第350話 47


 日が落ち、漆黒の闇が砦を包み込んでいくなか、アリエルは気を引き締めながら防壁の周囲を巡回していた。暗闇に沈み込む森では篝火が揺れる光景と、敵軍の太鼓の音が重く響いている。防衛側の守人たちを緊張させ、休ませないための嫌がらせなのだろう。その音は、これから始まるであろう激しい戦いの予兆でもあった。


 ルズィが戦闘を指揮する正門では、今も断続的に激しい攻撃が行われているようだった。投石機によって石弾が撃ち込まれ、木製の矢盾が悲鳴を上げながら裂ける音が聞こえてくる。無数の矢が空を裂き、火矢が夜闇を明るく照らす。激しい攻防が続いている様子が遠くからでも伝わってくるようだ。


 しかし激しい攻撃に晒されていたのは正門だけではなかった。砦内のあちこちからも戦闘音が断続的に聞こえていた。敵の包囲がじわじわと狭まり、全方位から圧力をかけていることが分かる。


 防壁の頂上に上がったアリエルは、歩廊を利用して砦の周囲を監視することにした。移動するさいには光源になるような松明などは使わず、〈暗視〉の呪術を使いながら目立たないように移動する。


 しばらくすると、矢狭間に立つ兄弟たちの姿が見えてきた。暗闇のなか接近してくる敵の姿が見えたのだろう、兄弟のひとりは静かに弓を引き絞り、標的目掛けて矢を射る。放たれた矢が空を切り裂いて飛ぶ音は聞こえるが、標的がどうなったのかは分からなかった。


「侵入者だ、すぐに射殺せ」

 ひとりの射手が小声で敵の接近を知らせる。狭間から覗き込むと、先遣部隊の一部が鉤縄と梯子を使い防壁をよじ登ろうとしているのが見えた。軽装で素早い彼らは、奴隷を囮にしながら、岩陰に隠れるようにして近づいてきていたのだろう。


「今だ」鋭い指示とともに一斉に矢が放たれる。

 暗闇の中でも〈暗視〉によって正確に狙いを定められた矢は、いくつもの影を地面に叩き落としていく。敵兵が短い悲鳴を上げて崖下に転げ落ちていく音は、戦場の騒音に混じるようにして掻き消されてしまう。


 先遣部隊の攻撃は、主に情報収集を目的とした威力偵察だったのだろう。小規模ではあるものの、その動きには一貫性があった。


 アリエルは目を細めながら呪素を集中させると、遠くの木陰で敵兵に合図を出していた兵士を見つける。小規模な部隊を指揮する十人隊長なのかもしれない。


「連中に壁の情報を持ち帰らせるわけにはいかない」

 射手たちは狭間を移動しながら、逃げ出そうとする敵を執拗に狙い続けた。狭間から飛び出した矢は、次々と敵兵の背を貫いていく。


 呪術の効果が付与されたやじりが使われることもあり、敵兵に命中した瞬間、小さな破裂音とともに血液と肉片が飛び散る様子も見られた。


 アリエルも長弓を手にすると、遠く木陰に身を隠していた兵士に向かって矢を射る。〈風刃ふうじん〉の効果が付与された矢は凄まじい速度で飛び、十人隊長と思われる兵士の喉に突き刺さる。喉元に当てた手が鮮血に染まっていくのが見えると、青年は結果に満足し、あとのことは射手たちに任せて先に進むことにした。


 歩廊を進むうち、敵が本格的に攻撃していた地点が見えてくる。すでに日が落ちていたにもかかわらず、そこでは防壁の一部が集中的に攻撃されていて、石弾や呪術が壁に衝突する鈍い音が聞こえていた。


 ルズィの判断で呪術を使える数少ない兄弟たちが派遣されていて、敵の猛攻に応戦している様子も見られた。敵兵が壁に梯子を立てかけながら、次々と登ろうとしている場所には、豹人の姉妹でもあるノノとリリが陣取っていて、敵の侵入を許さないという構えで戦っていた。


 長方形の板楯を構えた部隊が接近してくると、姉妹から巨大な炎の球が放たれるのが見えた。〈火球〉は暗闇を赤々と照らし、兵士たちに着弾すると、爆発とともに辺りを焼き尽くしていく。敵兵たちは悲鳴を上げながら燃え上がり、のた打つようにして地面を転がる。


