第349話 46


 砦内に入ると、ふたりの背後で重厚な落とし格子が閉じられる。するとすぐに砦内の雰囲気がいつもと違うことに気がつく。遠くから聞こえてくる喧騒と血の臭いが、砦内に戦場の緊張感を漂わせている。


「ここで分かれよう」

 シェンメイは〈ラガルゲ〉の首筋を撫でたあと、ちらりと振り返ってみせた。その目は鋭いが、どこか安堵の色が混じっている。


「ヤァカの厩舎でこの子を休ませる。任務の報告は任せるよ」

 彼女は短く告げると、疲労の色濃いオオトカゲを励ますように優しい声をかけ、あちこちに散らばる塔の瓦礫を避けながら厩舎に向かう。


 オオトカゲに怯えるヤァカと世話人の困り果てた表情が思い浮かんだが、〈ラガルゲ〉のおかげで窮地から脱出できたのも事実だった。だからシェンメイの好きにさせることにしたのかもしれない。


 アリエルも陰鬱な雰囲気が漂う砦内を進み、戦闘を指揮していたルズィのことを探したが、その姿は見当たらない。食堂のそばで休んでいた世話人を見つけると、見知った老人に声をかける。どうやら、ルズィは正門付近にいるようだ。


「敵の先遣部隊が、また攻撃を仕掛けてきているようだ」

 世話人は疲れた表情でそう告げた。


 ふたりが砦内に入るために利用した排水路付近が静かだったのは、混沌の化け物の襲撃によって敵部隊が壊滅していたからなのだろう。


 周囲を見回すと、忙しなく働く世話人の姿や建設隊によって補給物資が運び込まれていく様子が見えた。そして遠くからは爆発音が聞こえてきていて――まさに戦場の様相を呈していた。


 世話人に〈ウグ・サロス〉の祭壇が破壊されていたことを伝えることにした。今はどうすることもできなかったが、これまで世話人たちが管理してきたので、伝えておくべきだと考えたのだ。すると老人の表情に、悲しみと諦めが入り混じるのが見えた


「そうか……」かれは深い溜息をついた。

「連中は神々の祭壇まで破壊したか」


 しばらくの沈黙のあと、老人はぽつりとつぶやいた。

「この戦が無事に終わったら、一緒に直しに行こう。地底の神〈ウグ・サロス〉を蔑ろにしては、さらなる災厄を呼ぶだけだからな」


 アリエルがうなずくとほぼ同時に、耳をつんざくような爆発音が轟いて、傾いた塔がグラリと揺れるのが見えた。敵の呪術師による攻撃、あるいは投石機による攻撃なのだろう。とにかくルズィに会うため、アリエルは正門に向かうことにした。


 砦内を進むにつれ、周囲の騒音が増していく。怒声、悲鳴、金属が打ち鳴らされる音、そして呪術が炸裂する轟音が混ざり合い、耳障りな――あるいは、聞き慣れた戦場の音を奏でていた。


 空気には焼けた金属の臭いが混じり、煙が視界を曇らせる。砦内からは呪術と矢が次々と放たれ、その光が網膜に閃光を焼きつけていくようだった。


 長弓を手にした守人たちは――その習熟の困難さを含め、呪術を扱う者に匹敵するほど貴重な戦力だったので、つねに危険が伴う壁の頂上に配置されてはいなかった。しかし呪術による支援が行われ、彼らの狙いが外れることはなかった。


 アリエルは、負傷し後退する兄弟たちとすれ違いながら防壁の頂上に立つと、砦に攻撃を仕掛けていた敵の姿を確認した。すると重装甲の兵士たちが楯と槍を構えながら前進してくる様子が見えた。


 彼らの背後には鎖につながれ屍食鬼グールたちがいて、兵士に駆り立てられるようにして前進する姿が見られた。しかし砦の周囲に展開された聖女の結界のおかげなのか、一定の距離まで近づくと、その身体が燃えるようにしてただれるのが見えた。堪らず屍食鬼は後退し、長槍や棒を使って追い立てていた兵士たちに襲い掛かる。


「クソ、あいつら化け物まで使役してやがる」

 古参の守人のひとりは悪態をつくと、近づいてきていた重装甲の兵士に向かって〈火球〉を撃ち込む。炎に包まれた兵士は叫び声をあげながらのた打ち回り、周囲の兵士に恐怖を伝播させていく。


