第346話 43


 アリエルは、焼け焦げた大地の上に立ち尽くしていた。かれの周囲にあるのは、焼け焦げた投石機の残骸と、無残に焼き尽くされた兵士たちの死体だけだった。ほんの数分前までの騒音が嘘のように、辺りは静まり返っていた。


 けれど、その静寂は長くは続かなかった。徐々に兵士たちの呻き声や悲鳴が聞こえるようになる。


 木陰に倒れ込んだ兵士は、炭化した自らの腕を抱くように嗚咽を漏らしている。半身を失った工兵は助けを求めているのか、それとも苦しみから解放されたいのか、かすれた声で何かをつぶやいている。


 そのなかには、勇気を振り絞ろうとする者たちもいた。斧槍ふそうを手に仲間を奮い立たせようと怒声を浴びせる隊長の声が響く。しかし、その声にも震えが混じっていた。その場にいる全員が恐怖と混乱に呑み込まれている。


 しかし混乱など意に介さないものもいる。混沌の化け物〈ベリュウス〉の巨体は未だ赤熱を帯びていて、その灰色の皮膚からは細かな灰が舞い上がっていた。呼吸するたびに、鋭い歯の隙間から灰と煙が漏れ出し、周囲の空気をさらに重くする。


 赤々と燃え立つような眼光は、混沌とした戦場のなかであっても唯一脅威になりえるアリエルに真直ぐ向けられていた。


 恐ろしくも冷徹な双眸が、じっと青年を見据える。

「……逃げるなら、今しかない」


 アリエルはそう口にして冷静を装うが、その願いが叶わないのは明らかだった。あれほどの死を振り撒いた化け物が、黙って青年を見逃すとは思えなかった。緊張で固くなった指先をわずかに動かしながら、化け物から視線を逸らすことなくシェンメイに声を掛けた。


 間を置かずに彼女の声が聞こえる。その声には焦りが滲んでいたが、怪我をしている様子はなかった。


「無事だよ……けど、これからが問題。撤退の準備を整えるから、その間、あんたはあの化け物の注意を引きつけて」


 彼女の言葉に青年は思わず眉をひそめた。しかしそれが無茶な頼みでもあったとしても、化け物から逃げる時間を稼がなければ、この状況から生きて脱することはできない。それだけは間違いなかった。


 アリエルは目の前の化け物を改めて観察する。赤熱する体表が徐々に冷えつつあるが、まだ充分すぎるほどに脅威だった。その巨大なツノ、牙、鉤爪――どれも一撃で命を奪うことのできる武器だった。


「でも……やるしかない」

 深く息を吸い込み、〈ダレンゴズの面頬〉を装着したことでたかぶっていた気持ちを静めていく。その手には鋸歯状の剣が握られている。化け物に対して、この刃がどこまで通用するかは分からない。それでも時間を稼がなければならない。


 背後で彼女が何かの魔術を準備している気配がする。どんな手を使ってでも、この状況を打破するつもりなのだろう。


 アリエルは大きく息をつき、地を蹴った。化け物の注意を引くため、その巨体に向かって真直ぐ駆けていく。相手が混沌の化け物なので、その気になれば〈混沌喰らい〉の能力が使えたのかもしれないが、砦での戦いを思うと消耗は避けなければいけなかった。


 面頬の効果なのか、吸い込む空気は冷たく澄んでいて、血が沸騰するかのように力が湧き上がってくる。その力を確かめるように地を蹴り、凄まじい速度で化け物に向かって駆けていく。


 恐るべき混沌の化け物〝鋭い牙を持つもの〟の巨体が近づくにつれ、その体表から放たれる熱波に襲われる。未だくすぶる地面からは煙が立ち昇り、焼きつけるような感覚が全身を包み込んでいく。しかし青年は冷気を纏い、その熱波を抑え込むようにさらに速度を上げていく。


 アリエルの接近を確認すると、〈ベリュウス〉は威嚇のための咆哮を放つ。瞬間、空気が震え、周囲の木々が揺さぶられる。コウモリめいた巨大な飛膜が空を遮るように広がる様子は、まるで戦場に逃げ場がないことを暗示するかのようだ。その咆哮の中でも、青年は一瞬の躊躇ためらいも見せなかった。


