第344話 41〈幻惑〉
それがふたりの目の前にあらわれたのは、執拗な追跡を振り切り、苦労して砦の近くまで戻ってきた時だった。
不意に視界が開け、鬱蒼とした森で大規模な敵部隊が展開しているのが見えた。数え切れないほどの蛮族たちが集結し、地響きのような喧騒が耳をつんざく。金属を打つ音や怒声混じりの命令が聞こえ、空気はただならぬ緊張感に満ちていた。
ゾクリとする気配に視線を動かすと、巨大なオオトカゲ〈ラガルゲ〉にまたがる騎兵たちが部隊の中央に配置されているのが見えた。牙を剥き出しにしたオオトカゲたちは、今にも蛮族たちに襲い掛かりそうな狂気じみた迫力を放っている。騎兵の手には長槍が握られ、その刃先は鋭く光っていた。
敵部隊はただ集結しているだけではないようだ。すぐ近くには投石機を準備する工兵が展開していて、大柄の男たちが次々と樹木を切り倒していくのが見えた。それらの木材は巨大な投石機を作るための資材として運び出されているようだった。周辺一帯に切り株が乱立し、まるで森が蟻に侵食されているかのような光景を作り出している。
「……相当な数だな」
アリエルは小声でつぶやく。
百を優に超える蛮族の歩兵が周囲を埋め尽くしている。彼らが手にする武器は粗末なものだが、原始的で力強い大剣や斧を振り回している蛮族もいる。その集団には規律というより、本能に基づく暴力そのものが見て取れる。
ふと視線を移すと、急ごしらえで組み上げられた
「森に巣食う〈混沌の化け物〉が、この大規模な戦闘部隊に襲い掛からないのは、きっと連中のせいだ」
アリエルの言葉にシェンメイはうなずく。
これだけ騒がしい部隊だ。本来なら〈獣の森〉を徘徊している化け物の餌食になっていてもおかしくない。その部隊が襲われていないということは、それを妨害する何かがあり、おそらくそれは呪術師たちによって展開されている結界なのだろう。
アリエルは敵部隊を見渡しながら考えを巡らせる。この数の歩兵と騎兵に直接攻撃を仕掛けるのは無謀だ。しかし結界を張る呪術師を排除すれば、〈混沌の化け物〉たちが容赦なく敵部隊に襲いかかるはずだ。
「呪術師を始末しよう。結界を張っている連中を失えば、あとは化け物どもが処理してくれるはずだ」
シェンメイはうなずいて、それから具体的な作戦について
「多勢に無勢で派手には動けない。だからこれまでのように、障害だけを排除して目的を達成する」
アリエルは〈ザザの毛皮〉から長弓と、敵から手に入れていた矢筒を取り出すと、攻撃の準備を整えていく。シェンメイも毛皮を脱いで青年に預けると、そっと瞼を閉じて精神を研ぎ澄ませていく。すると彼女の肌に彫りこまれていた刺青が微かに発光し、大気中の呪素を効率よく取り込んでいくのが分かった。
「行こう、敵部隊を混乱に陥れる」
彼女は幻惑の呪術を得意としているので、この作戦の重要な役割を担うことになる。
呪術師を排除したあとの混乱が、どれほどの効果を生むかは分からないが、これだけの大規模な部隊を放っておくことはできない。ふたりは、迫りくる敵の脅威に背を向けることなく、行動することを選択した。砦も近いので、もはや追跡者たちの心配をする必要もない。
森は薄暗く、つめたい風が吹き荒ぶたびに木々がざわめく。ふたりはその環境に溶け込むように動いていた。シェンメイが〈隠密〉の呪術を使うと、黒い
「そこだ」
アリエルは前方に見えた木立の切れ目を指さした。そこから櫓にいる呪術師たちの姿がハッキリと見えた。ふたりはじりじりと距離を詰め、攻撃に最適な場所に接近していく。
攻撃地点に到達すると、アリエルは弓を構え、静かに矢をつがえた。弓弦を引きながら、慎重に呪素を練りあげていくと、
呪術の負担に耐えきれずに自壊することを承知の上で放たれた矢は、音もなく森を駆け抜ける。