 混沌とした戦場の様子を眺めていると、どこからともなく矢が飛んでくる。しかしその多くは〈矢避けの護符〉の効果によって無力化されていた。呪術が付与された強力な矢でもなければ、守人の脅威にはならないと敵も分かっているのかもしれないが、それだけ攻撃に必死なのだろう。


 ルズィは壁際に立ち、真剣な面持ちで戦況を見据えていた。彼は時折、近くの戦士に指示を出していたが、多くの時間を物思いに耽っていた。この状況を打開する方法を模索しているのだろう。


 アリエルは息を整えながら、ルズィに近づく。伝えるべきことが山積していた。森での化け物の暴走、進攻部隊の壊滅、そして爬人の司令官を暗殺したこと――どれも戦況に重大な影響を及ぼす可能性があった。


 その混沌とした状況のなか、ルズィはアリエルの姿を見つけると、安堵したようにホッと息をついた。〈念話〉の妨害によって連絡が取れなくなってから、ずっと兄弟の動向が気になっていたのだろう。


「敵司令官の暗殺には成功した」

 その言葉に、ルズィは一瞬驚きを見せたが、すぐに鋭い眼差しに戻る。


「それにしては浮かない顔だな……何か問題が起きたのか?」

 その言葉にアリエルはうなずいたあと、言葉を選びながら続けた。


「敵の司令官は爬人だった。蛇のような姿に鱗に覆われた身体を持ち、異常な戦闘能力を持つ戦士だった。シェンメイと協力して何とか排除できたが――」


 ルズィの顔は険しくなり、眉間の皺が深く刻まれる。彼の混乱と困惑が伝わってくるようだった。


「爬人だと? 存在そのものが疑問視されていた古い種族だぞ。そんな厄介な連中まで、砦の襲撃に関与しているのか……」


 彼は小声でそうつぶやくと、地図を手に矢がとどかない場所まで移動する。アリエルはそのあとを追いながら、進攻部隊のいくつかが壊滅していたことも報告した。


「でも――」と、ルズィは顔をしかめる。

「それにも悪い知らせがあるんだろ?」


「ああ、敵部隊を壊滅させたのは、〝鋭い牙を持つもの〟のうちの一体〈ベリュウス〉だった」


 その名を聞いた途端、ルズィの金色の眸が見開かれる。

「〈ベリュウス〉だと? どうしてあの化け物が」


 ルズィはその身にまとう呪素が揺らぐほどに動揺し、額に手を当てて考え込む。

「混沌の化け物どもが暴れているとなれば、俺たちの計画にも影響が出る。しかも、それが〈ベリュウス〉になると……状況はさらに複雑になるぞ」


 アリエルはうなずいたあと、机に広げられた地図を指さしながら、砦に入る前に確認していた敵部隊の位置を次々と報告していく。ルズィは彼の説明を一言も漏らさないよう聞き、地図に印をつけていった。


 ちなみに、戦狼いくさおおかみの群れを率いるラライアは砦の外で待機中だった。彼女は敵部隊に攻撃を仕掛けようとしていたが、すぐに攻撃を中止させることにした。ルズィは守人のひとりを近くに呼ぶと、作戦の変更を伝えるために伝令として送り出した。敵の本隊が到着してから、もっとも効果的な打撃を与えることにしたのだ。


「ところで、兄弟。さっきからひどい臭いをさせていることに気づいているか?」

 ルズィがふと笑みを浮かべて言った。


 アリエルは自嘲気味に肩をすくめた。

「働き者なんだ。もしよかったら、水浴びをしたいので許可をいただけますか、指揮官殿?」


「もちろんだ。ついでに休息も取ってくれ、どの道、この攻撃は長く続かない」

 軽い冗談を交わしたあと、アリエルは居室として利用していた塔に向かうことにした。


 塔に向かう道は石畳で舗装されていたが、至るところに泥や血の跡がこびりついていた。部屋に着くころには、砦の外壁が夕陽に照らされているのが見えた。遠くから微かに喧噪が聞こえていたが、ここは不思議と静かだ。


 アリエルは手早く毛皮と革鎧を外し、汗と泥にまみれた黒衣を脱ぎ捨てた。装備の重みから解放されると、気持ちが落ち着くような気がした。


 水桶を手に取ると、大きな水瓶から冷たい水を汲んで頭から浴びていく。その水の冷たさに、一瞬息を飲んだが、我慢して汚れを洗い流していく。そして窓の外を見ながら、アリエルはぼんやりと思った。この静けさは長く続かないだろう、と。

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