第348話 45 祭壇〈ウグ・サロス〉


 アリエルたちは、〈境界の砦〉の高い防壁が見える場所まで戻ってこられだが、砦を取り囲むようにして敵の攻撃部隊が配置されていて、思うように近付くことができなかった。敵は進攻を本格化していて、あちこちで小隊が編成され、先遣部隊として砦に送り込まれている様子が確認できた。


 とくに問題だったのは、広範囲に展開されていた〈念話〉を阻害する呪術だった。砦内にいるルズィや兄弟たちと連絡を取ろうと何度も試みたが、目に見えない壁に阻まれてしまっていた。厄介な呪術師は始末したと思っていたが、まだ生き残りがいたようだ。


 それでも、砦につながる道を見つけるしかない。ふたりは〈ラガルゲ〉の背に乗ったまま、ぐるりと砦の周囲を移動しながら安全な場所を見つけることにした。視界を遮る木々の陰から砦の状況を観察しながら進入路を模索するが、どこを見ても敵の部隊が展開している。


「抜け道は……見つからないな」

 そもそも外敵からの攻撃を防ぐための建造物であり、それに適した地形に築かれているため、苦労せずに侵入できる場所は存在しなかった。しかしその探索の途中、いくつか奇妙な光景に出くわすことになる。


 敵部隊が簡易的な陣地を設けた場所は、すでにその機能を失っていて、無残な光景が広がっていた。敵兵たちの死体があちこちに散乱していた。彼らの装備は焼け焦げ、鋭利な爪や牙で引き裂かれたかのような生々しい痕が残されていた。


 その中でも目を引くのは、巨大な化け物たちの死骸だった。人間の二倍近い背丈を持つ大熊の死骸には無数の槍が突き刺さったままだ。その毛皮は焼けただれ、一部は骨が露出している。あちこちで出没するようになった混沌の化け物から逃れ、砦の周囲を徘徊していた大型の獣たちだろう。


 少し離れた場所には鋭い牙を持つ大猪が横たわっていた。その死骸の脇には、刀剣や凹んだ楯が散らばっている。ひと目見ただけでも激しい戦闘が繰り広げられたことが想像できた。呪術による焼痕が無数に残され、草木は枯れ果てていた。濃い血液と焦げた肉の臭いが鼻をつき、〈ラガルゲ〉でさえ落ち着かない様子で鼻を鳴らしている。


「舐めてかかるからそうなるんだ」

 シェンメイが吐き捨てるように言う。


 やはり砦に近づくためには敵の包囲を突破するしかない。そのために、どうにかして敵部隊の目を欺き、可能な限り迅速に行動する必要がある。アリエルは〈ラガルゲ〉の厚い鱗を撫でながら、つぎの行動について考えていた。


 総帥の塔を襲撃した部隊が使った縦穴なら地底から砦に入ることもできるが、その穴はすでに塞がれていて、この場所からは相当な距離があるため断念していたが……青年の視線は、まだ見ぬ突破口を求めて彷徨い続けていた。


 やがて化け物によって蹂躙された別の部隊の痕跡を見つけることになった。そこには見渡す限り死体が散乱し、戦闘の激しさを物語る痕跡が生々しく残されていた。すでに見慣れた折れた槍や血に濡れた剣、焼け焦げた倒木……風に乗って漂う腐臭が鼻を突き、〈ラガルゲ〉は落ち着かない様子で足元を掻いている。


 それらの死体の間を進むと、血まみれの死骸が積み上げられた異様な光景が見えてきた。その中央には石を組み上げて作られた祭壇があった。森の民が地底の神〈ウグ・サロス〉を称え、祈りを捧げるために大切にしてきた神聖な場所だ。


 その祭壇は砦の〈世話人〉たちによって管理されてきたが、無残にも破壊されてしまっていた。襲撃者たちの仕業だろう。


〈ウグ・サロス〉は地底を司る神々の一柱であり、戦と死の神でもある〈名もなき小さな蛇〉とも関連のある神だと信じられていた。森の部族たちはこの神を畏怖し、その力によって人々を地の底に引きずり込むと信じて疑わなかった。


 その祭壇には、この地に跋扈ばっこする悪意だけを地の底に連れ去ってくれるように懇願する人々によって供物が捧げられていた。しかし小さな壺に盛られた干し肉や果実、精巧に彫られた装飾品は――どれも荒らされ、破壊されている。


