第327話 24


 まるで荒れ狂う暴風の中に突撃するような気分だ。アリエルは心臓の鼓動を耳元で聞きながら、巨竜の足元に向かって猛然と駆ける。


 全身に冷や汗が滲み、呪われた右腕が脈動するたびに焼けつくような痛みが肘から肩へと駆け上がっていく。それでも、一瞬の躊躇ためらいも見せずにその力を解き放つ。紫黒しこくに染まる邪悪な波動が右腕から渦巻き、空間を歪め、虚空に異形の口を召喚する。


 巨竜は再生途中の醜い頭部をゆっくりと持ち上げる。ドロリとした粘液が滴り、傷口が修復されていく様子がハッキリと見て取れた。しかしつぎの瞬間、空間が裂ける甲高い音と共に巨竜の頭上に異形の口があらわれた。その巨大な口は巨竜に喰らいつき、硬い鱗を引き裂き、そのまま胸部を咬み千切る。


 むせ返るような腐臭と瘴気を含んだ体液が飛び散ると、肉塊の奥に、かろうじて人の形を保っていた〈クァルムの子ら〉の身体が露わになる。その胸部には、あの禍々しい瘴気を帯びた宝玉が黒々と輝いていた。


 異常な輝きに目を奪われた次の瞬間、巨竜の背中が――まるで激痛に耐えるかのように膨れ上がり、不気味な音と共に粘液にまみれた触手を形成していくのが見えた。その触手はヌメリのある光沢を帯び、先端に無数の逆棘さかとげが生えていた。異形の化け物は、その触手をムチのようにしならせながらアリエルに向かって振るう。


 鋭い音を立てて迫る触手を目にしたアリエルは、瞬時に判断し、地面に身体を擦りつけるようにして滑り込み、紙一重のところで攻撃を避けながら異形の化け物に接近し、目の前にある輝く宝玉に手を伸ばす。


 それに触れた瞬間、焼けるような痛みが手のひらから腕全体に走り、思わず顔を歪めるが、〈災いの獣〉の腕に宿る異常な力で宝玉を鷲掴みにする。


 そして全身を襲う異常な痛みに耐えながら、宝玉を引き抜こうと力を込めていく。その行為に反応するように、巨竜が身体を激しくよじらせ、逃れようとして必死に暴れる。耳をつんざくような咆哮が聞こえ、腐臭と瘴気がさらに濃くなって息苦しさを増した。それでもアリエルは宝玉から一瞬たりとも視線をそらさなかった。


 ヌメリと瘴気に覆われた触手が猛然と迫る。その触手の表面はひび割れていて、あちこちから蒸気のように瘴気が噴出していた。アリエルは面頬を装着していたからなのか、瘴気の影響を受けることはなかったが、徐々に視界が奪われていく。と、そのときだった。風を切る鋭い音が聞こえたかと思うと、青年に迫っていた触手が引き裂かれる。


 ラファが放った矢が正確に触手を貫き、その動きを制したのだ。矢によって切断された部位からは黒い体液が飛び散り、地面に落ちると蒸気を立て腐り落ちていく。触手は苦しむようにのた打ち回り、グチャグチャと粘着質な音が響いた。しかし巨竜は怯むことなく、さらに異常な速度で別の触手を形成していく。


 ラファは地面に突き立てた矢筒から矢を次々に引き抜き、躊躇うことなく矢を放ち続けた。それらの矢が触手に突き刺さるたびに粘液が飛び散り、瘴気が立ち昇っていく。巨竜はもはやその面影を失い、原型をとどめることのできない醜い肉塊と化していた。無数の触手がうごめき、無差別に大地を薙ぎ払い、木々を引き裂く音がとどろく。


 その混乱のなか、アリエルは全身に重くのしかかる疲労と痛みに耐えながら宝玉に指を食い込ませるようにして力を込めていく。指先からは黒い血管のような模様が広がり、鉄紺の輝きが皮膚を染めていく。焼けつくような熱が全身を駆け巡り、視界が赤黒く染まる。


 アリエルは顔をしかめながら膨大な呪素じゅそで身体能力を底上げし、力を振り絞りながら一気に宝玉を引き抜いてみせた。その瞬間、巨竜の咆哮が空気を震わせ、無数の触手が激しく痙攣し始める。その叫びは痛みと怒りに満ちていて、残響のなか奇妙な静寂に包まれていく。


