第345話 42〈鋭い牙を持つもの〉


 敵部隊の側面――歩哨すらも注意を怠っていた鬱蒼とした木々の間から、不意に大地を震わせる足音が響き渡る。まるで雷鳴のような低い轟音だ。つぎの瞬間、木々を薙ぎ倒しながら異形の化け物が姿をあらわした。その巨体は兵士たちの頭上に影を落とすほど高く、二階建ての小屋を見上げているようでもあった。


「来るぞ!」

 百人隊長が叫び、槍と楯を構えた兵士たちを前に出すが、すでに何もかも遅すぎた。化け物の突進は暴風のように容赦なく彼らに襲いかかる。


 鈍い打撃音が響き渡り、複数の兵士が宙を舞うようにね飛ばされ、近くの樹木や組み上げ途中の投石機に叩きつけられていく。呻き声や悲鳴が混じるなか、化け物は殺戮を繰り返しながら部隊の中心に迫っていく。


 その巨体に圧倒されたのか、先ほどまで猛り狂っていた〈ラガルゲ〉は恐慌状態に陥り、その場から逃げ出そうとする。長槍を手にした騎兵は落ち着かせようと声をかけ、乱暴に手綱を引くが、オオトカゲは命令を無視して無理やり逃げ出そうとする。


「止まれ!能無しのトカゲめ!」

 騎兵は必死に手綱を引きながら叫ぶが、その声すら聞こえなくなる。


 体毛のない熊を思わせる異形の化け物は、コウモリの翼を思わせる飛膜を広げ、威嚇の咆哮を放った。その音は地を這うように低く、内臓を震わせるような恐ろしい音だった。


 そしてそのまま逃げ惑う〈ラガルゲ〉に向かって跳躍すると、巨大なツノを叩きつけるように頭部を振り下ろす。その強烈な一撃でオオトカゲと騎兵の双方が地面に倒れ、つぎの瞬間には肉が圧し潰されるような嫌な音を立てながら血溜まりに変わる。


 化け物の登場に一時的に混乱していた兵士たちだが、すぐに攻撃態勢を整え始める。訓練された部隊は楯を構え、長槍を前方に突き出すようにして陣形を組んでいく。


 指揮官が声を張り上げるなか、兵士たちは化け物に向かってじりじりと迫る。しかし彼らの動きはどこかぎこちなく、明らかに恐怖がその手足を縛っているように見えた。


 その化け物は〈ベリュウス〉の名で呼ばれる異形で、濃い瘴気を帯びていて、ただそこに立っているだけでも周囲に威圧感を撒き散らすような生き物だった。その鋭いツノ、そして恐るべき咆哮は、見る者の戦意を削ぎ取るのに充分すぎるほど脅威だ。


 守人たちによって〝十二体〟の存在が確認された〝鋭い牙を持つもの〟のうちの一体で、多くの守人を捕食したことで〝罪人を裁くもの〟としても知られた個体だった。


 長槍を構えた兵士たちは、猛然と突進してくる〈ベリュウス〉に立ち向かおうとするが、巨体の勢いに抗えるはずもなく、楯ごと踏み潰されていく。折れた槍の破片が飛び散り、潰れた楯と共に血溜まりを作り出す。


 ある者は水牛を思わせる巨大なツノで貫かれ、意図せず踏み潰され血液を吐き出しながら息絶えていく。別の者は巨大な手で鷲掴みにされ、そのまま力任せに握り潰されたことで上半身と下半身が切断されてしまう。その度に聞こえてくる悲鳴や鈍い音は、兵士たちの心をさらに萎縮させていく。


「陣形を崩さずに後退するんだよ!」

 指揮官の怒声が飛び交うが、もはや混乱は収拾がつかない。足元に転がる仲間の亡骸を見て、兵士たちは次第にその場を離れるようになる。


 異形の化け物――黒く硬化した灰色の体表で覆われた〈ベリュウス〉は、次々と撃ち込まれる矢や〈火球〉を物ともせず、投石機の残骸に突進し、四方八方に飛び散る木材で更なる混乱を生み出していく。奇妙なことに、その化け物が身動きするたびに灰色の体表から細かい灰が散っていくのが見えた。


「化け物は存在しなかったんじゃないのか――」

 兵士のひとりが怒りにまかせて叫ぶが、その声も途絶えることになった。


 部隊に襲い掛かる化け物は、もともと〈獣の森〉の深部が縄張りであり、かつての偉大な守人でさえ恐れて近づこうとしなかった存在だった。しかし森に立ち込める血液の臭いと兵士たちの騒音、そして呪術によって発生した濃い瘴気に呼び寄せられたのかもしれない。


 アリエルはその喧騒の中で混沌の異形〝鋭い牙を持つもの〟の姿を見つめていた。これまでに一度しか目にしたことのなかった恐るべき化け物が、兵士たちの頭蓋を砕き、肢体を引き裂いていく様子を、固唾を呑みながら見つめていた。岩のように硬い皮膚に覆われた巨体、そして赤く明滅する瞳が薄闇の中で妖しく輝くたびに死体が増える。