 体内で練り上げていた呪素を一気に解き放ち、化け物に手を向ける。すると周囲の冷気が集束していき、空中に無数の氷のつぶてが形成されていく。


「貫け」

 横薙ぎに腕を振るい、〈射出〉の呪術でやじりめいた氷の礫を凄まじい速度で撃ち出す。しかし鋭い〈氷礫ひょうれき〉は化け物に接近するや否や、音を立てて蒸発していく。 高温に包まれたその身体は、氷の呪術をまるで受け付けなかったのだ。


 もともと大きな効果を期待していたわけではなかった。冷気を纏っていたので、すぐに氷を形成できる〈氷礫〉を攻撃に選択したに過ぎなかったが、それでも化け物が無傷だったことに衝撃を受ける。


 その〈ベリュウス〉が巨木のような腕を振りあげるのが見えた。巨体に似合わず目にもとまらないほどの速度で、わずかでも反応が遅れれば即死は免れない。泥の中を滑るようにして紙一重のところで攻撃をかわす。 地面に叩きつけられた腕が泥を跳ね上げ、大地が悲鳴を上げる。


 その瞬間、アリエルは鋸歯状の刃で太い腕を斬りつけるが、まるで大木に刃を叩きつけているような感触が返ってくるだけで、わずかに出血させることすらできなかった。


 と、今度は化け物が足を持ち上げるのが見えた。それはのっそりとした動作だったが、足が持ち上がった瞬間、その意図を察して横に飛び退いた。


 つぎの瞬間、大地が砕け散るような衝撃音とともに化け物の足が地面を踏み砕く。土と泥が飛び散り、地面が放射状に窪んでいくのが見えた。その衝撃でよろめきながらも、アリエルは即座に態勢を立て直す。


 その間も、〈ベリュウス〉は嘲るような冷たい視線で見下ろしていた。人の言葉を解する化け物なのだと言われていたが、本当なのかもしれない。


 アリエルは再び接近し、今度はその太い足を斬りつける。斬撃が皮膚を裂く感触はあったが、結果は同じだった。刃は通らず、血を流させることすらできなかった。化け物の冷徹な双眸が鋭さを増し、まるで青年のことを嘲笑っているかのようだった。


 化け物が両腕を頭上に振り上げるのが見えた。その拳は、何もかも粉砕する破壊力を秘めている。アリエルは地面に両手をつけると、すかさず全身の呪素を放出する。そのさい、大量の呪素を消費してしまい体温が奪われていくような嫌な感覚に襲われる。が、気にすることなく呪素を放出していくと、周囲の泥土が急速に硬化していく。


 呪術で形成されたのは無数の鋭い杭だった。それらは地中から隆起りゅうきするように突き出し、化け物の両拳を迎え撃つように形成された。杭の表面は岩のように硬く鋭く、化け物の圧倒的な腕力を逆手に取って拳を破壊するのが狙いだった。


 握り合わせた両拳が振り下ろされる瞬間、青年は後方に飛び退く。狙い通りに化け物の拳は杭の群れに激突したが、その衝撃は想像を遥かに超えていた。轟音とともに杭は粉々に砕け散り、無数の鋭い破片となって四方八方に飛び散る。


 アリエルは後方に跳躍して直撃を避けたものの、砕け散った破片が矢のように降り注ぎ、鋭い痛みが全身を襲う。肩口や腕、さらには防具の隙間に入り込んだ破片が皮膚を裂いていく。シェンメイの声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。


「乗って!」

 背後を振り返ると、〈ラガルゲ〉が疾走してくるのが目に入る。


 オオトカゲの背に乗った彼女が手を差し出すのが見えると、アリエルは迷わずその手を握る。力強く引き上げられると同時に、〈ラガルゲ〉の背にしっかりと跨る。オオトカゲはその巨体に似合わない驚異的な速度で戦場を駆けていく。足取りは滑るように軽快で、地形を選ばず疾走していく。


 背後から化け物の咆哮が轟いた。その声は怒りに満ち、逃げる彼らを追いかけようとする素振りすら見せていた。


「追ってくるぞ!」

 アリエルが叫ぶと、シェンメイはちらりと振り返り、冷静な声で返した。

「速度で振り切る、しっかりつかまって!」


 彼女の腰に腕を回すと、すぐ背後で化け物の重々しい足音が聞こえた。大地が揺れ、咆哮が耳をつんざくなか、〈ラガルゲ〉は鬱蒼と生い茂る樹木を避けながら疾走していく。けれどソレは完全に終わりを意味するわけではなかった。アリエルは背後を振り返りながら、その巨体が見えなくなるまで化け物の姿を見つめ続けていた。

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