 弓を手にした小集団は、目に見えない風の障壁によって攻撃が封じられ、逆に〝かまいたち〟めいた鋭い風の刃で身体を切り刻まれ倒れていく。姉妹の〈風刃〉は肉体を裂くだけでなく、敵兵の革鎧すらもズタズタに引き裂くため、重装歩兵も迂闊に近づけない状況になっていた。


 けれど敵の集団の中には、一時的に呪力を無力化する護符やら道具を身につけた者たちもいて、姉妹の攻撃だけでは圧倒することはできなかった。呪術と矢が飛び交う戦場は異様な緊迫感に包まれていく。防壁に撃ち込まれる石弾の衝撃で歩廊が揺れるたび、兄弟たちは身体を低くする必要があった。


 森に立ち込める暗闇は、敵味方を問わず恐怖の底に引き摺り込み、戦場は混沌とした様相を呈していく。


 襲撃者たちは、〝破城槌〟とも〝衝角〟とも呼ばれる巨大な丸太を使った兵器を用意していたのか、楯を構えた奴隷たちに守られながら防壁に迫る。ボロ布を身につけた軽装の奴隷は容易く処理することができたが、代わりはいくらでもいるのか、ひとり倒れてもすぐに別の奴隷が駆けてくる。


 その奴隷たちの精神には――呪術による何かしらの強制力が働いているのか、彼らは死に物狂いで兵士たちを守ろうとしていた。


 防壁の上では、豹人の姉妹が冷徹な表情で接近してくる部隊を見下ろしている。リリの手の中で炎が渦を巻き、燃え上がる音が辺りを包み込んでいく。そして〈火球〉が撃ち込まれ、破城槌を両側から抱えていた集団に襲い掛かる。巨大な炎の塊が集団の中心で炸裂すると、そこから立ち昇る炎が兵士たちを瞬く間に飲み込んでいく。


 悲鳴が夜の闇を貫き、兵士たちは火だるまになって転げ落ちる。肉が焼ける臭いが立ち込め、敵兵の列に混乱が広がる。燃え盛る破城槌は放棄され、その場に残された奴隷たちは恐怖に駆られ散り散りになって後退を始めた。けれど木々の間から新たな兵士があらわれ、今度は車輪と屋根のついた破城槌で攻めてくる。


 敵側の呪術師も身を隠しながら近づくと、歩廊に立つ守人たちを狙い、〈石礫〉や〈火球〉を撃ち込んでくる。炎が夜空を切り裂いては、壁に直撃して火花を散らしていく。幸いなことに防壁の上には遮蔽物が複数設置されていたので、守人たちは身を隠して攻撃を回避することができていた。何度か狙撃されたが、負傷する者は少ない。


 敵は昼夜を問わず攻撃を仕掛けてくるため、守人たちの表情には疲労の色が浮かび始めていた。それでも、防御側が優位なことに変わりない。防壁は高く、敵兵がたどり着く前に射撃や呪術で撃退できた。しかしその油断を狙うように、敵も執拗に策を巡らせていた。


 ノノは空気がわずかに揺らめくような奇妙な感覚を抱く。彼女は眼を細め、暗闇に集中する。どうやら敵の暗殺者が接近してきているようだ。〈隠密〉と〈隠蔽〉の呪術を巧みに組み合わせ、戦場の混乱に乗じて壁を登ってきたようだ。


 彼女は微かな呪素の揺らぎを感じ取ると、その場から離れたフリをして別の狭間へと移動する。そして隠密状態の敵に狙い定め〈風刃〉を放った。鋭利な風が歩廊に到着した暗殺者を切り裂いていく。その姿が露わになった瞬間、リリは狡猾な敵を仕留めるべく炎を放った。焼ける血肉の臭いとともに、炎に包まれた暗殺者は壁から落下していく。


 その炎の明かりが消えると、砦の周囲に立ち込めていた闇は更に深まっていく。その深い闇は兵士たちの心に恐怖を植えつけていくが、砦を包囲する敵軍の包囲網が崩れる気配は見られない。


 邪悪な気配の接近に気がついたのは、土鬼どきの武者を連れた照月てるつき來凪らなが姿を見せたときだった。どうやら彼女も〈千里眼〉の能力で〝何か〟が見えたようだ。彼女から話を聞こうとした時だった。


 砦から遠く離れた位置に集結していた敵部隊の中心で凄まじい爆発が起きた。それは敵軍に壊滅的な破壊をもたらし、衝撃波と熱波が砦の防壁に押し寄せるほどの威力だった。

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