 緊張して息が詰まりそうになる。拠点に結界が張ってあるとはいえ、恐ろしい化け物を拠点の近くに呼び寄せてしまったのではないのか? 自責の念が脳裏をよぎり、後悔が鋭い爪のように胸を抉る。けれど、すぐにその考えを振り払った。


 どの道、化け物は拠点の近くまで来ていたのだ。それに進攻部隊を壊滅させる好機だったのも事実だ。アリエルは深く息を吸い込み、揺れる心を抑え込む。そのまま物陰から敵部隊を観察すると、何人かの呪術師たちが化け物に攻撃するための準備をしているのが見えた。


 呪術による一斉攻撃を仕掛けるつもりなのだろう。それで〈ベリュウス〉が倒れるとは思えなかったけれど、あの化け物が部隊を壊滅させるまでの間、呪術師たちの攻撃を妨害することにした。シェンメイに声をかけたあと、すぐに矢をつがえ、やじりに微かな呪力を纏わせていく。


 そして矢が放たれる――空気を裂く音さえも聞こえてこなかったが、〈矢避けの護符〉を使っていたのだろう。呪術師たちの周囲に突如発生した不可視の障壁によって、矢の軌道はそらされてしまい、すぐとなりに立っていた蛮族の喉を貫いた。その兵士が呻きながら膝をつくと、周囲がざわめく。


「クソっ……」

 思わず舌打ちしたあと、アリエルは弓での攻撃を諦め、〈ザザの毛皮〉から鋸歯状の刃を取り出す。


 赤黒い刀身は鈍い光を放ち、まるで血を求めるように共振する。アリエルは姿勢を低くすると、呪術師たちのやぐらに狙いを定めて駆け出す。


 凄まじい衝撃を受けたのは、ちょうどそのときだった。突如、横手から飛び込んできた影に撥ね飛ばされる。 攻撃を意識する間もなく、アリエルの身体は地面を転がっていく。視界が一瞬白く染まり、硬い地面に叩きつけられた感触が全身を駆け抜ける。


 顔を上げると、恐慌状態の〈ラガルゲ〉が駆けていくのが見えた。それは意図した攻撃ではなく、ただ逃げ回る途中での偶発的な事後だったのだろう。その巨体に突き飛ばされた青年は、肺が押し潰されるような痛みを感じながら立ち上がる。しかしそれで良かったのかもしれない。


 全身に痛みを感じたことで、〈ダレンゴズの面頬〉を装着していなかったことを思い出す。〈収納空間〉から素早く面頬を取り出し装着すると、不思議な静寂が広がっていく。どこからともなく太鼓の音と波が押し寄せる音が響いてくるような――身体の隅々まで呪力が行き渡り、力がみなぎってくるような感覚に支配されていく。


 深く息を吸い込みながら身体能力を向上させると、櫓に向かって駆け出す。不思議なことに、もう身体の痛みは感じなかった。今はただ、呪術師たちを始末したいという感情に突き動かされていた。


 アリエルが櫓の間近まで迫ったその時だった。空気が震え、地面が微かに揺れる。つぎの瞬間、呪術師たちによって巨大な〈火球〉が放たれ、轟音とともに化け物に向かって飛んでいくのが見えた。


 それはまるで、小さな太陽のように輝きながら空を裂き、周囲の木々を揺らし大気を焦がしながら飛んでいく。膨大な呪力が込められていたからなのか、近くにいるだけで凄まじい熱波が襲いかかってきた。


 アリエルは顔を覆い灼熱の波が押し寄せるなか、その場に踏み止まる。直後、〈火球〉は化け物の巨体に直撃し、爆音とともに赤い炎が弾け散った。


 一瞬の静寂が訪れる。辺りは熱気でかすみ、焦げた木々の残骸が舞い散るなか、黒煙の向こうから化け物が姿をあらわす。その灰色の体表にはわずかな焦げ跡がついているものの、擦り傷すら確認できなかった。


 化け物はゆっくりと呪術師たちの方向に頭部を向けた。その動きには、怒りに満ちた感情が含まれているように感じられた。そして化け物は大きく息を吸い込む。胸郭が膨れ上がり、灰色の体表が赤熱するように赤い光を帯びていく。身体の隙間から漏れ出す光は、まるで地の底で見た溶岩のように赤々と燃え立っている。


 化け物の喉元が燃え立つように輝き、一瞬の間を置いて――耳をつんざく咆哮とともに凄まじい〈火炎〉が吐き出される。その炎は空間さえ焼き尽くすような熱と呪力が込められた圧倒的な力の塊だった。


 燃え盛る〈火炎〉は一直線に呪術師たちが立つ櫓を襲う。その勢いはとどまることを知らず、櫓の周囲にいる兵士たちすら巻き込むようにして焼き尽くしていく。


 攻撃を察知した呪術師たちは抵抗しようと防御の呪術を発動していたが、膨大な熱量の前では無力だった。悲鳴を上げる間もなく、彼らの身体は黒く炭化し、瞬く間に灰となって崩れ落ちていく。


 周囲には火の粉が舞い上がり、立ち昇る煙は空を黒く染める。あれほど騒がしかった戦場には、恐怖を伴う沈黙だけが残されることになった。

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