第351話 48


 夜の森に赤々と燃える爆炎と黒煙が立ち昇る。その光景は荒々しく、戦場のなかにあっても異常だった。その凄まじい衝撃を物語るように、周辺一帯に轟音が響き渡り、遠く離れた防壁にまで細かな小石や焦げた木片が降り注ぐ。守人たちも異常な事態に混乱し、あちこちで怒号や命令が飛び交う。


 アリエルは狭間に身を隠しながら、森で起きている異常な現象を冷静に観察していた。爆発の規模からすると、数人の呪術師が一斉に呪力を解放したかのようにも見えたが、集結していた部隊の中心で呪術を炸裂させるような愚かな行動は考えにくい。


 森で何か異変が起きているのは明らかだったが、それが何なのか、まだ確証は得られなかった。


 あれこれと考えを巡らせていると、内耳に声が聞こえた。守備隊を指揮しているルズィからの〈念話〉だ。どうやら、先ほどの爆発で〈念話〉を妨害していた敵の呪術師の影響がなくなったようだ。


 あの爆発に巻き込まれて死んだのか、それとも呪術が維持できない状況になったのかは分からないが、どちらにせよ守人にとって好都合だった。


 ルズィは砦の外に出ていた守人の奇襲部隊と連絡を取り、〈念話〉を介して状況を確認していく。やはり爆心地は敵兵士が集結していた場所だったという。幸い、砦の外に展開していた味方部隊に被害は出ていなかった。しかし、その報告は同時に不安を呼び起こした――何が敵の本隊を吹き飛ばしたのだろうか。


 暗い森に目を凝らすと、動揺し混乱している兵士たちの様子が確認できた。松明を手に森を駆ける兵士たちは徐々に集結していて、本隊で何が起きたのかを把握しようとしているようだった。


 敵の動きを観察していると、不意に〈ベリュウス〉の姿が思い浮かんだ。あの爆発が彼の仕業だとするなら、この戦は、籠城戦だけでは済まされないだろう。


 いずれにせよ、敵の正体が依然として不明である以上、砦の外に出ているのは危険過ぎる。ルズィは外に出ている部隊に帰還を命令する。戦狼いくさおおかみの群れも含め、すぐに砦内に入るように指示した。


 帰還命令が飛び交うなか、アリエルの心には不安と疑念が渦巻いていた。もし〈ベリュウス〉が戦場にあらわれたのだとしたら――それが別の〈混沌の化け物〉であれ――砦にとって計り知れない脅威となるのは明らかだった。


 アリエルは再び森に視線を向ける。夜空に浮かぶ赤い炎の明かりが、新たな悪夢の始まりを告げているように見えた。


 爆発からどれくらいの時間が経っただろうか、砦は静寂に包まれていた――それは不気味な静けさだった。断続的に行われていた攻撃が突如として止み、砦の周囲から敵兵の姿が消えた。防壁の歩廊に配置されていた兄弟たちも、安堵より警戒感を強めていた。この状況は一時的なものにすぎないということを、誰もが本能的に理解していたのだろう。


 アリエルは防壁に立ち、瓦礫の散らばる歩廊から燃え盛る爆心地を見つめていた。赤々とした炎が遠くの木々を映し出し、黒煙が夜空に立ち昇る様子が見られた。敵の攻撃の中核を成そうとしていた本隊が消し炭となった今、果たして彼らはこの戦を続けることができるのだろうか? それとも撤退を選ぶのだろうか? その答えはまだ見えない。


 静寂を切り裂くかのように、不気味な咆哮がどこからともなく響き渡る。その音は、獣の声とは到底思えない異質なもので、兄弟たちの緊張を一層高めた。


 アリエルは耳を澄ませ、遠くから聞こえる戦闘音に集中した。鬱蒼とした木々に遮られて戦闘の様子は確認できないが、森の中で激しい戦闘が行われているのは間違いなかった。


 夜の森は美しく、暗く、どこまでも深い。その森で硬質な金属音と断末魔の悲鳴、そして怒号――それらがひとつに混じり合い、混沌とした戦闘の様子を描いていた。


 森で何が起きているのか、すぐに状況を確認したほうがいいのかもしれない。アリエルは仲間を連れて偵察に出ることにした。今回は戦闘よりも、敵の目を欺き、無事に帰還するための手段を優先する。幻惑の呪術を得意とするシェンメイが一番の候補だった。


 食堂で彼女の姿を探したあと、厩舎まで行き、〈ラガルゲ〉のそばで休んでいた彼女と合流する。動物が好きなのか、それとも〈ラガルゲ〉が特別なのかは分からないが、ずっと一緒にいたようだ。


