈氷槍〉を撃ち込んだ。


 氷柱つららめいた鋭い氷が肉に食い込むと、敵の身体が一瞬硬直する。アリエルは敵に接近すると、剣を振り抜いて袈裟がけに斬りつけた。しかし敵は不敵な笑みを浮かべたあと、自分自身の舌をみ切るようにして歯を食いしばった。


「何を――」

 その言葉を言い終える前に、凄まじい爆風がアリエルを襲った。敵は躊躇ためらうことなく自爆したのだ。炎と煙が通路を埋め尽くし、激しい爆風が青年を壁に叩きつけた。耳鳴りがするなか、視界は一瞬白く染まる。


 地面に倒れ込んだアリエルは激しい痛みと混乱に苛まれながらも、何とか身体を起こした。爆風の余韻が収まって視界がハッキリしてくると、敵の残骸が辺り一面に散らばっているのが見えた。


「死してもなお、任務は遂行する……か」

 アリエルは傷だらけだったが、すぐに裏切り者たちを追跡しようとした。けれど青年の身体は限界だった。力が抜け、膝から崩れ落ちた。地面に倒れ込むと、身体を無理やり動かそうとしたが、どうにもならなかった。


「まだ――」

 つめたい床が頬に触れ、戦いの疲労が一気に襲いかかる。意識が薄れそうになるなか、彼は浅い呼吸を繰り返す。震える手を床に押しつけ、ふたたび立ち上がろうとする。身体強化による反動なのか、全身の筋肉が悲鳴を上げている。それを無視して、痛みをこらえながらゆっくりと身体を起こす。

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