第325話 22〈クァルムの巨竜〉


 森の闇が深く、冷たい霧が低く漂うなか、アリエルは長弓を構えながら弦を引き絞っていく。得体の知れない戦士がこちらに気づかぬよう息を潜め、狙いを定めながらじっと標的を見据える。戦士の手に握られた黒い宝玉は微かな瘴気を放ちながら、闇夜に妖しく浮かび上がっていた。


 その異質な宝玉を手にする戦士の姿は、邪悪な儀式に魅了され囚われた者のように不気味であったが、絶好の攻撃機会であることに変わりない。しかし意を決して矢を放ったその瞬間、敵が突然振り返えるのが見えた。


 暗い森のなか気配を断ち、影のように音もなく動いたにもかかわらず、敵は青年の位置を把握していたかのように動いてみせた。けれど彼は矢を避ける素振りは見せず、平然とした態度で真っ直ぐに矢の軌道を視線で追い、その衝撃を胸で受け止めてみせた。


 矢は勢いよく戦士の体内に食い込む。たしかな手応えがあったが、戦士は痛みを感じていないかのように、その姿勢を変えることすらしなかった。戦士が身につける黒い布に血液の染みが広がるのが見えるだけだった。アリエルは反撃に備えてすぐに身構えたが、戦士は動かなかった。


 かれは宝玉をじっと見つめ、ゆっくりとその禍々しい黒い石を胸元の傷口に押し当てた。宝玉から濃い瘴気が漏れ出し、紫黒しこくもやが傷口に吸い込まれるようにして戦士の体内に入り込んでいくのが見えた。やがて瘴気は身体から漏れ出し、周囲の森にも広がっていく。あまりにも瘴気が濃いため、辺りの雑草が見る見るうちに枯れていくほどだった。


 そして戦士の身体が不自然に膨れ上がり、筋肉は盛り上がってはじれ、皮膚を引き裂くように骨が音を立てながら歪んでいく。その過程で腕と足は異様に長く伸び、指先は鋭い鉤爪に変化していく。どす黒く変色した爪は、まるで鎌のように細く鋭利だった。その変異の間も全身の筋肉が震え、捩じれた骨からは不気味な軋み音が響く。


 瘴気は密度を増しながら戦士の身体を包み込み、ソレをさらに異形なモノに変えていく。破けた布の隙間からは焼けただれた醜い肌が露わになり、宝玉からは血管にも似た無数の細い管が伸び、蛇のようにいまわりながら戦士の体内に侵入していく。その管は脈動しながら、徐々に戦士の皮膚と融合していくようにも見えた。


 皮膚のひび割れからは粘りつく体液が染み出していた。粘液は地面に滴り落ちるとじわりと蒸発し、腐臭と瘴気を立ち昇らせながら消えていく。やがてそのうみに押し出されるようにして、胸に突き刺さっていた矢が外れ地面に転がり落ちる。


 生きたまま腐敗していくかのような様相だが、戦士の皮膚は腐り果てるどころか、爬虫類のように厚みのある鱗に変質し、鋭く尖った骨が肌の下で蠢き、より堅固な甲殻を形成していくように見えた。まるで獣と古の爬虫類が融合したかのようなその異様な姿は、見る者に恐怖を与え、精神にすら影響を及ぼしていく。


 頭部を覆う布の裂け目から覗く血走った眼が、宝玉の影響を受けて赤い輝きに染まっていく様子からは、すでに人の面影は見られなかった。


 この忌まわしい変貌が〈クァルムの子ら〉の本質なのか、それとも宝玉の影響によるモノなのかは分からない。ただひとつ確かなのは戦士が恐るべき化け物に変わり、荒々しく息を荒げながら、獣のような唸り声を上げていることだった。


 アリエルは矢をつがえようとしたが、すでに遅かった。気がついたときには〈クァルムの巨竜〉が目の前に迫っていた。おぞましい姿の巨竜が異常な速さで距離を詰め、妖しく輝く赤い眼が青年を射抜くように捕えていた。


 アリエルは反射的に呪素を練りあげ、全身を包み込むようにして保護する膜を発生させる。そこに巨竜の長い腕がムチのようにしなりながら迫る。


 その衝撃は凄まじく、また鉄の槌のように重く、身体全体が押し潰されるかのような衝撃に襲われる。腕が衝突するさいの鈍い音が耳に届いたかと思うと、つぎの瞬間にはね飛ばされ、木々の間を激しく転がっていた。


