第347話 44


 アリエルは、疾走する〈ラガルゲ〉のくらに跨りながら周囲の動きに警戒していたが、木々が視界を遮り、耳に届くのは枝葉をかき分けて進むオオトカゲの足音だけだった。けれどその静寂の裏に、何か得体の知れない脅威が潜んでいるような感覚がしていて、つねに心を緊張させ続けていた。


 背後から〈ベリュウス〉の気配は感じられなかったが、それが確実に去ったことを意味するわけではない。あの恐るべき化け物の執念深さを思えば、ここで油断するわけにはいかなかった。


 そのまま森を駆けていると、前方から黒煙が立ち昇っているのが見えた。

「煙……?」シェンメイが首をかしげる。

「何か燃えてるみたい」


 木々の隙間から見えてきたソレは、ただの火災とは異なる嫌な気配に満ちていた。火災によって煙が立ち昇る場所に近づくにつれて、鼻を突く悪臭が濃くなっていくのが分かった。煙のなかに焦げた肉と血の臭いが混ざり合い、それに糞尿の強烈な悪臭が漂ってくる。


 地面に無造作に投げ出された死体が視界に飛び込んできた。手足が折れ曲がり、首が不自然にねじれた蛮族たちの死体だ。彼らも砦を襲撃するための部隊に所属していたのだろう、その死に様はあまりにも無残だった。


 その中には正規兵らしき者たちの姿も見られた。揃いの革鎧は無残に引き裂かれ、恐怖に引きつった表情がそのまま顔に刻み込まれていた。


 シェンメイは〈ラガルゲ〉の速度を緩めると、警戒しながらその場を歩かせた。足元には戦士たちの千切れた腕や内臓が転がり、乾き切っていない血液は赤黒い血溜まりになって広がっている。大樹の幹には深い爪痕が刻まれて、血液がこびり付いていた。まるで何度も兵士の身体を叩つけたかのように、周囲には手足や内臓が散乱していた。


 悲惨な状態だったのは死体だけではなかった。あちこちで木々が燃え、炎と黒煙が立ち昇っている。 地面はいたるところで陥没し、無数の穴が穿うがたれている。その穴の底には、原形も残さないほどに潰された兵士の残骸や血溜まりが見える。


「……〝鋭い牙を持つもの〟の仕業だな」

 アリエルは思わず溜息をついた。これほど広範囲で、しかも徹底的な破壊と殺戮を行う存在はひとつしか考えられなかった。


 森を見回しながら、この場所で何が起きたのか考えてみることにした。おそらく、先ほどの襲撃以外にも、〈ベリュウス〉は獲物になる集団を見つけ出していて、容赦なく襲いかかっていたのだろう。それは捕食のためではなく、単なる虐殺の楽しみとして行われたように思えた。


 アリエルは深く息を吐き出しながらも、胸の奥が冷たくなるのを感じた。あの化け物が砦を襲撃するようなことになれば、果たして自分たちは生き延びることができるのだろうか――その疑問が、心に重くのしかかった。


 とにかく、不安を押し殺しながらも兄弟たちが待つ砦に向かうことにした。立ち止まっていては危険が増すばかりだ。それに、あの化け物〈ベリュウス〉の脅威が完全に去ったわけではない。


 シェンメイが〈ラガルゲ〉の首筋を撫でながら、これまで聞いたことのないような優しい声で何かを語りかけているのが聞こえたときだった。背筋を凍らせるような感覚が走り抜けた。何かが近づいてくる――それも邪悪で濃密な瘴気を纏った何かが。


 鼻を突くような腐臭が漂い始める。血肉の臭いに混じるように、腐敗した生物特有の酸っぱい臭いと土臭さが風にのって広がる。シェンメイは自らの身体を抱きしめるような仕草をしてみせたあと、恐怖を追い払うように息をついた。


 それから彼女は幻惑の呪術を使い、ふたりの姿を〈ラガルゲ〉ごと〈隠密〉の霧で覆い隠していく。気配を消し、息を潜めながら、ゆっくりとその場から離れていく。やがて無数の白い腕が伸びてくるのが見えた。そして木々をかき分けるように、ソレは姿をあらわした。


 蛇にも似た細長い胴体は――ミミズを彷彿とさせる粘液で覆われていた。ヌメリのある体表には、無数の小さな穴が開いていて、そこから奇妙な気泡が弾ける音が聞こえる。化け物が滑らせるように胴体を動かすたび、その穴から黄土色の液体が滲み出し、地面に滴り落ちて植物を枯れさせていた。


