第353話 50
昼過ぎには砦の外に出ていた部隊も次々と帰還を果たしていた。疲労の色が濃い兄弟たちの顔にはホッとした表情が浮かんでいたものの、すぐに警戒するような厳しい眼差しに戻っていく。砦の門が開放されるたびに、守備隊の間に緊張感が走り、外の空気に混じる鉄臭いニオイが詰め所に流れ込んでいく。
各部隊の隊長が集められえた作戦室では、彼らの報告をもとに敵軍と〈ベリュウス〉の動きが整理され、砦の防衛態勢の見直しが行われることになった。事前に入手していた情報通り、多くの敵部隊は〈ベリュウス〉の出現に恐れをなし、すでに撤退を開始しているようだった。
「けど――」と、影のベレグは気だるげな灰色の眸で地図を見つめる。「敵部隊にも気概のある連中がいたみたいだ。おそらく、砦襲撃のさいに要になる部隊だったんだろう」
正規軍の兵士で構成された二個小隊が〈ベリュウス〉と交戦したという。百人に満たないその部隊は、熟達の呪術師たちと連携し、あの恐るべき化け物に手傷を負わせることに成功したという。その過程で手練れの兵士たちはひとり残らず無残に殺されることになったが、彼らが時間を稼いだおかげで撤退に成功した部隊もあったという。
古参の兵士と身体能力に優れた豹人によって構成された精鋭部隊だったが、それでも〈ベリュウス〉を負傷させることしかできなかった。とはいえ、その傷のおかげで化け物も慎重になり、大胆に行動することはなくなった。
しかし砦は〈ベリュウス〉だけでなく、他の化け物たちからの脅威にも晒されていた。ミミズめいた異形の巨体を持つ〈地走り〉の群れが、死肉を求めて砦の近くを這い回っている姿も確認されていた。その群れが動くたびに地面は揺れ、腐臭が撒き散らされていく。大型の肉食獣も周囲を徘徊しているのか、時折低い唸り声が森の方角から響いてくる。
森の変化は砦の防壁からも確認することができていた。切り倒された木々の間に散らばる死骸は腐敗が進み、空には禍々しい姿をした怪鳥が群れを成して旋回している。死と恐怖が支配する荒れ果てた光景は、砦の中にいる者たちの士気を確実に蝕んでいた。
この状況下で、砦の防衛を維持しながら敵軍と化け物の双方を警戒することは、精神的にも肉体的にも厳しいものになっていた。各所で警戒に当たる兄弟たちの間で交わされる声はひそやかで、その内容に希望は見られない。彼らが見上げる空は重く曇り、日の光はほとんど射さず、時折吹きつける冷たい風が頬を刺すだけだった。
この砦に残されたのは、希望というにはあまりに脆い抵抗の意志と、迫り来る脅威に耐えるべき責務だけだった。
砦内の空気は冷たく重い、守人たちの中に渦巻く不安が伝わってくるようだった。絶え間なく吹きつける風は死の臭いを運び、遠くから響き渡る咆哮や悲鳴が心をかき乱す。世話人たちは傷ついた守人の治療を行っていて、彼らの呻き声が漏れ聞こえるたびに周囲の者たちは顔をしかめた。
若い守人のなかには、砦を放棄することを提案する者たちもいた。もともと罪人として辺境に送られてきた者たちだ。砦に対する愛着もなければ、その責任の意味も知らなかった。戦いを生き延びた若い守人の多くは、その言葉に賛同するような表情を浮かべていたが、誰も口を開くことはなかった。
実際のところ、南部には〈青の魚人〉と協力して築いている拠点があるので、襲撃を恐れずに生活することもできた。何より、移動拠点として活用できる〈白冠の塔〉も存在しているので、何かあっても困ることはない。〈転移門〉を使って南部まで避難するまでが大変だが、砦の放棄は現実的な選択肢に思えた。
しかしその提案が現実になることはないだろう。守人の役目は、この地を守ることであり、地下の〈無限階段〉を監視して〈混沌の領域〉からの脅威に対処することだった。
古参の守人たちは、その責任の重さを誰よりも理解していた。〈無限階段〉は、地底に広がる〈混沌の領域〉に繋がる禁忌の場所だ。地底から出現する脅威の多くは、〈ベリュウス〉のように森の民にとって危険な存在であり、幾世紀にもわたって〈境界の砦〉が防波堤となってきた。
この絶望的な状況下で守人としての重要な役割を投げ出すことは許されなかったし、総帥もそれを望んでいないだろう。そうであるなら、彼を慕う者たちのなかにもその選択肢は存在しなかった。
それに敵軍の動きから推測される目的が――地下に眠る黄金都市や神々の遺物だとするならば――なおのこと、砦を離れることはできなかった。悪意のある者たちが遺物を手に入れることは、世界そのものの破滅につながるかもしれない。
しかし、緊張と疲労の中で誰もが限界を感じていることも事実だった。砦の防壁を巡回する兄弟たちの表情には、焦燥と不安が浮かび、些細な物音に対しても異様な反応をみせるようになっていた。
「守るべきものがあるからこそ、我々はここに立っていられる」ヤシマ総帥の言葉が、今は重くのしかかっていた。「しかし砦そのものが我々の墓場になることは避けなければならない。今こそ、各々の知恵を絞り出す時だ」
砦の中庭では、建設隊の職人たちが矢の補充や壁の修復に励んでいが、その動きにも疲労感が見て取れた。彼らも覚悟して砦にやってきていたが、まさか〈混沌の化け物〉と対峙することになるとは思っていなかったのだろう。遠くで〈ベリュウス〉の咆哮が再び響く。それは砦を取り囲む不穏な空気をさらに濃密なものにしていく。
作戦室では、燭台の弱々しい灯りによってアリエルたちの影が長く伸びていた。古びた木製の机の上には地図が広げられ、そこに記された膨大な情報によって、ここで何度も緊迫した議論が交わされてきたことが窺えた。アリエルはその地図を注意深く眺めながら、これからの行動について考えていた。
敵軍の脅威が消えた今こそ、砦の周囲を安全にすることで、化け物の脅威に備える必要があると考えていた。アリエルのすぐとなりには、戦狼の群れを率いていたラライアが立っていて、険しい表情を浮かべていた。
その重苦しい空気のなか、ルズィが口を開いた。
「少しでも兄弟たちの士気をあげるためにも、砦の安全を確保することを優先する」
砦の周囲に堀と土塁を築く計画について彼は話す。すでに建設隊の職人たちと話し合ってきたのだろう。彼らは地形操作の呪術に長けていて、短時間で地面を掘ることができた。
幸いなことに、邪魔になる木々は敵対者によって切り倒されていたので、作業の準備も少なく済む。それでも砦の外に出るという行動が危険なものであることに変わりはない。
「そこで、アリエルには
「戦狼には、砦を中心に周辺一帯の偵察を任せたい」
ルズィの言葉に、ラライアは小さくうなずいた。
「群れを率いて森のなかで監視を続けてくれ。今のところ動きは見られないが、〈ベリュウス〉の動向には充分に注意してくれ。そしてあの化け物が動くようなことがあれば、すぐに知らせてくれ」
塔を出たアリエルたちを迎えたのは、冷たく乾いた風だった。壁の向こうからは死肉を貪る怪鳥の鳴き声が聞こえていた。そのなかで、彼らは任務の準備を進めることになった。
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