「〈ウグ・サロス〉の祭壇だな……酷いことをする」

 シェンメイがつぶやく。その声はどこか悲しみを帯びていた。


 森の民は死に結び付けられる神々さえも敬い、供物を捧げることで最小限の死に留めてもらい、森の秩序が保たれることを願う。しかしその祭壇すらも、容赦なく破壊されていた。


 祭壇の中心には、ミミズを象った神像が横たわっていた。しかし、その木像も無残に破壊されていて、その切断面から鋭利な刃物によるものだと分かった。神像の彫刻には細かい模様や装飾が施されていたが、破壊によってその神秘的な美しさは損なわれてしまっていた。


「襲撃者たちの仕業だな……」

 アリエル神像を手に取ると、その切断面を指でなぞる。


 しかし、彼らは祭壇を冒涜した直後に化け物の襲撃を受けたのだろう。辺りには兵士たちの無残な死体が散らばっていた。顔を苦悶に歪めたまま絶命している者、上半身だけが残った者、地面に叩きつけられて砕けた楯とともに横たわる者……死体の中には大きな爪痕や牙による噛み跡が残されている者もいた。


 破壊された祭壇が引き金になったのかは分からないが、それは、〈ベリュウス〉のような〈混沌の化け物〉によって行われた圧倒的な暴力と破壊の痕跡だった。


「やはり森の秩序そのものが崩壊している」

 アリエルは溜息をついたあと、祭壇に目を向けた。破壊された神像が静かに横たわるその様子は、まるで守人たちの死と、その後に続く混沌の予兆を見ているかのようだった。


 けれど、砦を包囲する部隊のひとつが壊滅していたのも事実だ。その部隊がなくなったことで生じた包囲網の穴をつかい、砦に接近することにした。ふたりはオオトカゲの背に揺られながら、慎重に砦に近づく。黒く高い石壁が見えてきたときだった。不意にどこからともなく矢が飛んできた。


 その矢はふたりの前方にある樹木に鋭く突き刺さる。それを見たシェンメイが声を荒げる。


「ふざけんな、この野郎! てめぇは兄弟の区別もつかないのか!」


 その怒声が届いたのか、石壁の頂上に潜んでいた影が動いて、ひとりの男が姿をあらわした。顔は乾いた泥と煤にまみれ、目は疲れ切っているが、それでも警戒を緩めない。


「そこの女、大きな声を出すな。縄梯子をおろすから、さっさと上がってこい」

 けれどシェンメイは腕を組んだまま首を横に振った。


「だめだ。この子も連れていく」

 そう言って〈ラガルゲ〉の首筋を撫でる。それに応えるように、大きなトカゲは喉を鳴らした


「クソ、仕方ない」

 壁上の男は舌打ちしたあと、低い声で続けた。

「排水路を開くから、そこから入れ。それと、入り口の擬装を忘れるなよ」


 すぐ近くに川に続く排水路がある。ふたりはすぐに移動することにした。周囲を見渡したが、幸いにも敵部隊には気づかれていないようだ。


 巧妙に隠された入り口が見えてくると、ふたりを乗せた〈ラガルゲ〉は防壁の隙間に身体を滑り込ませた。シェンメイは短い詠唱を行い、幻惑の呪術で排水路の入り口を忘れずに隠蔽した。


 排水路の中は鼻を突く悪臭で満ちていた。オオトカゲは膝まで水に浸かりながら、底に堆積したヘドロに注意しながら進む。下水としての機能も持つこの通路は、奥に進むたびに狭くなっていく。


「ひどい臭いだ」

 シェンメイは鼻をつまむが、臭いはどうしようもなかった。


 やがて金属の軋みが聞こえてきた。暗闇のなかで落とし格子がゆっくりと持ち上がっているのだろう。ふたりはさらに奥へと進んだ。


 しばらく進むと、より頑丈で複雑な造りの落とし格子が見えてくる。鋼鉄が緻密に組み合わされ、外部からの侵入を拒む頑強さは一目で分かった。この厳重な仕掛けは、砦の中に侵略者が入り込むことを防ぐためだけでなく、混沌の化け物の脅威に備えるためのものでもあった。


「行こう」

 アリエルの声を合図に、オオトカゲはゆっくりと暗闇のなかを進んでいく。

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