第352話 49〈飢えた仔猫〉
いつの間にか、悲鳴に近い叫び声や戦闘音は聞こえなくなっていた。〈ベリュウス〉と呼ばれる異形の化け物――これまでのどの生物とも異なる脅威があらわれたことで、砦を取り巻く状況は根本的に変わりつつあった。
燃え盛るような瞳を持つ〈混沌の化け物〉を目撃した戦士たちの多くは、己の部族とは無関係ともいえる
偵察に出ていた兄弟からの報告によれば、敵軍を構成していた部族の多くが、三十から五十人程度の小規模な戦士団で構成された一個小隊で参戦していたという。しかし〈混沌の化け物〉の出現により、それらの部族は次々と陣を離れ、危険な領域から離れるために移動を開始していた。
もはや統率の取れた軍としての体裁すら保てなくなった敵には、組織的な攻撃を仕掛ける余力は残されていないのかもしれない。
もしもそこに連隊の司令官――千人規模の戦闘部隊を指揮する者――でもあった
しかし現状ではそのような指揮官は不在だった。指揮系統を失った敵軍は分解寸前であり、混乱だけが広がり続けているようだった。
とはいえ、砦に籠るアリエルたちにとっても決して好ましい状況ではなかった。敵軍の崩壊によって直接的な脅威が和らぐ一方で、〈ベリュウス〉という新たな脅威が出現していた。
砦のすぐ近くに〝鋭い牙を持つもの〟が潜んでいるかもしれない、という目に見えない恐怖心が守人たちの間に広がっていた。木々の間に風が吹き付けて枝葉が揺れるたび、誰もが息を呑んで森の深淵を見つめた。
アリエルは焦燥感を押し殺しながら防壁の上を歩いて、状況を整理しようと努めていた。しかしいくら考えても明確な解決策は浮かばない。ただひとつ確かなのは、〈ベリュウス〉が近くを徘徊している限り、砦に籠り続けることに限界があるということだった。いずれ備蓄していた食料もなくなるだろう。
あの化け物がその気になったとき、果たして聖女の結界だけで砦を守り抜くことはできるのだろうか。襲撃を受ければ砦は崩れ去るかもしれない――その可能性がある以上、何か手を打つ必要があった。しかし具体的な行動を決めるには、あの化け物の性質と動きを知らなければいけなかった。
防壁の歩廊に吹き荒ぶ冷たい風のなか、兄弟たちは矢狭間に身を潜め、森の様子をじっと眺めていた。不安は誰の目にも隠せなかった。アリエルは沈黙のなか、ふと防壁の向こうに漂う朝靄に視線を向けた。
倒木の間に昨夜襲撃してきた兵士たちの死骸が転がっている。そこに奇妙な動きがあった。何かが――白くて小さなフワフワとした生物が静かに忍び寄る。それは仔猫ほどの体長しかない奇妙な生物だった。
全身を覆う純白の体毛には鮮やかな赤い縞模様が走り、どこか愛らしい雰囲気すら感じさせるが、よりハッキリと見えてくるにつれてその異様さが明らかになってくる。身体に対して不釣り合いなほど大きな頭部では、深紅の眼が朝日を受けて妖しい輝きを放ち、ぎょろぎょろと周囲に視線を投げかけている。
その瞳に注目していると、口元から蛇にも似た長い舌を出し入れしているのが見えた。その口元で糸を引く粘液質の唾液が地面に滴り落ちるたび、微かな蒸気が立ち昇るのが見えた。
アリエルはその生物のことを知っていたし、森でも何度か見かけていた。砦の書庫で見つけた古い書物では〈ネフェリ・アバトゥー〉の名で知られた生物で、神々の使徒に関係しているとも言われていたが、詳細については分からなかった。守人たちの間では〝飢えた
見た目の愛らしさに反して、その鳴き声は爬虫類の威嚇音にも似た不気味な音だった。しかもその声には微弱ながら呪力が込められていて、聞いた者を魅了し、一時的に油断させる効果があると信じられていた。