森の騒めきに溶け込むように、矢は櫓の周囲で見張りをしていた兵士の背中を正確に貫いた。身体をのけぞらせた兵士が膝をつくと、そこに二本目の矢が飛んできて致命傷を与える。兵士が地面に崩れ落ちると、異変に気づいた別の兵士が
その間、シェンメイは瞼を閉じながら小声で呪文を唱えていた。彼女が紡ぐのは幻惑の呪術〈錯乱〉だ。その呪術の効果は、部隊の中央で待機していた〈ラガルゲ〉たちにあらわれる。白い息を吐き出していたオオトカゲは突如として興奮状態に陥り、近くに立っていた兵士たちの言葉を無視して暴れるようになる。
「さあ、お前たちは自由だ」
彼女の静かな言葉とともに、〈ラガルゲ〉は鎖を引きちぎるように暴れ、周囲にいた兵士たちに見境なく襲いかかり、すぐそばにいた兵士の頭部を咬み潰していく。
「クソっ、一体なんだって言うんだ!」
百人隊長と思われる大柄の兵士は、数人の部下に声を掛けると、持ち場を離れて対応に追われる。混乱が広がるなか、ふたりは静かに動き出した。
「今だ」
ふたりは草むらを這うように進み、櫓の影に忍び寄る。
兵士たちが興奮した〈ラガルゲ〉に対処するために駆け回るなか、さらに距離を詰め、存在を察知されることなく呪術師たちに接近することができた。敵の目に映るのは森の木々が作り出す影だけだった。その影の中、ふたりの行動はまだ誰にも気づかれていない。
身を守るための結界を使われていたら厄介なので、アリエルは櫓を登り、一気に呪術師たちを斬り殺そうとする。けれどその動きを見て、シェンメイがそっと手を伸ばして彼の腕を掴む。
「待って」
彼女は首を横に振り、そっと目を伏せながらその場に膝をついた。
「ここまで接近できれば、あとは幻惑の呪術でどうにでもなる」
すぐに膨大な呪素が彼女の周囲に集まり、大気が震えるような錯覚を起こす。アリエルは異様な瘴気に目を細め、周囲を警戒する。
「何をするつもりだ?」
答えはなかった。彼女の手が地面に触れた瞬間、土がうねりを上げるように盛り上がり、その中から巨大な節足動物の幻影が姿をあらわした。それはムカデにも似た異形の存在で、人の背丈を遥かに超える不気味な姿をしていた。
幻惑の呪術〈狂乱〉によって生み出された幻影は、無数の脚を音もなく動かし櫓に取り付くと、巨体にも
幻影が櫓の頂上に到達すると、ひとりの呪術師の背後に忍び寄り、その体内に侵入するように消えていく。得体の知れない幻影に侵入された呪術師は、違和感に気づいたように振り返るが、すぐにその表情が歪んで口から奇妙な含み笑いを漏らす。
「おい、どうした」
その異変に気づいた周囲の呪術師たちが声を掛けた瞬間、彼は狂ったように笑い声をあげた。
つぎの瞬間、彼の目の前に炎が発生する。それは小さな炎ではなく、破壊の意志を持つ巨大な〈火球〉だった。彼はそれを
「なっ!?」
炎に包まれた呪術師は絶叫しながら櫓から落下していく。悲鳴とともに地面に叩きつけられたその身体は動かなくなり、焼け焦げた臭いが風に乗って広がる。
狂乱した呪術師は笑い声を上げながら次々と〈火球〉を放ち、周囲の兵士たちを焼き尽くしていく。櫓の近くで作業していた工兵も次々に炎に巻き込まれ、悲鳴を上げながら逃げ惑う。
「誰か、あいつを止めろ!」
呪術師たちが声を荒げて呪文を唱えようとするが、その手は震えていて、咄嗟の対処ができない。彼らの視界には悪夢のような幻影が映り、かれらの心を恐怖で蝕んでいた。
と、そこに森を震わせるような轟音が響き渡る。アリエルが視線を向けると、巨大な異形が突進してくるのが見えた。それは工兵たちが組み上げていた投石機に突進し、木端微塵に破壊しながら工兵たちを叩き潰していく。周辺一帯の結界が解かれたことで、瘴気に誘われていた化け物がやって来たのだろう。
「ここからが本番だ」
ふたりは静かに次の攻撃の準備に取り掛かった。
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