第326話 23
底の見えない暗闇のなか、アリエルは意識を手繰り寄せるようにして覚醒していく。全身が痛むなか、皮膚にまとわりつくような濃厚な殺意と、吐き気を催す悪臭が感じられた。
空気は冷たく、骨にまで染み込むような感覚に襲われる。
周囲を見回しても隠れられるような場所はない。戦闘に備え、無意識に腰を落として身構える。すると暗がりの中から
その瞬間、凄まじい殺意が向けられるのが分かった。そして巨竜が地を割るような轟音とともに突進してくるのが見えた。圧倒的な威圧感と恐怖で息が詰まりかけるなか、不意にどこか遠くから、微かにラファの声が聞こえてきた。そして、目を細めてしまうほどの
その光は一瞬で暗黒の世界を照らし、すべてを、何もかも飲み込んでいく。そうして意識がゆっくりと浮上していき、光の中で覚醒する優しい感覚に導かれるまま、アリエルはゆっくりと目を開いた。
視界が鮮明になると、すぐ目の前にラファの姿が見えた。そこで自分が地面に倒れていたことに気がつき、上半身をゆっくり起こす。視線の先には巨木の幹に頭から突っ込み、身動きの取れなくなった巨竜の姿が見えた。そこでラファに救われたことに気がつくと、アリエルは自分が気絶していたことを認識する。
青年はふらつく足で何とか立ち上がると、ラファに視線を向け、心配させないように微笑んで見せながら「ありがとう、助かった」と感謝の言葉を口にした。面頬をしていたので、きっと表情は見えていないが、それでも少年を動揺させたくなかったのだろう。
身体中に痛みが残っているが、必死に堪え、呼吸を整えつつ「大丈夫」と自分にも言い聞かせるように口にした。ふと手元を見やると、握り締めていた弓がどこにも見当たらない。突進されたときに手放してしまったのだろう。「やれやれ」と溜息をついたあと、目の前の巨竜に視線を戻した。
その禍々しい存在は、すでにこの世のモノではない。瘴気を
アリエルは深呼吸し、巨竜に向かって右腕を持ち上げた。途端に前腕から肘にかけて焼けつくような鋭い痛みが走り、刺すような冷たさが腕を
巨竜が重く鈍い唸り声を上げ、巨木から首を引き抜こうともがいている間に、アリエルは手のひらを静かに開き、手首を返すようにして化け物に向けた。そして手のひらをぎゅっと握りしめた瞬間、青い炎を帯びたように右腕が明滅し、冷気と瘴気が混じった暗い波動が呪われた力とともに放たれる。
その瞬間、空気に響く奇妙な音と共に空間に亀裂が走る。暗闇のなかに裂け目ができ、禍々しい
ソレが巨竜の上半身に喰らいついた瞬間、化け物は怒りと混乱の入り混じった叫び声を上げた。巨木の幹に埋まっていた首が解放された瞬間でもあったが、予期せぬ攻撃に驚愕し、さらに苦しげな呻きを上げる。異形の口は巨竜の厚い鱗を次々に裂き、千切られた肉片や内臓が地面に零れ落ちていく。
血とも膿ともつかない濁った体液がドロリと足元に溢れ出し、地面に滴り落ちると瞬く間に蒸発して、吐き気を催す腐臭と濃密な瘴気が立ち昇っていく。それは周辺一帯の土地を
腹部を食い千切られ、気色悪い内臓が無惨に露出している巨竜だったが、傷口から滲み出した粘り気のある体液が次第に損傷箇所を覆い始める。その粘液は腐臭を漂わせながら硬化し、ざらついた黒い膜となって、失われた鱗の代わりに傷を塞いでいく。見た目は粗雑で完全ではないが、巨竜が驚異的な自己治癒能力を備えているのが一目で分かる。
アリエルは舌打ちすると、右腕に渦巻く〈混沌喰らい〉の力を呼び起こすべく集中力を高めていくが、巨竜は殺意を剥き出しにして猛然と飛び掛かってきた。
ラファとアリエル咄嗟に反応し、左右に飛び退くようにして攻撃を躱す。巨竜の巨体が大地に激突すると凄まじい衝撃が走り、地面が陥没して大きな穴が開いていくと、大地が盛り上がって植物と汚泥が四方に飛び散っていく。
アリエルは即座に右腕を構え、再び呪いの力を解放する。鋭い痛みが腕に走り、冷気と闇が凝縮したような波動が放たれると、空間に歪みが生じていく。そして裂け目から禍々しい異形の口がゆっくりとあらわれ、化け物に襲い掛かる。
巨竜は異形の口が迫っていることに気づくと、素早く身を
その隙を突くようにして、異形の口が巨竜の首に喰らいつく。鋭い牙が硬い鱗を破り頭部を咬み千切ると、巨竜の巨体が地面にくずおれていく。倒れた巨竜の身体からは黒い体液が溢れ出し、蒸発して瘴気となり不吉な霧のように周囲に立ち込めていく。
しかし安堵する間もなく、巨竜の傷口から再び粘液が滲み出し、歪な形で傷を埋めながら再生していくのが見えた。アリエルはその異様な回復力に戦慄を覚えながら、化け物を完全に倒すには肉体だけでなく、巨竜の本体である人の部分、あるいは身体に埋め込まれたあの異様な宝玉を破壊する必要があるのではないかと考え始める。
アリエルちらりと右手に視線を落とす。まるで金属のような冷たい光を帯びた肌は、所々が鱗状に盛り上がり、真っ黒に変色した爪が鋭利なものに変わっているのが見て取れた。指先から肘の先まで、かつての肌の色はどこにもなく、黒みがかった鉄紺に染まっているのだろう。
人間性が失われていく感覚に胸がざわつき、〈災いの獣〉に変異しつつあるという不吉な予感が胸に迫ってくる。このまま能力を使い続ければ、いずれ醜悪な姿に変わり果てる運命なのかもしれない。それでも、今はその力に頼るしかないのだと自らに言い聞かせる。
ラファは足元に転がっていた弓と矢を見つけると、素早くそれを拾い上げる。彼の眼差しは鋭く、目の前の巨大な化け物の、かろうじて露出していた人の部分に狙いを定める。呼吸を整えていくと、張り詰めた弓弦が緊張感を帯びていく。
そして矢が放たれ、空を切る鋭い音が響きわたる。矢は目標に命中し、深く突き刺さった瞬間、巨竜の動きが一時的に止まるのが見て取れた。
その隙を逃すことなく、アリエルは〈混沌喰らい〉の力を引き出し、一気に呪い解放する。灼熱に焼かれるような痛みが腕を駆け上がり、体中に冷や汗がにじむが、痛みなど気にしている余裕はない。巨竜に向かって右手を突き出し、異形の口を再び呼び寄せる。
歪みの中からあらわれた禍々しい口が大きく開くや否や、巨竜に襲い掛かり、その硬い鱗に深々と牙を食い込ませていく。巨竜が苦悶の声をあげ、わずかに後退するその瞬間を逃さず、アリエルは飛び出し、すべてを賭けた一撃を叩き込むべく、化け物に向かって駆けていく。
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