基本的に臆病で他の生物から逃げる性質を持つが、逃走時に腐食性の唾液を吐き出すことがある。このドロリとした唾液は、金属板を熔かすほど危険なものだった。主に生物の死骸を食べて生きているが、怪我をして弱った生物を見つけると集団で襲い掛かり捕食することもある。
今まさに、その厄介な性質を発揮しているようだった。森から姿を見せた仔猫は致命傷を負い瀕死の状態で横たわる兵士を見つけると、一匹が唾液を吐き出す。それは細い軌跡を描いて兵士の頭部に付着し、たちまち白い煙を上げる。あまりの痛みに兵士が弱々しい呻き声を上げると、その音を合図にして数匹の仔猫が集まってくるのが見えた。
そして兵士に牙を立て、生きたまま肉を引き裂き始めた。周囲を見渡すと、あちこちに同じ生物の姿を見ることができた。彼らの目当ては戦場に残された死骸だった。蛮族たちが生きたまま捕食される光景を目の当たりにして、兄弟たちの顔に更なる不安が広がる。
あの〝飢えた仔猫〟は、臆病で人間の生活圏に近づくことを避ける傾向があった。けれど戦場に漂う死の臭いに惹かれ、ただ本能に従い腐肉を貪っていた。〈ベリュウス〉が周辺一帯に残した邪悪な瘴気も関係しているのかもしれない。
アリエルは眼下で繰り広げられる異様な光景を見ながら思案を巡らせていた。鳥の視界を借りて周囲を偵察することも考えたが、この場ではそれが叶わない。〈ベリュウス〉の瘴気は空気を汚染し、鳥のような敏感な生物を遠ざけてしまっていた。空は不気味に静まり返り、小鳥の
仔猫たちが兵士の死骸を貪る様子を眺めていると、ふと利用できないのかと考えるようになる。奇妙な閃きだったが、試してみる価値はある。
深呼吸して瞼を閉じると、体内の呪素を練り上げていく。準備ができると目を開いて、意識を集中させながら兵士の血肉で口元を汚す仔猫をじっと見つめる。そして仔猫に向かって呪素で編んだ〝不可視の紐〟を伸ばしていく。
もちろん、この紐は物理的なものではない。呪素で形作られていて、仔猫と意識をつなぐ〈結路〉として機能する紐だった。アリエルはその紐を仔猫に向かって伸ばしていく。そして紐が仔猫の身体に触れた瞬間、その小さな生物に意識を送り込むように紐を巻き付けていく。
つぎの瞬間、アリエルの視界が変化していく。泥まみれの地面と鮮血に濡れた内臓、それに群がるハエや甲虫が眼前に見えた。視線は妙に低く、無事に意識をつなげられたことが分かった。そこで自分自身の身体に意識を集中させ、ゆっくり壁際に座り込むと、再び仔猫を意識して呪素を操作する。
仔猫の視界を通して周囲を見渡すと、小さな群れが森に戻っていく様子が確認できた。この群れについていけば、周辺一帯の状況が分かるかもしれない。アリエルは仔猫に行動を促す。すると仔猫は死骸に未練を残すかのように一瞬立ち止まり、じっとそれを見つめていたが、やがてその小さな身体を翻して群れの後を追うように軽快に駆け出した。
仔猫の意識を通して伝わる地面の感触や、深い森の匂いで意識が満たされる。奇妙な高揚感を覚えながら、アリエルは森の奥に向かう群れのあとを慎重に追っていく。
しばらく進むと、〈ベリュウス〉による襲撃を受けたと思われる別の進攻部隊の痕跡を見つけた。地面には無惨に切り裂かれた死骸が転がり、兵士たちが使っていた武器や装備が散乱している。
仔猫は立ち止まると、その小さな身体を揺らしながら血の匂いに誘われるように歩み寄る。アリエルはその視界を通じて周囲を観察するが、目に入るのは動かない兵士の屍と、それに群がる仔猫たちの姿だけだった。
群れはそこから動かず、倒れた兵士たちに近づいては、まだ温かい肉を貪っていく。どうやらこの試みは失敗だったようだ。仔猫はその小さな身体の本能に従い、ただ餌を求めて動いているだけで、それ以上の有益な情報を得られる気配はなかった。
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