 その声は痛みに満ちた低いうめき声に変わり、やがて触手も力を失い、息絶える前の生物の最後の抵抗を見ているかのように、大地をっては音を立てて崩れ落ちていく。


 巨竜の身体も崩壊を始め、硬く艶のある鱗はゆっくりと溶解し、粘液質のタール状の液体に変わっていく。


 その体液はじわじわと周囲に広がり、大地や植物を侵食しながら、まるで黒い炎のように全てを焼き尽くしていった。腐臭が一気に強まり、鼻を突く悪臭が周囲に充満する。瘴気は濃密で、霧のように立ち込めていく。それは息をするたびに肺を焦がすような苦痛をもたらした。面頬がなければ、血を吐き出していたのかもしれない。


 その死骸の裂け目からは泡立つような腐敗液が湧き出し、そこから瘴気が立ち昇り、光を歪めるように空気を波打たせている。


 巨竜の身体は加速度的に腐敗していった。頭部だった部分はすでに原形を失い、無数の細胞が崩壊していくように溶け落ち、地面に滴り落ちた黒い体液は腐臭を増して沸き立ち、地面を焼き焦がして穴を穿うがっていく。


 強烈な瘴気が渦巻くなか、アリエルは背中に冷たい汗が伝うのを感じたが、目の前の光景から目を逸らすことができなかった。


 その死骸が完全に地に染み込むまで、瘴気と腐臭は戦場を覆い尽くしていく。重苦しい沈黙の中でじわじわと蒸発し始める黒い体液は、あたかも巨竜の怒りと苦しみの残留思念のように、そこにしつこく残り続けた。


 アリエルは荒廃し汚染された戦場に膝をつくと、荒い呼吸のなか肩を震わせた。右腕を保護していた籠手を外すと、その下から鉄紺色に染まった腕があらわれ、鱗と黒い羽が不規則に広がっているのが見えた。呪いの力を解き放った代償は、骨の奥まで染み込むような冷たい痛みとなって感じられた。


 額から汗が流れ落ち視界が霞んでいくなか、〈浄化の護符〉を手に取ると、震える手で右腕に押し当てる。


 護符が触れた瞬間、腕から煙のような黒い瘴気が立ち昇り、鋭い冷気が骨を貫いていく。痛みに身体が震え、激痛に耐えるために歯を食いしばる。凍えるような寒さに震えていたが、それでも汗が額を伝い地面に滴り落ちていく。右腕が取り込んでいたけがれが浄化されていくたび、鱗の一部がひび割れて剥がれ落ち、黒い羽が抜けて地面に散っていく。


 しかし一枚の護符では足りなかった。アリエルは別の護符を取り出そうとするが、痛みと消耗で手が震えて、薄いふだを掴むことすらできない。視界が揺れ、指先の感覚が徐々に失しなわれていく。


 そこにラファが駆け寄ってくる。少年はアリエルの震える手から護符を受け取ると、それを腕に力強く押し当てた。


「まだ終わってませんよ。少し我慢してください」

 護符が淡い輝きを放ちながら燃え尽きていくたびに、穢れが退けられていき、痛みが徐々に引いていくのが分かった。腕に生えていた羽根は一枚、また一枚と抜け落ち、鱗は剥がれて血に染まった腕がさらけ出されていく。


 焼けただれていくような痛みが次第に収まっていくと、ラファは〈治療の護符〉を取り出して傷口に優しく当てていく。


 ひんやりとした感覚がじわじわと傷を治療し、癒しの光が広がっていくのが見えた。そこに水薬をかけていくと、血の臭いに混じるように薬草の微かな香りが鼻をかすめ、痛みが引いていく。


 敵拠点から回収していた護符が何枚もあったことは幸運だった。ラファが惜しげもなくそれらの札を使うたび、腕の傷が癒されていくのがハッキリと確認できるようになる。


 そこでようやく緊張の糸が切れていくのを感じた。呼吸も落ち着いてきて、全身が震えるような痛みも感じない。右腕には生々しい傷跡が残り、相変わらず鉄紺に染まっていたが、今はソレが確かに自分のモノだと感じられた。


 面頬を外すころには、巨竜の死骸もなくなっていて、そこには〈クァルムの子ら〉の骨だけが残されていた。

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