 その気色悪い胴体の両側面には、人間の腕を思わせる奇怪な器官が無数についていた。肘の関節が異常な角度で曲がり、指先には針のように鋭い爪がついている。無数の腕は身体の動きに合わせて不規則に動き、獲物を探す触手のように空を掻いていた。


地走じばしりだ」

 混沌の化け物は胴体をくねらせながらゆっくりと前進してきた。


 その巨体は〈ベリュウス〉にも匹敵し――いや、細長い分だけその存在感はさらに異質なモノになっていた。細長い胴体の先端には、ムカデの顎を思わせる巨大な牙が突き出している。牙の間から垂れる透明な体液は腐食性を持つのか、地面に触れると音を立てて蒸気を上げた。


 森に数多く存在する〝地走り〟の亜種なのかもしれない。脈動する胴体の動きとともに異様な臭いが風に乗って広がっていく。死肉を求めていることは間違いない。その鋭い牙と無数の腕が生み出す恐怖は、あの〈ベリュウス〉とは異なる種類の悪夢だった。


 アリエルはシェンメイに小声で合図し、音を立てないように静かにオオトカゲを移動させた。〈鎮静〉の呪術を使い〈ラガルゲ〉を落ち着かせているのだろう。彼女の額に汗が滲んでいるのが見えた。オオトカゲも怯えているのか、土を掻くようにしながら身を低くして移動する。


 化け物はしばらくその場に留まり、地面に散らばる死体や焦げた木々の様子を観察しているように見えた。眼球に相当する器官はないが、鼻が利くのか、死肉に気を取られているようだった。やがて無数の腕を動かしながら死骸を持ち上げると、こぼれ落ちそうな内臓を口元に運ぶ。咀嚼するたびに細長い胴体が脈動し、牙から涎を滴らせた。


 森に響く化け物の湿った音と、吐き気を催す臭いのなか、アリエルたちは息を殺しながら移動する。無事に離れられると安堵しかけたその時だった。


 前方の茂みが揺れ、のっそりとした動きとともに別の〈地走り〉が姿をあらわした。森の中でヌラヌラと日の光を反射する巨大な身体は、腐臭と瘴気に覆われたこの地に完全に溶け込んでいるかのように見えた。


 また亜種なのだろう。先ほどの化け物とは異なる異様さを放っていた。全体的にぶくぶくと膨れた胴体を持ち、無数の腕は触手のように絶えずうごめいていて、それぞれの先端には鋭い棘がついている。その腕が不規則に空を掻き回しながら進むたび、小枝が切断されて落ちていく音が聞こえてくる。


 けれど〈地走り〉はふたりに気づく素振りを見せず、すれ違うようにして歩を進めていく。アリエルたちは思わず息を止める。ほんの数歩の距離しか離れていない場所を、その巨体が通り過ぎる。触手の先端がわずかに揺れ、大樹の幹に絡みついては深く傷をつけていくのを見て、ふたりは冷や汗をかいた。


 やがて異形は死体のそばで立ち止まると、長い腕で死体を絡め取って口元に運んでいく。その口は腐った果実のような裂け目を持ち、内側には無数の牙が並んでいた。そして咀嚼するたび、骨が砕ける不快な音が森に響く。腐敗臭がさらに濃くなり、アリエルたちは吐き気をこらえながら、ただその場にとどまることしかできなかった。


 死体を貪る異形の姿を見つめながら、アリエルは胸の奥に重く暗い感情を抱え込んでいた。この森はかつて〈境界の守人〉たちの力によって守られ、ある程度の秩序が保たれていた。しかし目の前で繰り広げられている光景は、その秩序の崩壊を明確に示していた。


 この戦がもたらしたのは守人たちの死や混乱だけではない……心の中でそう思いながらアリエルは視線を落とした。この森はもう、かつての平穏を取り戻すことはできないかもしれない。今や〈獣の森〉は、縄張りを持たない混沌の化け物が跋扈ばっこする恐ろしい場所に成り果ててしまった。


 それでも、この状況を嘆き続けていても問題の解決にはつながらない。アリエルは静かに深呼吸をすると、死肉を貪る化け物から視線をそらした。


「行こう……ルズィたちが待ってる」

 小声でシェンメイに合図を送り、慎重にその場を離れた。


 背後からは化け物が死肉を咀嚼する不快な音が聞こえ、しばらく耳に残ることになったが、ふたりは不安を押し殺しながら砦に向かって移動を開始した。

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