 何度も木の幹や岩に身体を打ちつける。防御の結界として展開された薄膜によって、ある程度の衝撃はやわらげられたが、視界が回り意識が朦朧としていく。そこに巨竜の影が迫り、巨大な手が青年の喉元をつかんだ。冷たく、容赦のない力でじわじわと首を締めつけられ、意識が遠のいていく。


 足が宙に浮かびあがると、じりじりと身体を持ち上げられていく。アリエルは意識を手繰り寄せながら抵抗するも、巨竜の力は凄まじく、抵抗することも許されない。巨竜の腹に強烈な蹴りを叩き込んでみたが、なんの効果もなかった。


 巨竜は、その手のなかで暴れる哀れな獲物の身体をさらに持ち上げ、空を仰ぐようにして喉の奥から血も凍るような咆哮を放つ。その声は地の底から響き渡るように低く、森の木々を震わせ、あらゆる生き物が本能的に身を潜めるほどに恐ろしいものだった。


 アリエルは咄嗟に腰に手を伸ばし、蛇刀を抜き放つと、巨竜の腕に向かって力の限り刃を突き刺した。刀身が肉を引き裂き、鈍い感触が返ってきたが、巨竜は気にもとめなかった。わずらわしいものでも掴んでいるかのように、青年の身体を高く振り上げ、無慈悲に樹木の幹に叩きつけた。


 一度目で衝撃が全身に伝わり、二度、三度と打ちつけられるごとに、結界の膜がひび割れていく。六度目の衝撃では耐えきれなくなった樹木が根元から倒れ、アリエルは幹ごと地面に崩れ落ちた。青年の視界は黒くかすみ、全身の痛みが意識を飲み込もうとする。それでも歯を食いしばって身を守る結界を維持し続けていたが、やがて気を失う。


 巨竜は気絶した獲物の身体を無造作に掴み上げ、その巨大な手の中で力なくぶら下がるアリエルをじっと見つめる。呼吸も弱まり、完全に意識が失われていることを確認すると、巨竜はもう片方の腕をゆっくりと変形させていく。皮膚が裂け、血にまみれた筋肉が膨張し、粘液を滴らせながら骨が露出する。


 それは槍のように鋭く、逆棘さかとげがびっしりと生え揃っていた。巨竜は粘液を滴らせる骨で、アリエルに最後の一撃を加えるべく、ゆっくりと獰猛な刃を構える。


 そのときだった。空気を引き裂くような鋭い音を立てながら矢が飛んできて、巨竜の眼球に突き刺さる。どろりと濁った血液が溢れ出すと、醜い化け物は森を震わせるような怒りの咆哮を放った。しかし森に潜む脅威に対して顔を向けたときには、めくれた布の隙間に別の眼球が形成されているのが見えた。


 傷ついた眼球の周囲では脈打つように肉が痙攣し、損傷した眼球ごと、突き刺さっていた矢を体外に押し出していた。


 そして怒りに狂った巨竜は、鷲掴みにしていたアリエルを放り投げると、暗闇の中で弓を構えていたラファの姿を捉える。つぎの瞬間、爆発的な勢いで地面を蹴り、巨体が暗い森のなかを猛然と駆けていく。障害となる木々が押し倒され、苔むした大地を裂きながら一気に距離を縮めていく。


 ラファは突進してくる巨竜と対峙すると、手にしていた長弓を収納し、素早く腰の刀を抜き放った。暗闇の中で鈍い輝きを放つ刀身は、暗部と思われる手練れの戦士が手にしていた業物だった。少年はその刀を構えながら、体内の呪素を使い身体能力を引き上げていく。


 巨竜が眼前に迫ると、少年は地面を強く蹴り、風のように軽やかに跳躍し空中を舞った。そして化け物の頭上を飛び超える瞬間、目にもとまらぬ速さで刀を振り抜く。切っ先は巨竜の頭部を斬り裂き、その反動で少年は空中でくるりと回転しながら着地する。


 悍ましい巨竜の勢いは止まることはなく、傷ついた頭部から黒々とした血液を流しながら、そのまま巨木の幹に激突した。鈍い音が森に響き渡り、樹木は根元から軋みを上げて傾いていく。幹に頭部が食い込んだ化け物は抜け出そうと、その場で暴れる。


 その間にラファは素早くアリエルの元に駆け寄り、すぐに怪我の状態を確認する。息は微かにあるが、呼び掛けても意識は戻らない。少年は眉をひそめながら、すぐに護符を取り出し、小さな声で呪文を唱えながら護符をアリエルの胸にあてがった。護符が淡い光を帯び始めると、冷たくなっていた青年の体温がじわじわと戻ってくるのが分かった。

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