 シェンメイの助けが必要だと伝えると、彼女は快く引き受けてくれた。あとはルズィの許可を取るだけで良かった。しかし物事は思い通りに運ばないものだ。


「ダメだ。まずは敵の正体が知りたい」

 ルズィはそう言うと、険しい表情で二人を睨みつけた。


 その敵の正体を確認するための偵察でもあったが、かれは兄弟を失うような危険を冒すつもりはなかったようだ。


「照月のお姫さまが防壁の何処かにいる。彼女に協力してもらおう」

 砦を出る前に、森に何が潜んでいるのか――それを知るため、〈千里眼〉の特殊能力を持つ照月てるつき來凪らなを頼ることにした。


 防壁から迫り出すように建てられた木造のやぐらは、周囲を監視するための要所でもあり、この数十年の間に火災などで焼失しなかった数少ない櫓でもあった。


 夜風が鋭く吹きつけ、櫓の柱が軋む音が聞こえるなか、照月來凪は暗い森を見つめながら静かに立ち尽くしていた。目立たない位置に置かれた燭台の弱々しい灯りが、不規則に揺れる影を櫓の内部に落とし、そこに立つ者たちの緊張感を際立たせていた。


 彼女のすぐそばには護衛の武者がふたり立っていた。ひとりは両刃の斧を肩にかけ、もうひとりは弓を手にし、つねに警戒を怠らない様子だった。その視線は暗い森に鋭く向けられ、何かが飛び込んでくる瞬間を待ち構えているようでもあった。


 照月來凪は〈千里眼〉を発動するために集中していたのか、瞼を閉じて深く呼吸を繰り返しながら意識を一点に集めていた。やがて瞼を開くと、その瞳は星々の輝きを映し出しているかのようにきらめいていたが、その表情に微かな苦悶の色が浮かぶ。〈千里眼〉の力を用いるには、相当な集中力が必要なのだろう。


 そして彼女は森から視線を逸らすことなく、短い言葉を告げた。

「見えるのは混沌とした光景。血と炎、逃げ惑う人々……それに、ツノを持つ異形の存在。巨大な獣のようにも見えるけれど、その背に漆黒の翼が生えている。混沌の生物だと思う。その身に帯びている呪素は邪悪で、瘴気と灰を振り撒いている」


 その声は冷静さを保っていたが、どこか震えているようにも感じられた。爆心地からは、咆哮や断続的な戦闘音が耳に届いていた。やはり〈ベリュウス〉が砦の近くまで来ているのだろう。あの災厄が近くにいるという事実だけで、嫌な緊張感に襲われてしまう。


 ルズィも同じ結論にたどり着いたのだろう。かれは即座に偵察の中止を決断した。近くで話を聞いていた古参の守人も舌打ちすると、苛立たしげに言葉を吐き捨てる。


「あの蛮族どもが祭り気分で騒いでいた所為だろうよ。馬鹿みたいに太鼓を打ち鳴らしやがって。連中はこの森がどういう場所なのか知らないのか」


 敵本隊を一瞬で壊滅させるような化け物を前に、積極的な行動は自殺行為だった。偵察よりも砦の防御を固めることを優先した。


 ルズィが〈念話〉を使って各部隊と連絡を取り合い、現在の状況を共有していくと、砦全体に緊張が張り詰めていく。遠くの森では赤い光が空を焦がし、咆哮が大気を揺らしていた。それを聞く者たちの表情には、避けようのない恐怖が刻まれていた。


 夜の帳が深まり、森は凍りついたかのように静寂に包まれていた。冷気が肌を刺し、守人たちの吐く白い息が霧のように漂う。彼らは防壁の上や各々の持ち場につき、遠くから聞こえてくる悲鳴や戦闘音に意識を集中させていた。


 異変が起きたのは、夜明け前のまだ透明感を帯びた空に光と闇が交じり合い、微かに青みを帯びた木々の影をうっすらと浮かび上がらせているときだった。守人のひとりが邪悪な気配の接近に気がついて立ち上がる。


「……何か動いている」

 誰ともなくつぶやいた声が冷たい空気を震わせた。


 木々がわずかに揺れ、続いて鈍い地響きが地面を伝わる。最初は風だと錯覚するような微かな振動だったが、それは徐々に近づき、明らかに異常な重みを持つ音に変わっていく。


 そして砦の周囲を覆う鬱蒼とした木々の間から、灰色の鱗に覆われた巨大な化け物が姿を見せた。牙がむき出しになった異形の口と、鋭い鉤爪を持つ四肢。背中にはコウモリを思わせる翼があり、その全身から漂う気配に圧倒されてしまう。


 砦の周囲にある木々は、すでに襲撃者たちによって切り倒されていて、あちこちに切り株が点在していた。その視界の利く空間の中を、化け物は砦の様子を観察するかのようにゆっくりと歩いていた。


 しかし砦の近くまで来ると、その動きがピタリと止まった。化け物の鼻が大きく揺れ、周囲の空気を嗅ぎ取るような仕草を見せる。目には見えなくとも、砦を取り囲む聖女の結界に気づいたのだろう。


 灰色の巨体は一歩足を踏み出しかけたが、すぐに足を引き戻し、低く唸る声を漏らした。化け物は結界を越えようとする素振りを見せることなく、その場でしばし立ち止まったあと、再び木々の間に姿を消していった。何かを企んでいることは明白だった。

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